マガジンのカバー画像

小説『黒い猫』

15
原稿用紙換算 395枚
運営しているクリエイター

記事一覧

黒い猫(目次)

幼き頃から正しさを求めてきた、賢いだけに不幸な青年。 彼が深く傷ついたのは、多くの人間が『その場限り』『自分だけは』と、 すべきことをしない世の中。 選挙だって、いじめだって、道を歩くのだって……。 世の中が正しくないと気づいたとき(世論なんてものは一過性で正当性の欠片もない!)、彼は全人生(過去と未来)を否定され、何のために、どう生きていったらいいかわからなくなる。

1――『黒い猫』

〈14177文字〉  まずはこのことに触れておこう。  ひどく打ちひしがれた人間は――遠い空はあるものの、行先すべてを高い壁にふさがれた人間は、その者がいくら腕力のない、いじめられた経験を持つ若者であっても(そういう傾向があるのは、男であり、比較的若い人にかぎられる。この『若さ』には精神年齢も含まれる)、ある日突然、全人類に対して、ケンカをふっかけたくなる瞬間が訪れるものだ。これはともすると、女性にはまったく理解できないことかもしれない。あなたがもし、気心の知れた社員同士の

2――『黒い猫』

〈7380文字〉  その夜――。  視聴率は低迷する一方だが、律儀に――というより、初回と二話目を見てしまったことによる忠義立てから――見続けている恋愛ドラマの第五話目を見終えた向野里美は、テレビ番組をザッピングして興味を覚えるものが見つからないと、電源を落として、座ったソファの端にリモコンを転がすように放り投げた。手足を伸ばしてソファに身をもたれながら、彼女はしばし、自分の身の上をドラマのヒロインと重ね合わせてみた。 「意味わかんない……。お金持ちかなんか知らないけど、ど

3(回想)――『黒い猫』

〈11701文字〉  高校二年時の十月初旬。まだ残暑なるこの時期、里美の通う高校では、小高い山の中腹にある避暑地で学年をあげた宿泊研修がおこなわれた。文系理系半々を条件に、女子なら女子、男子なら男子だけで、ランダムに選ばれた六名のグループが形成され、一つの部屋での寝泊まりは当然のことながら、当地で催される各イベントもグループで参加することが義務づけられていた。  毎年、教員らが下準備してまで、研修の中で最も力を入れている野外行事があった。生徒主体でおこなわれる、アドベンチャ

4――『黒い猫』

〈13921文字〉  そのくせ、あのあと、里美を避けるように学校生活を過ごしたのは玉川のほうだった。当時の里美は、いま振り返るとコースに引き返してきた理由を含め、愚かしいほどに彼の言うことを信じた。また、あの頃のチャーミングの欠片もない地味な小娘でしかない自分に、なぜあれほどの自信を持てたのかも、今となってははなはだ疑問なのだが、年頃の夢見がちな乙女がなせる業として受け留めるほかないと理解するとして、ともかく、当時は彼と噂になることを何より恐れ、実のところ、教師らの救援を待

5――『黒い猫』

〈16943文字〉  衛星放送の報道番組で、宗教的対立による爆破テロ事件が議題にのぼったとき、ある解説者がこんなことを述べ立てた。 「彼らにはなに言ったって、無駄ですよ。こちらの言い分なんて、聞こうともしないし、聞いたって理解しないでしょうね。できないんじゃない。しないんです。古い言い回しですが『環境に毒されて』いるんですね。頭の半分、いや、精神科医からすれば、ほぼ完全に洗脳状態ですよ。なにしろ子どものころから銃を持たされているんですから。一定の年齢に達したら、日本でいうと

6――『黒い猫』

〈12491文字〉  バ……オホン、『なんちゃらの壁』を信じないのに、どうして一人の友達もいないのか? と言うんだね。それを説明するにあたり、必要不可欠なのが『友達』の定義だが、ここではうっちゃっておこう。狭義も広義もない。ぼくにはただの一人も友達がいないのだから。最初にわかっておいてほしいのは、損得勘定のない友情関係なんて言葉を耳にすれば、いくらぼくでも人差し指を喉奥に突っ込まずにはいられないことだ。『おれはあれするから、きみはそれしろ』仕事でいうところの、そんな同僚の関

7-1――『黒い猫』

〈10896文字〉  約束の日、約束の場所――。  待ち合わせの時間より二十分早く着いたが、すでに彼女は待っていた。ぼくが何より安堵したのは、彼女が着飾ってこなかったことだ。流行りなのか知らないが、首元に何かを巻いて来られたり、リボンのついた麦わら帽を被って来られたり、コンパのときのような化粧をほどこして来られては、かえって迷惑だった。こっちはジーンズに黒シャツ一枚――警部と同じ毎度似たような格好である。そうでなくとも、高校時代ならまだしも、今の彼女とは元の釣り合いが取れて

7-2――『黒い猫』

〈11489文字〉  ぼくは氷が解けて薄くなったアイスコーヒーを飲み干して、いつでも下げてもらえるように、通路側に移動した。彼女は窓際に置きっぱなしの空のグラスを動かさなかった。いい加減、この長話も終わりにせねばならないと、ぼくは考えた。ただし、現状のままではいけない。その前に彼女の間違った理解を正す必要があった。 「……きみの知らないことを話そう。そうすればきみの絵筆で潤色をほどこされることなく、ぼくという人間をありのまま提示できる。ぼくは小学生の頃、女子同士のいじめを目

8(回想)――『黒い猫』

〈3608文字〉 「サクちゃん、このメーカーの商品もっと仕入れられないの?」 「あ、そこは、生産力が足りなくて、それ以上は無理だと」 「そんな先方の言い逃れ信じてどうするの。電話で無理なら、カチコミかけるの。余ってるやつ、箱ごと奪ってくるくらいの気概がないとつとまらないよ、この仕事」 「は、はい。では、午後一番に行ってきます」 「午後じゃ、ダ~メ。いま行くの。ちまちま数合わせするより、売れるブランドを入荷するほうがはるかに大事なのよ。これが売れれば、他の数も動くんだから」

9――『黒い猫』

〈14245文字〉  玉川健が瞬きをし、くぐもった声を上げて目覚めると、ベッドに膝をくっつけるようにして付き添っていた向野里美が、椅子を鳴らして立ちあがった。その目には早くも涙が浮かんでいた。 「た、玉川君! よ、よかった、ぐすん、意識が戻って」  抱きしめたいのに、それができない、里美の態度にはそんなもどかしさのようなものがあった。  まだ光に順応できず眩しそうな目で、そばにいる人物に目を向けると、玉川は驚きの声を発した。 「向野? なんできみが? ア、イタッ」  上半身

10――『黒い猫』

〈12304文字〉  前章最後の場面から少し時間を巻き戻して、玉川が退院して二日目の午前――。  里美の携帯電話に、五十川警部より着信が入った。 「お会いできませんか? わたしのようなものが、ただ聞きたいことがあるというだけで、お一人暮らしのあなたを訪ねるのもどうかと思いまして」 「まぁ、あのときからしたら、そんな繊細な神経をお持ちの方とは思いませんでしたわ」 「持ってるんですな、それが。まぁそういうわけで、お近くの公園でもかまいませんので、これからお話できませんか? もち

11――『黒い猫』

〈7148文字〉  ぼくの顔を見た塩原ともう一人は、すかさず駐車場一帯に視線を走らせた。  二十秒経っても周囲に目を配るのをやめない塩原がやっと口を開いた。 「警察は? い、いるんだろ、ええっ?」 「いたら、ぼくがこうやって、一人でしゃしゃり出てくると思うかい? 名探偵じゃないんだからさ」 「おまえ、それじゃあ、本当に一人なのか……」  塩原は信じられないような顔をしたが、狡知に長けた男は(数的有利であることを意識させないよう)決して相棒に目を向けることはなかった。相棒はと

12――『黒い猫』

〈4566文字〉  車を地域警察署の敷地に乗り入れ、正面玄関前に停車させると、ぼくは運転手の横手にクラクションを鳴らしてもらい、玄関警備の警察官を呼び寄せ、後部ドアを開けてもらってから、前席のシートベルトに挟みこんでいた自分のベルトを外した。ここまで来て、二人を信用してないわけではなかったが、無駄な期待を抱かせないようにするのも、彼らへの思いやりであった。それになにより、ぼくはこのシゴトをきっちり仕上げたかった。前にいる二人は『ここには停めちゃいかん』と何度も怒られたが、完