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10――『黒い猫』

〈12304文字〉

 前章最後の場面から少し時間を巻き戻して、玉川が退院して二日目の午前――。
 里美の携帯電話に、五十川警部より着信が入った。
「お会いできませんか? わたしのようなものが、ただ聞きたいことがあるというだけで、お一人暮らしのあなたを訪ねるのもどうかと思いまして」
「まぁ、あのときからしたら、そんな繊細な神経をお持ちの方とは思いませんでしたわ」
「持ってるんですな、それが。まぁそういうわけで、お近くの公園でもかまいませんので、これからお話できませんか? もちろん、わたし一人です」
「刑事さん、いえ、警部さんでしたね――そんな五十川さんは、今どちらに? 市役所そばの市警本部ですか?」
「ええ、そうです」
「でしたら――、中央公園の売店のそばでお会いしませんか? ちょうど久しぶりにショッピングも兼ねて街ブラでもしたかったところですし」
「ご配慮痛み入ります。ちなみに、今日は彼とはお会いにならない?」
「か、『彼』って、玉川君のことですよね。わたし、あの人とはそんな関係じゃあ……。それに、昨日電話で話しましたし、退院後もそれほど経っていませんから……」
「そうですか。いや、申し訳ない。歳をとると、そんな無粋なことばかり気になってしまって。ところで、ついでのお願いで申し訳ないのですが、着く十分ほど前にお電話いただけないですか。この番号でかまいませんので」
 差しさわりのない範囲で、肘鉄を食らわせた里美であった。
「それは合理的ですね。ただしデートなら冒頭からしらけるでしょうけど」
 五十川は磊落に笑った。
「ははは、さいわい、妻と付き合っていた頃は携帯電話などなく、わたしもこんな人間ではなかったものですから、お許しください」
 刑事がわずかでも私的なことを話すときは譲歩である――本物志向の警察ドラマで似たようなセリフを耳にしていたのを彼女は思い出した。軽い胸騒ぎを覚えながら里美は問いただした。
「ねぇ、警部さん。お仕事として聞きたいことがあるんですよね?」
「はっきりそう言うとですね、向野さん、わたしは一人でうろちょろするわけにはいかなくなるので、まぁそこのところは私的な分と半々ということにさせてください」
 もう一つ質問が口から出かかったが、彼女はそれを飲み込んだ。『電話で済ませられないのですか?』など、今更聞くほうが愚問というものだから。
「わかりました。これから用意して行きますので、三十分後くらいにお電話します」
「よかった。妻なら二時間の覚悟が必要なところでした」
 里美は、少し間を置いて、鄭重に呼びかけた――語尾を上げ気味にして。
「……警部さん」
「へ、なんです?」
「ドラマ、見ないでしょ?」

 十分前に里美は電話をしたが、仕事を抜けてくるにはもう少しかかるだろうと相手の立場を斟酌しつつ、公園の外周に沿って遊歩道の木漏れ日を浴びながら待ち合わせ場所に近づいてみると、警部はすでに到着し、なにやらドリンクの自動販売機の前で思案に暮れていた。
「こんにちは、五十川さん。お早いですね」
「ああ、こんにちは。ちょうどよかった。若い娘さんがなに飲むかわからないので、立ち往生していたところです」
「『娘さん』の中では、あまり若くありませんけど。それより、ごちそうになってよろしいんですか?」
 彼女は屈託のない笑みで応えた。面映ゆさを感じるほど、警部が言葉を選んだわけでないのはわかっていたので。
 腰を折って、覗き込む里美に、さしもの警部も目を逸らせた。立場上、多種多様な女性と接触を持ち、たとえば神経をすり減らした女性を慰労することで、今と似たような場面も何度か目の当たりにしてきたが、そのほとんどが自分の心証をよく見せようという意図を持った演技であった――なんなら、わざと開いた胸元を見せるものさえも――。しかし、向野里美の場合、純粋に警部の立場を配慮して、伺いを立てたことが五十川にもわかったので、その初々しさが薄汚れたものばかり見てきた彼の目には、まぶしくて堪えられなかったのである。
「ええ、もちろん。こんなものでよろしければ」
「じゃあ、警部さんと同じ、微糖のコーヒーを」
 二人は、売店そばの解放されたテーブル席に座った。
「職場のお膝元にありながら、ちっとも知りませんでした。いい公園ですね」
 正面から乾いた風がそよぎ、芝が波立つようになびいていた。園内には犬と遊ぶ子どものほか、ベビーカーから降ろしたわが子に甘酒進上をする夫婦の姿もあった。
「こういう芝生だけの公園って珍しいですよね。真夏には水着で日焼けに来る人もいるそうです」
「本当ですか? 時代も変わりましたな……」
 二人はしばらく公園に目を向けた。
 警部が遠くを見たまま、独り言でも言うように胸中を述懐した。
「刑事になり、この歳になっても、まだわからないことがあります。肌を焼く女性と、タトゥを入れる女性です。もっとも、自分の娘でもないかぎり口出しはしないつもりですがね。今の子は知らないかな。『身体髪膚これを父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始めなり』って故事がありましてね。つまりは、父母にもらった身体は大事にせねばならないって意味です。今では自分のもののように扱っているが、その五体満足の身体は決して自分で勝ち得たものじゃないってことを忘れてほしくないものです」
 里美が視線を向けても、五十川は自分より大きなセッター犬に投げたボールを取りに行かせる女の子に見入っていた。缶コーヒーを口に運び、テーブルの上で両手に持つと、彼女も芝生に目を向けたまま静かに話し出した。
「的外れかもしれませんが、玉川君がこんなことを言っていたのを思い出しました」『玉川』という言葉を聞くと、五十川は意識を自分たちのテーブルまで戻し、一口飲んで置き去りだった缶コーヒーに手を伸ばした。「老人の独り言は悪意の塊ですって。いま思い出しても笑っちゃう。わたしたちのときも、急に話し始めたんですもの。玉川君によると、こういうことなんです――『老人の独り言ってのは、無意識にして、悪意の塊だよ。聞きたけりぁ、古本屋にでも行ってみな。彼らが独り言を言うのは、決まって、人とすれ違うときだったり、近くに人がいるときだよ。相手の本への意識を削いでも、聞かせたいんだよ。自分の存在を知らしめたいんだ。〈わしがおる〉ってな』。もっともわたしだって、肌を焼きたがる女性やタトゥを入れる女性とハグできるほど気持ちを共有できてはいませんけど」
「なるほど。相変わらず、あの人は面白いことをおっしゃる」
 警部がこちらに話を合わせてくれている以上、里美の側から話を用件へと導く必要があった。
「轢き逃げの犯人は見つかりそうですか?」
「さぁ、どうでしょうね。わたしは担当じゃないのでわかりませんが、住宅地を駆け抜けて逃げていますから、防犯カメラの映像は期待できそうにないですね。もともと轢き逃げというのは、『将を射んとすればまず馬を射よ』とばかり轢いた車を追跡するのがセオリーなのですが、今回は早々に見つかっていますからね。盗んだ車で轢き逃げを起こした悪質な犯行ですから、彼らも本気になってはいるようですが、現状ではなかなかどうも」
「そう、ですか……」
 今度は警部が、それとなく水を向けるように質問した。
「あの人はどうです? なにか新しいことを思い出しはしませんでしたか?」
「さぁ、わたしはそういうことは聞いていません」彼女は冷たく受け流すと、端然と椅子に座り直し、一つ苦言を呈するように、五十川に向かって呼びかけた。「それと、五十川さん、わたしは親しみを込めてあなたのことを『警部さん』と呼ばせていただくことはありますが、玉川君には『玉川健』という名前があります。わたしの前だからって、変に『あの人』だなんて略さないでもらえますか?」
「アッ、これは失礼」尻に針でも刺さったように、五十川も背筋を伸ばした。「ですがね、向野さん、わたしは名前を出すのをあえて避けているつもりはなかったのです。親しいがゆえに呼びづらいこともあるでしょう? 妻だって、友達の前ではわたしのことを『あの人』なんて言ってるでしょうし」
 顎を引き、上目遣いに顔色をうかがう警部を、それでも許すまじと里美は睨みつけた。
「異性が呼ぶ『あの人』と同性が呼ぶ『あの人』とでは、意味合いがまったく異なると思います。警部さん、あなたはきっと、わたしにとって玉川君が『あの人』的存在だから、幼い子に『お兄ちゃんはどこに行ったの?』と聞くような感覚で、わたしの立場をおもんぱかって、話してらしたのでしょう?」
 今度はテーブルに電気でも走ったように、警部は両腕を引き、身をのけ反らせた。
「これはこれは、あなたが理系の才女であることを忘れておりました。決してそんなつもりはなかった――といえば、うそになるかもしれませんが、是非これだけはわかっておいてください。わたしは、あなたと玉川さんとをくっつけるつもりは毛頭ないのです。そんな恐ろしいことをして、後々あなたに呪われてもたまりませんからな。あなたが彼との付き合いがわたしよりも浅ければ、あなたを玉川さんに近づけることはしないでしょうね。結婚詐欺師よりたちが悪いかもしれません。なにしろあの人、オホン、玉川さんは、女性の母性をくすぐるようなところがありますからな。それにキラリと目を光らせたときなど、なかなかの男前ときている。しかし、あなたはあの人――やっぱりそう呼ばせてください――とは中学時代からのお知り合いだ。わたしとしてはそんな神様の思し召しに、抵抗するつもりはありません。それにね、向野さん、やはり正直言って、玉川さんはわたしにとって特別な存在なのです。特別な人を『あの人』と呼ぶことは、古来、聖書にだって見られる行為なのですよ」
「警部さんのご意見はわかりました。では、そう呼んでいただいてもかまいませんが、あまり抽象的な存在になり過ぎないよう、たまにはちゃんと名前で呼んでいただけますことをお願いします」
「はい、気をつけます。ですから、どうぞ缶コーヒーだけは遠慮せずに飲んでください」
 里美は『やっぱりこの人にはかなわない』という笑みを浮かべ、和解を受け入れて、テーブルの上の缶コーヒーに手を伸ばすと、二人は同時に缶コーヒーを傾けた。テーブルについた音から、警部はすでに飲み干したようである。
「しかし、不思議ですな。今度は玉川さんの立場になってみますと、才色兼備のあなたが、こんなにも積極的に行動されているのに、すなわち、食事に誘ったり、看護されたりしてくれているのに、昨日の雨から一転、今日のような晴天のデート日和に何もせずにいるなんて。わたしだったら、退院後すぐに『リハビリがしたい』なんぞ偽って、お誘い申し上げるのに」
 里美はどことなく儚い笑みを見せた。
「警部さんは考え違いをなさってますわ。わたしが玉川君を食事にお誘いしたのは、揉め事に巻き込まれたとき、助けていただいたことに対して、お礼を言う場を設けたかったからで、もともと玉川君は望まないことでした。それに、看護――ではなく、単なる付き添いですが、それはわたしをかばってくれたことへの当然の恩返しです。それから、玉川君は警部さんにもおっしゃったようですが、自分に対して厳しい評価をする人で、普段はアルバイト生活をしていますけど、今はちょうど仕事をしていない時期ですから……そういったことも関係しているのではないかと思います。もっとも、わたしも今はまったく同じ境遇ですけど」
「じゃあ、いいじゃありませんか?」
 缶コーヒーを振りながら、平然とそんなことを言ってのける相手を、里美はムッとしたように睨みつけた。
「何がいいのです、警部さん? 今ちょっと玉川君の言ったことがわかりましたわ。低層にいる人間のことを何も考えてくれないって」
 警部は慌てて、空き缶をテーブルの隅に追いやった。
「とんでもない! 冷やかしのように聞こえたのでしたら、誤解です。考えてもみてください。同じ境遇にいる人間が一緒に力を合わせて、何がいけないっていうんです? 男と女というのは確かにこの場合、幾分障害になりかねないこともないですが、あなたも彼も、軽はずみに流れに身を任す人ではないことはわかります。まぁ彼に関しては、流れに逆らってばかりじゃなく、ときに身をゆだねるくらいの人間であってほしいところですが――ともかく、二人とも、理性的、理系的人間であられる。まぁ、ややこしいことは抜きで、有体に言えば、わたしはこう思うのです。あなたはともかく、玉川さんはあなたによって大きく人間が変わるはずだと。でも、だからって、接近し過ぎるのはいけません。そこはあなた次第ですよ、向野さん。彼の自制を簡単に吹き飛ばす力を、あなたはお持ちなのですから」
「大袈裟です。わたしにそんな力はありません。彼は再会したときから何も変わっていませんし……」
「何をおっしゃる! 目に見えて変わっているではないですか。わたしはあの人と三回、忌憚のない話をさせていただきました。一回目と二回目は、俯仰天地に愧じることなしといった風情でしたが、あなたと親しくなった三度目は、その顔に明らかな苦悩がよぎっていました。これまでの殻に閉じこもった人生を悔いている証しです。いま会えば、もっと驚くことになるかもしれません。が、たぶん、彼は会ってくれないでしょう。そんな気がしてならないのです」
 憤然としてテーブルに身を乗り出す五十川に対して、里美は心持ちうつむき加減で、小さくも端然と椅子に腰かけたまま、身動き一つしなかった。
「ええ、確かにわたしは玉川君に多くの苦悩をもたらしました。その結果、玉川君は以前ほど、わたしを拒まなくなりました。でも、それは諦めというか、よくても元同級生としての立場からです。入院中のこと、わたしが以前の同級生たちを誘って、病室でささやかな同窓会を開きました。そのとき、わたしも彼もみんなから色々はやし立てられたのですが、あとで二人きりのときに、彼はこんなことを言いました――『きみは同窓会のマドンナにまでなったわけだ。苦みを持った蓼としては付き添ってもらって申し訳ない』。事実無根はもちろん、どんな揶揄が飛んだかは、警部さんならおわかりになると思います。警部さんが、そこに置かれた空き缶のように、その上で椅子を引かれたように、わたしは二重に距離を置かれたのです。わたしに警部さんが思うほどの影響力なんてありません。玉川君はどんなときも、周りに流されることなく、きちんと自分を律することができる人です」
 椅子に深く座りなおした五十川が、言下に応じた。
「それはあなたの見立てで、わたしはそうは思いません。玉川はあなたが怖いから、あえて距離を置くよう努めているのです。あなたは地球の衛星であるお月さまのようなつもりで、彼を見守っているのかもしれませんが、彼こそ、あなたを青い地球と思い、自分を荒廃した月のように思って、あなたを遠目に見ているつもりなのかもしれない。そして彼は、そんな自分がわずかでもあなたに接近することで、遠心力と向心力のバランスを失い、あなた目がけて近づき、あなたに大損害を及ぼすのを恐れているのかもしれない。彼から目を離さないことです。遠心力が向心力にまさったとき、彼はもう戻ってくることはなくなるかもしれません」
 里美は目を見開いてじっと警部を見つめると、ふいに噴き出した――『あなたの話は恐ろしくて、もう聞いてられませんわ。お願いですから、この話は手打ちにしましょう』とでも言うように首を振りながら。
「『近づくな』とおっしゃったり、『目を離すな』とおっしゃったり、わたしはいったいどうしたらいいんですか?」
 むろん警部は、彼女の表情が語りかけるものまで、余すことなく理解していた。
「そうですね。では、こう言いあらためましょう。わたしが言ったことなど全部忘れてもらって、あなたの思うままに行動なさってください。あなたには、それだけの知性が備わってあられる。わたしの助言など、いっさい必要のないまでの」驚くべきことに、警部はここで本当に手一本を打って見せた。そして、ネクタイの小剣を引っ張り、椅子の上で腰を伸ばして威儀を正すと、里美とまっすぐ差し向かいになった。「では、今日お伺いしたかった本題に入りましょう。あまり楽しくない話ですので、切り出しにくかったのです。実はですね、向野さん。轢き逃げがあり、あなたが悲鳴を上げて彼に駆け寄り、通り沿いの方々が、玄関先に出て来られたとき、そのうちのお一人――停車していた車の助手席に近い家の方が、こういう言葉を聞いておられるのです。『よせ、あの女がいる』と。これをありきたりな発言と捉えることもできますが、わたしはどうも違和感を覚えましてね。どうして『女がいる』じゃなく『あの女がいる』なんでしょう? 実際、いつ頃からあなたたちをつけていたのかわかりませんが、たかだか数十分つけ狙った男性のそばにいる女性を、わざわざ『あの』などという指示語をつけて呼ぶでしょうか? もしかすると、轢き逃げ犯の一人が、あなたと顔見知りの人物ではないかと思い、確認に伺った次第なのです。あらためて、そういう目で再検証いただければ、何かを思い出していただくことにつながるのではないかと思いましてね」
 唐突に打ち明けられた意想外な話に、里美は困惑し、声をうわずらせた。
「そんな……犯人がわたしと知り合いなんて……でも、わたしは暗い車内で振り向く二人の男性の影を見ただけですので」
「もちろん、あなたの顔見知りでありますが、何よりもまず彼と顔見知りである人物です」
「で、でも、彼を――玉川君を轢き逃げするほどの理由を持った人ですよね?」
「わたしはそれを、タクシー強盗犯であり、彼に目撃されたからだと思っていますが、もちろんあなたがこだわる必要はありません。たとえば、この一、二ヶ月のあいだに、二人同時に顔見知りになった人物――特に若い男などはいませんか?」
 青ざめた顔で、里美はにわかに否定した。
「でもそんな……あんなひどい行為に及ぶような知り合いなんて……」
 警部は落ち着かせるように、手をテーブルから太ももに下ろし、肘を張った泰然自若たる態度で臨んだ。
「いいですか、向野さん。テレビで見る凶悪犯然とした悪役たちの顔は忘れてください。ごく普通の、『えっ、この人が?』っていう人間が、顔色一つ変えず、悪辣な犯罪をやってのけるのです」
 このとき里美の頭に、食事中に話題にのぼった塩原のことが浮かんだのは、当然のことと言えた。彼女は以前、病院のテラスで五十川にはおおまかに話していた玉川との二度の偶然の再会のうち、塩原の関係した後者について、もう少し踏み込んで説明した。そして、事件の前夜に電話があったことに触れたとき、警部の顔つきが明らかに変わった。
「ふむ。これはもしかすると――。ところで、玉川さんはその方について何か言っていませんでしたか?」まだ『その人物』とは言わず、あえて『その方』とした警部であった。
「ええ、これといっては……ただ、食事のとき、電話があったことを伝えると、ちょっとだけ考え込んだような気がします」
「その後は――事故後は、どうでしたか?」
 意気込む警部を、里美はやんわりとたしなめた。
「警部さん。だって彼、事件のことは覚えていないのですよ」
「ああ、そうでした……」
 このことを里美と言い争うつもりはないらしく、警部は黙って引き下がった。
「でも――」
「『でも』?」気力を持ち直したように、再び警部は目を輝かせた。「『でも』なんです?」
「わたしが持っているスマートホンを見せてくれって、頼まれたことはあります。自分も近いうちに買い替えたいからって」
 警部は生唾を呑むと、待ちきれない様子で続きを催促した。
「そ、それで?」
「『電話の操作だけ確認したいから教えてくれ』って言われましたので、一緒に画面を見ながら説明しました。そのあと玉川君が自分の携帯電話をわたしに渡して、『せっかくだから部屋を出てくれ』と言い、自分で自分の番号を押して電話をかける練習をしてみましたが、全然かかってこないので、戻ってみると、『病院だからやめておこう』って……」
 図に当たったように、五十川はうなずいた。今や、若い子にとってスマートホンは命の次に大事だと言うが、いやだからこそか、自分のスマートホンを預けたこと以上に、彼の携帯電話を預かったことのほうに、きっと彼女は動揺をきたしていたに違いない。その二つの情報量は雲泥の差だが、男女が知りたがることに大差はあるまい。玉川がそれに気づいてこの手段を用いたかはともかく、ふむ、客観的に見て、うまい手だ――そんなことにも警部は頭が回った。手帳を開いて彼は言った。
「なるほど、よくわかりました。では、その塩原とかいう男の携帯電話の番号をお教え願いたいのですが」
 話がここまでとんとん拍子に進展するとは思わず、里美は取り乱すとともに、あわててお詫びした。というのも、屋根に上がらせておいて、梯子を引いたようなものだったから。
「ご、ごめんなさい。それが、わたし、登録を削除してしまって、番号はわからないのです」
 新たな道が開き、得意になりかけていた警部の顔に動揺が走った。
「エッ、いや、しかし、消したのはカラオケ屋の一件のあとででしょう? だったら、再度かかってきた番号は、履歴として残ってるんじゃないですか?」
「そっちも消したんです。会いたくなければ、携帯に残したくもなかったので」
「それはいつのことです?」
 里美は警部の視線に耐えきれず、うつむいた。
「かかってきて、切り終わって、すぐです」
「じゃあ、事故に遭う前から、履歴からは削除されてたんですね……。それでは最初のきっかけだった、コンパでその男を含む男性陣と連絡を取ったお友達のほうはどうです?」
 最後のよりどころにすがったものの、今度は見込み薄なのを認めたうえでの警部の質問だった。コンパがおこなわれた直後ならまだしも、異性を求める夜の出会いの大半が一期一会なのを知るから。
「すみません、そちらもダメかと。もともと不興に終わったコンパ相手とは連絡を絶つようにしていましたし、あのとき誰が相手方の代表だったかはわかりませんが、あの夜、わたしに起きたことを報告したとき、その子、その場で連絡先を消していたみたいでしたから」
 むろん、最終的には『その子』と連絡をとり、男性陣とどのように知り合ったのかについて確認をとる必要が生じるかもしれないが、今はともかく、警部には里美から聞き知った先で当たりをつける場所があった。
「ふ~む……」
 警部は顎先をつまみながら思索にふけった――『つまりはこういうことになる。玉川はおそらく記憶を喪失してなどいなかった。轢かれる直前、振り返ったときに、彼は犯人の顔を見た。その一人が塩原という男であることに彼は気づいた。襲われた理由は、タクシー強盗を起こしたのが塩原を含む同じ二人組で、やはり彼が何らかの形で犯行を目撃していたからだろう。しかし、玉川はなぜそれを警察に隠したのか? 同情? 哀れみ? いずれにせよ大きな誤算だ。いや、もしかすると、今回の一件、あの男は自分で事件を解決しようと目論んでいるのではあるまいか。わたしにこうあるべきと主張した『自首』をやつらに促すべく……。だとしたら、それは恐ろしいことだ。相手は彼を轢き殺そうとした。次は正面からナイフで刺すこともいとわないだろう。一対一で説得が通じる相手ではないのだ。追い詰められた人間が、自由と名のつく束縛だらけの逃走生活を、あと一日、いや一時間だけでも続けたいがために、ためらいなく人を殺す現場を何度見てきたか。ともかく玉川は、彼女の携帯電話から、塩原の連絡先を探り当てようとしたが、それができなかったようだ……。どうだろうか、彼と同じところまで追いついただろうか? いや、まだ遅れを取っているように思える。何はともあれ、彼に気づかれぬまま、彼を追い抜く絶好の機会を得たのかもしれない。唯一、あの男の選択肢で褒めるべきところがあるとすれば、疑り深いこちらのお嬢さんを巻き込まぬよう仕向けたことだけだ。どうあれ、その意志だけは継続しておいてやるか』。
「ねぇ、警部さんったら!」
 さっきから里美が呼びかけていたのだった。
「ん、なんです?」
「警部さん、あなたの見立てでは、その、塩原という人が怪しいんですか?」
 その表情に何かを感じ取った五十川は、質問をいなして、逆に聞き返した。
「どうされました? その男に関して、他に何か触れてない話でもあるのですか?」
「いえ……」
「連絡の取りようがあるとか?」
「ありません……」コンパの際、私的に彼と電話番号を交換したのは彼女だけだった。
「その男とは、その日に初めて会ったんですよね?」
「はい……」
 待っても新たな話は聞けそうにないので、警部は席を立った。急ぐのは一刻も早く本部で、カラオケ屋の店主と馴染みであるという塩原なる人物を洗い出すためであるが、里美の前ではあくまでルーチンワークを装った。
「そろそろ捜査会議に戻らねばならない時間になってしまいました。ともかく、塩原のことは、数ある容疑者の一人として、調べてみるつもりですが、あなたは重く受けとめないように。肩すかしなんて、よくあることですからね。おわかりでしょうが、あなたから塩原の連絡先を探ろうなどとなされないようお願いします。万が一、向こうから電話があった場合は、わたしのことは内密に、用件だけを聞きだして、わたしにご一報ください。そうだ、念のため本部の電話番号が記載されている名刺を渡しておきましょう」

 結局、その日、里美はショッピングのための街ブラをすることはなく、重い気持ちで帰途に就いた。警部と別れて以後、ずっと同じことを彼女は思い巡らせていた。もし塩原がタクシー強盗を重ね、その目撃者を消すべく(自分を介して知り合った)玉川を車で撥ね、今も逃げ隠れているような人間だとしたら、その場かぎりとはいえ、一瞬でもあの男に心を奪われ、付き合う誓いまで立ててしまった自分の愚かさを呪っても呪いきれなかった。家に帰り着くまで、そのことで何度われとわが身をさいなんだかわからない。
 部屋の中でも、帰り着くなりダイニングチェアに座ったまま、彼女は一歩も動かなかった。『警部さんはあんなことを言ったけど、本当はわたしのほうが、玉川君とは全然釣り合わないんだ』――そう思えると、ふいに涙が浮かんだ。
 気づくと部屋は真っ暗だった。肩を落として座ったまま、眠ってしまったらしい。眠りながら泣いたらしく、涙が頬を伝っていた。夢は見なかった。里美はテーブルの上に置きっぱなしだったカバンから、スマートホンを取り出した。誰からも着信はなかった。彼女は今、無性に玉川の声が聞きたくて仕方がなかった。用もないのにかけて、いつものように叱ってほしかった。でも、今の自分には、その資格がないように思えて、画面に表示された名前を押せばつながるのに、里美にはどうしても彼の名を押すことができなかった。
 画面をキャンセルしようとしたときだった。電話に着信があり、びっくりしたが、その表示を見て、里美はなおのこと驚いた。玉川からの電話だったのである。震えているのは、電話だけではなかった。彼女はスマートホンを両手で持って電話に出た。
「も、もしもし?」
「やあ、人を待っている最中で、これといって用はないんだが、暇だったんでかけさせてもらったんだ。いま大丈夫かな?」
 彼女は泣き笑いの顔で応じた。
「正確には、寝起きだし、ごはんも食べてなくて、着替えもしてないけど、玉川君なら大丈夫」
「えっ、なんだい、そりゃ? 晩ご飯なら、ぼくも食べてないが……声に感情が入り過ぎてるようだが、どうかしたのか?」
「いま何時、玉川君?」
 いぶかしみながらも彼は答えた。こういったとき、唐突に問われたものが奇問や珍問であればあるほど、彼はいよいよの瞬間になるまで質問し返さない性分だった。
「七時――まもなく十五分になるな」
 彼女は、突然酔っぱらったようにクスクス笑うと、足を組んで椅子の上で身体を斜めにして、電話相手に切り出した。
「じゃあ、こうしない? まもなくなる七時十五分から、わたしたち、下の名前で呼び合うことにするの」
 早くもいよいよのときが訪れた玉川は、感情を抑え込んで聞き返した。
「……何があったんだ?」
「何もないわ。午前中、五十川警部さんとお話ししただけ。ところで、もう時間になったんじゃない、健君?」
 取り合うことなく、玉川は会話を続けた。
「そうか。すべてがわかった。きみが取り乱している理由もすべて」
 里美の感情は、天井知らずに明るい躁から、底抜けの鬱の闇へと急落した。
「健君、ねぇ玉川君、わたし、今日だけあなたにずっとそばにいてほしいの。それから二度と会えなくなっても、今日だけ、今日だけずっといっしょにいてほしい。だからお願い、今からわたしの部屋に来て」
「向野……答え合わせしないか?」
 玉川がまったく声の調子を変えずに言ったので、的外れなことを言っているようには聞こえず、その意味が理解できないのを詫びるように里美は聞き返した。
「エッ、何? どの答え?」
「縁飾りのついた、白のやつだったろ」
「エッ?……ま、まさかっ」思い当たったとき、里美はすでに玉川の術中にはまっていた。「それって!」
「あいにく透視はできないんでね。きみがしゃがんでおれをかばってくれたとき、バッチリ見えたよ。向野、きみは間違ったことは何もしていない。それどころか、ぼくはね、向野、きみの人を見る目を信じて、その感性にあやかって、いま行動してるんだ。おうっと、待ち人が来たようだ。起き抜けだって? 飯食ったら、外出着を用意して待っててくれ。必ず今日中に、きみに電話しよう。そのときこそ、真っ平らな場所で、ぼくらは再会するんだ」
 里美には玉川の言っていることの半分も理解できてはいなかった。しかし、彼は今日のうちに、自分に電話をかけてくれることを約束してくれた。それだけで彼女には十分だった。
「きっとよ、玉川君、いえ、健君」
「ああ、きっとさ、里美。じゃあな」


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