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11――『黒い猫』

〈7148文字〉

 ぼくの顔を見た塩原ともう一人は、すかさず駐車場一帯に視線を走らせた。
 二十秒経っても周囲に目を配るのをやめない塩原がやっと口を開いた。
「警察は? い、いるんだろ、ええっ?」
「いたら、ぼくがこうやって、一人でしゃしゃり出てくると思うかい? 名探偵じゃないんだからさ」
「おまえ、それじゃあ、本当に一人なのか……」
 塩原は信じられないような顔をしたが、狡知に長けた男は(数的有利であることを意識させないよう)決して相棒に目を向けることはなかった。相棒はといえば、その彼の横顔をガン見――一途に直視――していた。
 とはいえ、弱気になるのは得策ではないと見たらしく、わざと彼は強気に出た。
「じゃあ、なんだ? こんなところで待ち伏せやがって、いったい何の用だ?」
 ぼくは肩をすぼめて、受け流した。
「驚いたな。人を轢き逃げしておいて、『何の用だ?』なんて」
 もはやごまかしようのない関係にあるのは塩原もわかっていたはずだった。あの瞬間、たとえ零コンマ何秒でも、お互いの視線が交わり、そのときには意思の疎通ができたのだから――『そういうことか?』『ああ、そういうことさ!』。
 塩原はドアに挟まる形で軽自動車の屋根に片肘をつくと、態度がなおざりに変わった。しかし、到底あきらめたようには見えなかった。
「……言えよ、用件は何だ?」
「さっきは驚きすぎて、耳が死んでいたようだな。『警察署へ行こう』と言ったんだ」
「……なんでだよ」
「重ね重ねおかしなことを言う。ぼくを轢いたからであり、そうまでしたということは、タクシー強盗をやったと自ら認めたからさ」
 相棒は交渉に口を挟まない性格らしい。それほど、塩原との絆は固く、根強い信頼関係が成り立っているようだ。それはそうと、轢き逃げの実行犯であるこの男に、ぼくは不思議なほど恨みを感じてはいなかった。
「タクシーのほうは誤解で、轢き逃げはモテ男に嫉妬したからかもしれないぜ」
「きみは、嫉妬心の欠片も持ち合わせているように見えないがね。百歩譲って、きみの言うとおりだとしても、ぼくはきみらを警察署に連れて行かねばならない」
「なぜだ?」
「決着をつけるためさ。はきだめのようなぼくらの人生に」
「『ぼくら』?」
「ああ。だからきみは、ぼくに恩義を感じる必要はないんだぜ」
「なに言ってんだ、おまえ?」初めて隣の男が、からかうように横やりを入れた。「塩原、こいつはおれらを自首させたいようだぜ」
 誰の名義かは知らないが、塩原は車の足掛けの辺りを野蛮に蹴りつけた。
「んなこたわかってる。おれが言ってるのは、なんで轢き殺そうとした相手に、そんなこと持ちかけるのかってことだ」
「『轢き殺す』?」ぼくはその発言を一笑に付した。「あの瞬間すら、そんなことをされるつもりは、毛頭なかったよ。なぜぼくが大した怪我をしなかったと思う? ぼくは中学、高校と同世代の自殺記事ばかり読みふけっていた。どうやったらこんな人生に見切りをつけて、うまく死ねるかばかり考えていた。おかげで、事故に遭っても死なない術まで学んじまったよ。そんな人間をセダン車で轢き殺そうというのが間違っている。上手くやるならフロントの垂直なトラックかなんかで来ないとな。前に突き飛ばしておいて、車底に巻き込むんだ」
「……次は覚えておこう」
 返事をした運転席側の男と向き合い、ぼくは言葉を交わした。
「距離が近い分、殺した人間の恐怖におののく顔が、頭から一生消えないらしいから、そのつもりで」
「思い出した。だから、てめぇ、あのとき笑ってやがったのか?」
「ぼくが笑っていた?」
「ああ、おれは死にゆく人間は、思いがけず笑うもんかと思ったが、そうじゃなかったんだな」
「そうか、笑っていたのか……だとしたら、自分自身を追い詰めるきみたちを見て笑ったんだろうな」もしくは、死ぬことばかり考えていたことへの罰が、いま下されたと思ってかである。「ところで、おたく」さっきから視線を泳がせ、策を練るように考え込んでいる塩原に呼びかけた。「電話が鳴っているようだが?」
「ほうっておけ。おれは知らない番号には出ないことにしているんだ」
「よくそれで、ナンパ師がつとまるな」
「あいにく、ナンパ師ではないんでね。あの女とだって、あのとき本気だったんだぜ。久しぶりに『この女となら、人生変えられるかも』って思ったくらいさ。おまえらの慣れ染めをつくった身としてはな」
「……じゃあ、轢き逃げに関しては許してやる」
 一瞬、凝然となるも、あきれた様子で、塩原は溜息をついた。
「あのさ、おまえ、轢き逃げってのは、親告罪じゃないんだから、許す許さないってのは関係ないんだぜ」
「被害者がそれほど怖くなかったって言えば、罪は軽くなるさ」
 二人が顔を見合わせた。
「おまえ――面白いやつだな」
「きみら、コンビほどじゃないがね。事務所に所属したら、さぞかし人気が出るだろうよ。割と早く、単独公演だってやってのけるかもしれないぜ。ところで、出ないんなら電源を落としてもらえないかな? 車中ではうるさいだろうから」
 塩原は念を押すように問いただした。
「乗るんだな?」
「ああ、乗るよ。きみら二人が前で、ぼく一人が後ろってのが条件だが」

 そうして三人は、ぼくの言う条件のもとで車に乗り込んだわけだが、ぼくが何か言い始めるより前に、車は勝手に走り出した。
 前席に向けて、ぼくは尋ねた。
「どこに行くんだろう?」
 二人の態度は、車に乗る前と、目に見えて違った。
「おまえのせいだぜ、まったく。腹が減ってたってのによ」
 だれた車内の空気の中で、ぼくだけが緊張感を保っていた。
「……タダのカツ丼を食べに行く素振りじゃないな」
 助手席から首を振り向けて、塩原が狡猾そうに笑った。
「知り合いが言ってたぜ。最近じゃあ、カツ丼は食わせてもらえねぇんだと。玉子丼か、よくて親子丼らしいぜ。ところで、おまえの持ってるコーラ、飲まねぇならもらえねぇかな? なんでもいいから腹膨らましてぇんだ」
「もう、口をつけてあるんだが……」
「なんだよ。飲んであるのかよ。全然口つけねぇから、まだかと思ったぜ。一応聞くが、おまえ、ペットボトルはどんなふうにして飲むよ?」
「丸ごと口つけて飲む派だよ。よければ、飲むかい?」
「いるかよ! チッ、じじいが茶飲むみたいな飲み方しやがって、炭酸の飲み方としては最低だ!」
 車線変更といい、ウインカーのあげ方といい、知った道を突き進んでいるようだった。二人が警察署に行き慣れてないのは聞くまでもなかった。
「いい加減教えてくれ、どこに行く?」
 優位性を誇示すべく厳しい態度で迫ったが、彼らは聞く耳を持たなかった。
 二分ほど間を空けて、助手席の塩原が前を向いたまま告げた。
「おまえにはこれから、あることをやってもらい、おれらの仲間になってもらう」
 運転手の男がルームミラー越しにくちばしを挟んだ。
「おれらは『ヤだね』って断ったが、新入りには打ってつけの仕事があるのさ」
 思いのほかよくしゃべるのを驚くように、一旦隣の男に目を向けると、塩原が続けた。
「ある銀行のATMに行って、お金を引き出してくれば、その一割五分――つまり十五パーがいただけるっていう楽な仕事さ。もっともおれたち三人にだがね」
 ぼくは静かに息を呑んで、つぐんだ唇を開いた。
「……詐欺の出し子ってやつか?」
「チェッ、最近のテレビは何でも教えやがる。おかげでこっちも助かってはいるがな」
 今一度、指揮権がどちらにあるか知らしめるべく、ぼくは前席の左右の肩口を両手で掴んで、前へと身を乗り出した。
「どうしてぼくがそんなことをせねばならない?」
 塩原は毫もひるまず、言葉だけで突き放すように言った。
「おまえはやらざるを得ないのさ……彼女を巻きこみたくなければな」
「……『彼女』? 誰のことだ?」
 とぼけた態度で聞き返した瞬間、渋滞でもなく、赤信号でもないのに、急ブレーキが踏まれた。ぼくは両肩を前の座席にぶつけ、その反動で、後ろの座席にそっくりかえった。追い抜き様、何台かの車がクラクションを鳴らした。前座席の律儀なシートベルトは、警察に捕まらない以外にも、目的があったらしい。車は幹線道路を再びゆっくり走りだした。
「おまえがあのとき助けた女のことに決まってるだろう。名字は忘れちまったが、サトミとかいう女だ」
 ふいに車内に、小馬鹿にするような笑みが漏れた。誰あろう、ぼくの口によるものだった。
「悪いな、轢き逃げのあと、記憶喪失にかかってしまってね。どの女性だって?」
 今度は、速度が出てなかったこともあり、車はタイヤをきしませることなく静かに路肩へ停車した。ぼくには見えなかったが、塩原が停めるよう、合図を送ったらしかった。彼は運転席の左肩に右手をかけ、後部座席を振り向き、ぼくと顔を向かい合わせると、歯をむき出しにして啖呵を切った。
「よく聞け。タクシー強盗に轢き逃げとくりゃあ、それなりの罪だ。それから逃れるためだったらなんだってする。こっちが本気だってことをいい加減、理解しろ。単身で乗り込んでくるおまえが馬鹿なんだよ。おまえに罪を暴かれたくらいで、おれらがほいほい警察署に行くとでも思ったか。てめぇが名探偵じゃないならなおさらだ。おまえが仮に、ナイフや拳銃を持ってたって同じことさ。どうせ上手く扱えやしないだろうからな。二人がかりで、ボコボコさ。ところで、なぜ車に乗せる前に、おまえをボコボコにしなかったと思う? ボコボコにしても、結局後部座席に乗せることになるからさ。そこはな、ドアの根元にあるスイッチをひねって閉めると、もう内からは開かないんだ。チャイルドロックというやつさ。自殺願望から一転、正義を気取りだした馬鹿なガキには打ってつけの代物さ。おれがカードと暗証番号を手に入れてくる。てめぇはそれを使って、金を引き出してくるんだ。だがもし、そのままおまえがとんずらしやがって、どっかの派出所にでも逃げこんでみろ。今後おれらは二度とあのファミレスには行かないし、おれの顔がばれてる所にも立ち寄ることはない。少なくとも数週間かは逃げおおせる。そして、ある日の深夜、あの女の部屋にベランダからでも忍び込み、寝込みを襲うことになる、そのとき、おまえがいれば、こんな見ものはないがな」
 ぼくだけに見えたことだが、そのあいだ、運転手の男は怏々として楽しまず、計器盤を睨みつけていた――ルームミラー越しに確認できたのだ。話が終わると、運転手はタバコを吸い始め、『おれにもくれ』と、塩原も座席に戻ってタバコを吸い始めた。車内は、ぼくの返事待ちの状態だった。
「……あのう、ぼくにも一本もらえないかな?」
「ああ? チェッ、おまえ吸うのかよ」ぼくとしてはその『チェッ』の意味するところを知りたかったが、今は黙っていた。塩原が続けた。「ダメだ。タバコも使いようによっちゃ、武器になる。煙で我慢しろ。で――、てめぇはどうするんだ?」
「……行くよ。行くしかないんだもの……」
「つったく、最初からそう言やよかったんだ。おれはよ、自分の身の程をわきまえないやつが、この世で一番嫌いなんだ。状況をなんにも理解していない若造が、知る人ぞ知る大人物を前にして、横柄に自慢話を始めた場面なんかを目にすると、一言も声かけることなく殴り倒してやりたくなる」
「ぼくも同感だよ。総理大臣を口汚くののしる解説者がいると、その薄い頭髪を引っ張って、椅子から引きずり倒したくなる。『おまえこそ何様だ』ってね」
 運転手の男が、プッと噴き出した。塩原は横の男を睨みつけながら突っぱねた。
「そんなのと、一緒にすんな」
 車はしばらく無言で走り続けた。
「ところで――」後部座席の真ん中から、ぼくは二人に向けて話しかけた。「どうして、きみたちは出し子のシゴトを断ったんだろう? 素人考えで申し訳ないけど、タクシー強盗するより、はるかに楽なように思うんだけど。そりゃ、タクシー強盗は驚くほどもうかるときもあったろうけど、しけた日もあったろうから。出し子は決まった額がもらえるんでしょう?」
「……うるせぇな。シゴトにはポリシーってもんがあるんだ。どっちが危険か知りもしねぇくせによ」
「なるほど。だとするなら、もしかして、女に手を上げないっていうのも、きみらのポリシーなんじゃないの?」
「何が言いたい? まだ説得するつもりか?」
「ううん、これからトリオで活動するからには、ポリシーを知っておきたいと思ってね」
「楽しそうだな、おまえ。いよいよわからせなきゃならないのか?」
「ねぇ、塩原――そんな目で見ないでくれ。これはお笑い界のルールで仲間内に格差があってはいけないんだから――、きみはさっき、ぼくが拳銃やナイフを持ったって敵いっこないのに、正義感だけをたずさえて、一人で来た愚か者だって言ったよね。まさしく、ぼくもそうだと思う。まったくきみらとは、気が合う気がする。だから、これを持ってきたんだ」ぼくは二人のあいだにコーラを突き出して、緩めておいたフタを親指だけで外した。さながら、栄養ドリンクのCMのように。「黒いけどね、ガソリンなんだよ」
 ぼくは二人のタバコの位置に気をつけながら、座った足元に中身を少々振りまいた。二人がわめき声を上げて、ドアのほうへと飛び退いた。タバコの匂いに負けない、揮発油の臭気が、狭い車内に広がった。
 車体が揺れたが、ぼくがペットボトルを引いたことで、すぐに立ち直った。
 前の座席は上を下への大混乱におちいり、激しい罵倒が飛び交った。
「て、てめぇ、意味わかってんのか?」
「バ、バカ野郎。車ごと吹っ飛ぶぞ!」
「お、おい、窓を開けろっ」
 ぼくはもう一度、ペットボトルを前に突き出した。今度は親指でフタをしていた。
「ダメだ! 窓を閉めるんだ! タバコ目掛けて、振りまくぞ!」
 塩原が震える声で、わめきたてた。
「お、おまえ、何やってるのかわかってんのか? ただごとじゃ済まないぞ。少なくとも火が付いたら、確実に死ぬのはおまえなんだぞ!」
「かまわない……。お二人さん、ぼくが冗談でこんなことができると思うかい?」
 追い詰められたさかしらな人間に見られるように、内心浮足立っていても、頭では急ごしらえで別の切り口を探り出し、それが皮相な考えと承知していながらも、塩原は精一杯冷静ぶった説得を試みた。
「一つ忠告しておくが、ガソリンってのは、プラスチックを溶かすんだからな。いつからそいつを持っているかは知らんが、つまりそのうち……」
 ぼくは取り付く島もない、不退転の決意を見せつけた。
「覚悟の上だ!」
 密閉された車内では荒い息づかいだけが聞こえた。アクセルから足が外された車は、歩くような速度で走っていた。
「……なぁ、塩原。用意してきている時点で、こいつはマジだ。いや、ガソリンのことを言ってるんじゃない。こいつは死ぬ気だってことさ、偶発的なものも込みで」
「ああ、そのようだ。あの番組を見たらしい……」
 私語を慎ませるよう、再度指導的立場に成り代わったぼくが命じた。
「もう少しスピードを上げて走ってくれ。それから、実を言うと、ライターも持参しているんだ。コンパなんかで遊べない、一回でちゃんと火がつくターボ式のライターをね」
 仕上げに、ぼくは税込八百九十円のベルトを引き抜くと、それを二人のシートベルトをつなぐように束ねて、バックルに通し、引っ張って、残りを手に巻き付けて握った。これで、仮にシートベルトの留め具を外しても、接続部が引っ掛かって、ドアから飛び降りられなくなった。
「さぁ、細工は流々、あとは警察署へと向かうまでだ」
「なぁ、てめぇ」塩原は前を向いていたが、その声はこれまでにない凄みを帯びていた。「おれらが車を思いっきりぶつけて、てめぇの指先からガソリンがこぼれ落ちる隙に、一か八か逃げるってことは考えなかったのか? 少なくともこの車の助手席にはエアバッグは搭載されちゃいないんだぜ」
 最後の一言は、せめて自分だけは逃げおおせる可能性が高いことを示したわけである。
「考えたさ。でもね、こうも思った。塩原、あんた、つま先立ちなんて必要としない、踵がしっかり地面についた、生まれながらの色男だろ。だったら、最後まで色男であり続けろよ」
 ひっきょう、ぼくに頼みの綱があるとしたら、コレに尽きた。向野を信じ、あのとき顔を合わせた自分の目を信じたからこそ、ぼくは今この場にいるのだ。そして、その思いは、こうして話をするうち確信へと変わっていた。そうでなければ、ぼくは彼らを追うことなどしなかったろう。
 しばらくの無言のあと――おそらくその間、学生時代など若き日の思い出を回想したとぼくは信じる――、助手席がきしみ、ヘッドレストに頭をもたれると、塩原は横を向き、声をいつもの調子に戻して、相棒に告げた。
「警察署に向かえ、横手。おまえのケツはおれが持つよ。そういや自分からやると直訴したおまえには珍しく、轢いたことを後悔してたっけ。こいつが逃げるより先にあの女を突き飛ばしたんで」
「フン、相撲取りほど太っちゃいねぇ。てめぇのケツはてめぇで拭くさ」

 警察署が目前に迫ると、ずっと黙り込んでいた塩原が、突然口を開いた。
「ちょっと思い出したことがある。前にカラオケ屋で履歴書を確認したときには、ろくすっぽ気にもしていなかったが、最後に、出身大学と学科、おまえの名前を聞かせてくれ」
 ぼくはその三つを教えた。
「フッ、やっぱりな。……ああ? やなこった。この『やっぱりな』のわけは、てめぇには死んでも教えるもんか」


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