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9――『黒い猫』

〈14240文字〉

 玉川健が瞬きをし、くぐもった声を上げて目覚めると、ベッドに膝をくっつけるようにして付き添っていた向野里美が、椅子を鳴らして立ちあがった。その目には早くも涙が浮かんでいた。
「た、玉川君! よ、よかった、ぐすん、意識が戻って」
 抱きしめたいのに、それができない、里美の態度にはそんなもどかしさのようなものがあった。
 まだ光に順応できず眩しそうな目で、そばにいる人物に目を向けると、玉川は驚きの声を発した。
「向野? なんできみが? ア、イタッ」
 上半身を起こそうとした玉川は、右肩に針で刺されたような痛みを感じた。そこは車体から転がり落ちたとき、最後に打ちつけた場所であった。
「起きないほうがいいわ」里美は看護師さながら安堵させるように微笑むと、浮かせた彼の首の後ろに左手を、右手を胸上に当てて、再びゆっくりと玉川をベッドに寝かせた。顔はお互いの吐息が感じられるほどの距離だった。「まだ無理しちゃダメよ」
 目のやり場に困った玉川であった。そのうち、自分がすっかり病院着に着替えていること、物が少ない閑散とした一人部屋に居ることに気づいた。
「ここは、病院、だよな?」
「うん。あのあと、ここに緊急搬送されたの。安心して、打ち身や擦り傷はあるけど、さいわい脳波や骨に異常はなかったわ。先生によると、相当運が良かったんだって」
「『あのあと』?」
 けげんな顔で尋ねる彼に、里美の笑みはスーと消えて真顔になった。
「……玉川君、教えて。わたしは誰で、あなたとはどういった関係?」
「ひっかけ問題のつもりかい? あいにくだが、全部答えられるよ。きみは向野里美。高校の同窓生であり、中学の同窓生でもある」
「じゃあ、わたしと今日会ったのは、覚えてるのね?」
「今日? あれが今日なら、もちろん覚えてるよ。一緒にスパゲッティを食べたろう?」
「そう。そして実際には、あの店を出てからまだ五時間しか経ってないのよ。それで、そのあと、食事を終えてからは、覚えてる?」
「一緒に駅に向かった記憶はあるけど……はて? 駅での記憶がないから、そのあいだに何かあったんだろうな……」
 里美は、二歩ほどたたらを踏んで、立ち尽くした。
「わ、わたし、先生呼んでくる! 動いちゃダメよ。そこに居てね。すぐ戻るから」
「赤ん坊じゃないんだからさ」
 彼の冗談も、彼女には通じなかった。

 里美は白衣をまとった若い女性医師を連れて戻ってきた。女医は、落ち着き払った患者に、瞳孔反射で神経や脳に異常がないことを確認すると、彼の名前、住所、要するに迷子に尋ねるような質問を一通りおこなった。玉川はそれにすべて簡潔に答えた。緊迫した状況を理解し、二人の女性にあやされるような格好の彼も、ここでは笑いを誘うようなまねはしなかった。『なぜ、あなたがここに居ると思う?』そう質問されたとき、彼は初めて言葉を濁した。『事故か何かに巻き込まれたんでしょう?』『それは、結果から原因を推測しているのよね。考えるんじゃなく、現実として何があったか、覚えてないかな?』。玉川は助けを求めるように里美を見たが、里美は下唇を噛んで、その視線を受け止めるばかりで、何も答えてはくれなかった。玉川は返事を待つ女医に顔を戻すと、視線を落とし、静かに首を振った。女医はその場を里美に任せ、先輩医師を呼びに向かった。まだ四十代とおぼしき、白髪の医師と二人きりで、三十分ほど話した結果、玉川は、事故があまりに強い衝撃となり、その前後の記憶が抜け落ちた記憶障害、すなわち逆行性健忘であると、診断された。
 ドアを開け、ビクリと肩をもたげる玉川を見たとき、里美は胸が締め付けられる思いだった。ゆっくりと彼のそばに近づき、何事だろうと見上げる彼に、彼女は顔を寄せ、左頬同士を合わせると、背中に手を回し、優しく抱きよせ、涙を一筋流した。
「生きててくれて、ありがとう」

 そのすぐあと、五十川警部が息せき切って面会に駆けつけた。警部は、ついさっき署内で事故のことを仄聞し、担当官に話を聞いてから、すっ飛んできたのだった。
「ハァハァ、怪我は――、怪我はどんな具合だね、玉川君?」
 飲んでいたお茶のペットボトルを下ろして、玉川は応じた。
「あ、警部さん。こんばんは」
「『こんばんは』じゃないよ、まったく。でも――、うん――、表情は明るいし、怪我も大事にはいたらなそうで本当によかった」
「運に恵まれたそうです。車体の下に巻き込まれてたら、きっと死んでたでしょうね」
 左こぶしの下に右手の甲を滑らせ、手振りで運の悪かった場合を表現して見せる玉川を、五十川はいかめしい顔した厳しい目でたしなめた。
「あのねぇ、きみ、笑って言うことじゃないんだよ。ところで、こちらの方は?」
 部屋角に下がって、見守っていた里美が自ら名乗り出た。
「こんばんは。わたし、向野里美と言います。玉川君とは――」どういう関係が適切か、一瞬言葉を詰まらせた里美であった。「その、高校の同窓生なんです」
「こんばんは。これはこれは、あなたでしたか、彼を救った立役者というのは」
 抜き差しならぬ言葉を耳にした玉川が、二人に割って入った。
「エッ、それはどういう意味です?」
「ご存じない? ということは――」警部は玉川から里美へ視線を戻した。「向野さん、あなたはまだ話していらっしゃらないんですか? あなたのご活躍を」
「え、ええ、『ご活躍』とか、そんな大げさなことじゃありませんし……、別に話すまでもない、当然のことをしたまでですので……」
 事実彼女はそう思っていて、決して謙遜したつもりもなかった。その顔に浮かんだ含羞の色は、ただ単に五十川があまりに大仰に言い過ぎるからであった。
「とんでもない。あなたが間違いなく彼を救ったのですよ」
「何の話です、警部さん?」
 汲みやすいと見た警部のほうに、玉川は食い下がった。
「わたしから話してもよろしいですか?」里美が伏し目がちにうなずくのを見て、五十川が説明を引き受けた――というより、当人が望んでもない説明を買って出た。「きみが轢かれた直後のことだよ。一瞬死んだように横たわったきみだったが、向野さんが悲鳴を上げてあなたのもとに駆けつけるや、あなたは意識を取り戻し、立ち上がろうとしたそうなんです。彼女を守らねばならないという強い意志が、もはや精神力だけであなたを蘇らせたのかもしれません。その様子を十五メートルほど先で車を停めてうかがっていた、あなたを轢いた車の運転手らは、あなたが生きているどころか、重傷ひとつを負っていない様子なのを見て、今度はバックのまま、今一度轢いてやろうとエンジンをふかしだしました。でも、こちらの向野さんは頑として、あなたの前を譲らなかった。片膝立ちになり、両手を広げて、あなたをかばったそうです。『どけぇ、どかないと一緒に轢くぞ』との罵声が運転手から放たれましたが、向野さんは動かなかった。そのとき異変に気づいて、通り沿いの住民が一斉に表へ出てきたことで、犯人らは逃げ去ったのです。ちなみに、その車は犯行のたった二十分前にコンビニで盗まれたものでした。その後、エンジンをかけたまま、乗り捨てられていたのが見つかっています。ボディに多少の凹みはあったもののフロントガラスは割れていなかったそうです。犯人らの目論見は外れ、車はそのまま、警察に見つかるまで放置されていたのですから、そうそう同じくわだてを持つ悪人はいなかったのですな。まったく日本というのはいい国です。たまたま犯人らはあなたを見かけて、衝動的な凶行に及んだのかもしれませんね。さて、教えてもらいましょうか、玉川さん。彼らは――確か二人組みでしたよね――、どうしてあなたの命を狙ったのか? 時期的にも、タクシー強盗の一件と深く関係しているように、わたしには思えるのですが、違いますか?」
 玉川はまだ警部の語った前半部に心を奪われていたようであった。決まり悪そうにする里美を、ぶしつけなくらいじっと見続けていた。里美は記憶障害に関して、本人を前にして自分から他人に打ち明けるべきではないとの遠慮と、玉川から感じられる『明かしてくれるな』との雰囲気を感じとっていた。しかし、話の最後になって、五十川により立て続けに、思いもよらぬ疑問が提起されたことで、彼女は居ても立ってもいられず、大事な話の腰を折ることを辞さず、警部に質問と非難をぶつけた。
「あ、あの、刑事さん、その『タクシー強盗』って、いったい何の話でしょうか? もしかして、最近頻発している、あのタクシー強盗のことでしょうか? それにあなたは、今回の轢き逃げ事件が担当の刑事さんではないのですか? 最初から親しく話されていたので気にはなっていましたけど……。それに、玉川君の命を狙った――って、いったいどういうことなんです?」
 そんな矢継ぎ早な抗議に対して、警部は当然至極とばかり、もっともらしくうなずいて見せた。
「申し遅れました、向野さん。わたくしは、市警本部の五十川といいます」警部はバッチを取り出して、掲げるのではなく差し出すように見せたが、里美の視線は警部の顔に注がれたままだった。「ええ、あなたがおっしゃられたとおり、わたしの担当は、今回の轢き逃げではなく、いま話しましたタクシー強盗の事件なんです。むろん、向野さん、彼を犯人と疑っているわけではありませんよ」
 ひそかに胸をなでおろした里美であった。もちろん、玉川がタクシー強盗をするなんてあり得ないのは里美にもわかっていたが、間違って逮捕されて人生を狂わされた人をテレビなどで知っているからであった。それにしても、里美にはどういう形であれ、『強盗』なんていう犯罪に、彼が関わりあるかのように言う警察官に、憤りと不信感を抱かずにはいられなかった。
 安堵を覚えた気持ちをさとられぬためにも、彼女は前がかりに抗議をした。
「ではなぜ、いったいどうして?」
 五十川は、あらたまった咳払いをして、その質問に答えた。顔こそ向けなかったが、『あなたも第三者の立場でお聞きなさい』と玉川に呼びかけているようであった。
「わたしはね、向野さん、この方に協力を仰いでいるだけなのです。この方は、先月犯行が起きた同時刻、まさにその現場を散歩していらしたのに、何も見ていないとおっしゃるのです。それどころか、見ていたって、あんたら警察には教えたくないとまでおっしゃられたのです。理由は、われわれが社会の低層におられる方々を理解せず、餌食にさえしているからで、自分はどうあろうと、同じ低層にいる『仲間』を見捨てるわけにはいかないと言われるんです」そこで警部は、すっかり肝を潰した里美をその場に放置し、玉川を振り返った。その自信みなぎる顔つきは、まるでお膳立ては整ったと言わんばかりであった。「さぁ、もう意地を張るのはおよしなさい。あなたの言う『仲間』に、あなたは殺されかけたんですよ。あのとき、あなたが犯人を見たように、犯人もあなたを見た。だから今回のような事態におちいったのです。それとも他に、一度に二回も車で轢かれかねないような恨みを、あなたが買っていたというなら、教えていただきたい。若くして、お金や名声に執着しない、いい意味で諦観の境地にあるあなたが、そんな根強い恨みを買うようには思えませんがね。こちらの美しいお嬢さんを誰かと奪い合ったというのなら別でしょうが。それでもやはり、今のあなたには、この女性の手を握って引っ張る意気地もないようにお見受けできる」肯定も否定もできずうつむく里美の姿を確認すると、話の掉尾を飾るべく、警部はまくしたてた。「最初は気にも留めなかったことでも、きみはタクシー強盗を実際その目で見ていたことに気づいたのではないですか? そこであなたは、何らかのアクションを起こしたのではありませんか? わたしが心に傷を負った女性運転手のことをあなたに話したあとで。だからあなたは狙われるはめになった。ようやくだが、われわれもタクシー強盗は、下車した近辺に車で待ち伏せる協力者がいて、二人組であろうことは突きとめました。というのも、三人以上では、報酬の面でも罪の分担という面でも、割が合わんでしょうからね。さぁ、今度こそ、その犯人の顔と、記憶にあるなら待ち伏せていた車の車種を教えてもらいましょうか? だって、あなたはあのとき、状況から推して、轢かれる瞬間には振り返って、犯人の顔を見ていたはずですからね」
 その警部の締めの言葉とほとんど重なるようにして、玉川が言葉をつないだ。
「ごめんなさい、警部さん。実はぼく、事故前後の記憶がないんです」
「な、な、なんですって!?」
 思いがけない一方で、不安が的中した気にもなって、場もわきまえず大喝した五十川であった。五十川は気が抜けたようにそうろうと立ち尽くし、まじまじと玉川の寝姿を眺め入ると、やにわに確認をはかるべく里美を振り返った。彼女は確かであることを請け合うように強くうなずいた。
 警部は、どうにか怒りを抑えつけるように、うわずらせた声で難詰した。
「ちょ、ちょっと待ってください。では、今日のことではなく、タクシー強盗があった日のことはどうなんです? いくらなんでも、それは覚えているのでしょう?」
 玉川は申し訳なさそうに、下を向いた。
「それが、さっきから――あなたが来てからというもの――何度も思い返してみるのですが……、まったく、なにも、思い出せないのです」
 話を聞くや、五十川は下唇に親指の爪を当て、ほとんど殻に閉じこもるように黙考にふけった。そのかたわらで、玉川が里美に声をかけた。
「向野さん、悪いけど、先生を呼んできてもらえるかな。警部さんにも説明してもらったほうがいいと思うし」
「では、わたしも一緒に」と、すかさず沈思から目覚めた五十川であったが、出口にいざなう里美に視線を定めると、突然提案をあらためた。「いえ、わたし一人で行きましょう。この方をまだ一人にはしないほうがいいでしょうから。言い忘れていましたが、誰か来るという心配なら御無用です。わたしだってここにたどり着くまで、何度バッチを見せたかわかりませんから。では、すぐに戻ります」
 二人きりになると、急に病室は静かになった。里美がたまりかねて話しかけようとすると、わずかに機先を制して玉川が口を開いた。
「もし、警部の言う通りだとしたら、ぼくはきみを二度も危険な目に遭わせたことになるわけだ」
 視線が合わさらないのは、彼が顔をそむけているからだった。里美がベッド脇へと駆け寄った。
「どうして? 誰が、車で轢かれることなんて想定できるの? それにあなたは今――」
 里美がためらった言葉を玉川が引き継いだ。
「ああ、確かに覚えていない。だが、あのときは覚えていたはずなんだ」
 両手を強く握り合わせ、様々なことを思い、案じ、憂えた里美であったが、結局思いは振り出しに戻った。
「……でも、わたし、知ってるから。あなたのこと、ずっと前から知ってるから。あなたが他人を危険に巻き込むなんて絶対しない人だって、わたし、わかってるから。それに、あそこであんなことになったのは、わたしがあなたを誘ったからなんだよ。わたし、それを、ずっと後悔していたの、あなたの目が覚めるまで……」
 里美は今にも泣きそうな顔でうつむいた。他人行儀はその責任を重く受けとめている証拠であった。本当は踏み込みたいのに、あえて一歩下がる――それは自分に罰を科しているからであった。彼は視線を送り、そんな彼女の悄然たる姿をじっと見入った。
「バカだな」高校時代を思わせる尊大な態度で、玉川は突っぱねた。「きみがいなければ、ぼくは死んでたかもしれないんだぜ。それじゃあさ、今回のことは、チャラってことにしないか?」
 突然持ち出された俗な言葉――里美は泣き笑いの顔でうなずいた。
「うん――、じゃあ、チャラで」
 そこに、五十川警部が担当医を引き連れて戻ってきた。
 担当医は事前に警部と話し合いを持っていたようだった――警部が一人で呼びに向かったのは、むろんこのためである――。玉川への問診後、タクシー強盗の件を覚えていないのも、今回の事故が与えた衝撃による、連鎖的な記憶の喪失であろうと診断が下された。事故と関係が深い記憶に、そういったことがまま起こりうるという。医師曰く『今回ひき逃げした犯人と、そのタクシー強盗犯が同一人物なのは、大いにありうることですが、医師としては早急に結論を出すことを望みません。刑事さんには、無理な記憶の覚醒を促さぬようお願いします。では、やりかけの仕事がありますので』とのことだった。
 医師は退室し、警部は残った。
 話し始める役が自分であるのをわかっているかのように、二度ほど長い溜息をついて、五十川は話し始めた。
「はじめ、きみは命を狙われたから、そんなことを言ってるのではないかと勘繰りましたが、今のあなたの顔を見て、あなたがそんな人間でないことくらいわかります。今一度聞きます。本当に記憶がないんですね」
「警部さん、さっきの医師が残っていたら、いかなあなたでも大目玉を食らうでしょうね。ぼくだっていまだ信じられないんです……、記憶がなくなるなんて……。もしも、ぼくのこれまでの行状に、哀しみの要素が足りないとおっしゃるのでしたら、少しだけでもぼくの立場になってみてください。理不尽な『なぜ』に対して、こういう態度しかとれなくなることが、きっとわかってもらえるはずですから」
「そうですか……よくわかりました。では、向野さんとも、お話ししておきたいことがあるのですが、しばらくのあいだ、付き添いをはずれていただいてかまわないでしょうか? 事故のことをわたしなりに確認しておきたいので。ここで質問してもよかったのですが、さっきのお医者さんに、あまりあなたを刺激するなと言われたばかりですからね。一階にある室内テラスに案内しようと思うのですが?」
「なぜ、ぼくに聞くのです? 彼女は立派な一己の人間です。彼女に聞くべきでしょう」とはいえ、その彼女も彼の意向を気にするように、顔色をうかがっていた。玉川は里美に向かって、いぶかしげに問いかけた。「どうしたんだい?」
「肩痛めてるし、不自由でしょうから、代わりに、看護師さん、呼んでこようか?」
 玉川はうんざりしたように左手をひたいにやり、溜息をついた。
「だからさ、きみたち、赤ん坊じゃないんだから!」
 しかし、出ていくまでの二人の対応は、まさしく赤ん坊を残していくかのような、気の揉みようであった。

 彼にとっては間の悪いことに、里美が部屋に戻ってきたとき、母親がちょうど着替えを持って来ていたところだった。母親が里美を見たときの驚きようといったら、ベッドに横たわる息子を見た瞬間をもしのいだほどである。
 里美が行儀よく挨拶し、一緒にいたときに事故に遭ったことを説明すると、母親は一層度肝を抜かれた様子で、手に寝巻を持ち、返事もできぬまま、しばらくぽかんと口を開けっぱなしで、その場にたたずんだ。
「ま、まさか、あんたにこんなひとがいたとはねぇ」
「知り合いだよ、知り合い。今日はもういい、帰ってくれよ」
「向野さん、どうかこの子を見捨てないでくださいね」
「もう、行けったら!」
 クスクス笑いながら、里美は答えた。
「はい、わかりました」

 二晩の経過を見て、新たに痺れや痛みをもよおす事故の後遺症が見つからずに済むと、その日の朝、翌日午後に退院することが決まった。記憶の欠落という治療のメスが届かず、縫合の施しようのない疾患に、病院としていつまでもかかずらってはいられないのだろう。ただでさえ、生活する上では何の支障もないのだから。とにかく、背後から迫る猛スピードの車に轢かれたにしては、奇跡に近いほど軽傷だったらしい。病院側に『だったらうちも、頑張って退院させよう』という意識が働いたかどうかは知らない。
 警察は、故意に玉川を狙って轢いたという意見が大勢を占める一方、盗んだ車で無理な運転をし、偶発的に玉川を轢いてしまい、動転した犯人が、とにかく証人を消せ――毒を食らわば皿まで――とばかり、二度轢きの凶行に及びかけたという意見も出た。その場合、女は轢くに忍びなかったということになる。あるいは、証人を消すというより、せっかく奪った車を台無しにした人間を逆恨みしての犯行だったのかもしれない、との意見もあった。
 事故から一夜明けた朝、担当の刑事が聴取に訪れたが――前夜遅く訪問したときは医師に拒まれたのだった――、お互い喜ばしい情報はなく、聴取の最後に刑事は、事件の解決に鋭意努力するが、退院後はできるだけ無用な外出は控えてほしいと玉川に依頼した。今回ばかりは、玉川も素直に受け入れた。『大丈夫ですか? 怖くはないですか?』との手帳を閉じた刑事の質問に、彼は首を横に振って答えた『どうあれ、ぼくを襲っても、もう意味がないでしょうから』。一つ付け加えておくべき点があるとするなら、事故後、玉川の態度が目に見えて神妙になったことだ。立ち去る際、主導権を握っていた刑事が敷居の上で立ち止まり、振り返った――『五十川さんから聞いた印象とちょっと違うんで驚いています。もっとも、あの方もあなたを決して悪い人のようには言いませんでしたが。あのときは、よく身を挺して女性をかばいましたね』『ありがとう、あいにく覚えていないのですが』。
 その日の午後になると、里美が現れ、三時間ほど病室に居座った。肩の腫れが引き『もう、不自由はないから』と玉川が〈もう来ないでいいこと〉〈帰ること〉をほのめかせるも、里美は『無理してないから』と狭い個室を隅々まで整頓しながら居残り続けた。その際、学生の頃の話はせずに、親戚の塾の話など自分の話題に終始したのは、事故による彼の記憶障害を思いやってのことだろう。ついでながら、事実、里美はそこまでの無理はしていなかった。アルバイトに関しては、ちょうど新たなものを選び始めた時期で、今の彼女に日課はなく、ただこの二日間、午前と夜、普段よりちょっとだけ多めにメールや電話をしていただけだった。
 そして、明くる今日も、玉川が昼食を食べ終え、本を読んでいるところに、彼女が現れた。
「こんにちは、お加減はどう?」
「やあ、こんにちは。包帯がばんそうこうに替わった箇所もあり、万事良好ですよ」そこで玉川はしおりを挟んで、パタンと本を閉じ、顔をもたげた。「――お姉さん」
「まあ、昨日のこと、まだ根に持ってるのね」
 彼女はベッドと窓の隙間に入りながら、注意深く彼の怪我したところを確認した。とりわけ、頭の包帯が取れたことは、彼女に人心地つかせた。
「別に、根に持ってなんかないさ。ただ、ぼくのほうが五センチは背が高いのに、どうして弟なんだろうって思うだけでね。あのあと、同じ看護師に、きみは事故のとき居合わせた高校時代の同級生で、親切心から来てくれているんだ、と教えると、急に態度をあらため出して、ぼくに一目置くようにすらなったんだぜ。あいにく男のほうは、扱いがぞんざいになったけど」そこで玉川はベッドの上であぐらを組むと、膝に手を置き、背筋を伸ばし、しかつめらしく話しかけた。「ところで、電話で伝えたとおり、退院が決まったよ。今日まで本当にありがとう。明日は、昼食をとらずに帰る予定だから、来なくて大丈夫だよ。落ち着いたら、ぼくから電話する」
「うん、玉川君がそのほうがいいなら、そうする」それだけ言って、里美はカーテンを束ねる留め具を吊るしたが、つとその手を止めて、横顔だけを見せて再び話しかけた。「でも、今日はちょっとだけ、わたしのわがままを許してね」
 彼はちょうどリクライニングさせたベッドに身を投げ出したところだった。
「うん、何のことだい? この恩返しにはなんだってするつもりだけど……。そういえば、今日、きみ、誰かに会ってきたの?」
「ど、どうして?」
「表情が――なんだか、明るいからさ」化粧が少し入念なのは触れないでいた。
「あ、あとで言おうと思ってたけど、実は四時に人と会う約束してるの。五時頃には戻るから安心して」
「安心も何もないよ。きみがそれでいいんだったら、ぼくはどうだってかまわないから」
 深追いはしないと決めてはみたが、やはり気になって、かすかな鼻歌が聞こえる彼女の後姿を、彼は一抹の不安を覚えながら見つめ続けた。

 まもなく夕方五時になろうとするとき、廊下がざわめき立ったと思いきや、引き戸が勢いよく開けられた。
「いよお、久しぶりぃ」
「おれらのマドンナを救った戦士の顔を見に来たぜ」
「うわぁ、玉川君だ。本物だ」
「当たり前だろ」
「玉川君、全然変わんないね」
「おまえが変わり過ぎなんだよ。なんだよ、そのアイシャドウ」
「ねぇ、あんた、さっきからうるさい」
 五人いるあいだを割って前に出ると、最初の玉川の反応を誰より恐れていた里美が、さながら許しを乞うように話しかけた。
「あのね、玉川君。報告がてら数人の同級生と連絡を取ったら、みんながあなたに『会いたい』『お見舞いしたい』って言うから連れて来ちゃった……」
 玉川は最初、肝を潰したようにあ然となったが、一人ひとりの顔を見て愁眉を開くと、喜びの表情で、ベッドから降りかけた。が、みなが怪我人を立たすことを許さず、彼はほとんど抱えられるようにして、ベッドに腰かけた。
「あ、ありがとう。みんな、仕事もあるだろうに。ぼくなんかのために申し訳ない」
「水臭いこと言うなよ。それより、玉川、雰囲気がちょっと、いやだいぶ変わったな。見た目はほとんど変わらないんだが、目つきの鋭さがなくなったというか、眉間のしわが消えたというか、そんな気がする」
「だとしたら車に撥ねられて、憑き物が落ちたのかもね」
「おいおい、みんな、玉川が冗談を言ったぞ。やい、向野、おまえ、どうやってこの男をうまく手なずけたんだ?」
「こらこら、変なこと言わないの! 玉川君、赤くなってるじゃない」
「いや、ぼくは、向野さんとは、全然、そういった関係では……」
「まぁまぁ、その話は追い追いということで。それよか、手ぶらで悪りぃな。ホントはさ、事前に菓子折りでも買って、カンパもしようって話になってたんだけど、会うなり向野のやつが、『それはしないほうがいい』って言い張るんでな」
「それは向野さんが正しいよ。来てもらうだけで、ぼくはこの上なく嬉しいから。それ以上となると、それはもう、有難迷惑というものだよ」
「やっと出たな、玉川節!」
 それから、玉川を軸に据えた高校時代の談義が始まった。
 一人の女性が彼との思い出話を語った。
「憶えてる、玉川君? あのときは本当にありがとう。わたし、あなたにあのときのお礼が言いたくて、毎回同窓会に出てたのに、あなた全然来てくれないんだもの。そのせいで、今じゃこんなやつと付き合うはめになっちゃった。責任とってよね。……ごめん、なんでわたし、涙流してるんだろう? 言うわ、言うから、みんなしてそんなに急かさないでよ……。あれは、体育祭の直後だった――、数人の男子が見て見ぬ振りで、わたしたちの前を通り過ぎて行ったけど、玉川君だけは立ち止まってくれたの。わたしは階段下の隅で、三人の女子から責められていた。わたしが最後の徒競走でバトンを落としたから赤組が負けたんだって。わたしは認めて、謝ったけど、その子らは許してくれなかった。いま思えばそれだけ勝負にひたむきで、悪意なんてない、まっすぐな子たちだったのよね。でも、そのときのわたしはつらくて、それ以上何も言えなくて、泣きそうになりながら、うなだれるしかなかった。そんなとき、玉川君だけが帰宅の足を止めて、わたしたちの場面を、目を逸らすことなく見つめ続けたの。わたしを責めていた女子の一人が、その視線にいらだちを覚えて、玉川君にくってかかったわ――『何の用よ、あんた。文句でもあるわけ?』。体育会系の部活に所属する体格のいい女の子だった。でも、玉川君はまったく動じる素振りもなく、こう言い放ったの――『冤罪えんざいってのは、こういうふうに生まれるんだな』って。わたしたち、顔を見合わせたわ、四人同時に『この人、いったい何言ってるんだろう?』と思って。それからまっすぐ、声をかけた女子のもとへ、玉川君は近づいていった。その女子が後じさりしたのを、わたし覚えてる。だって、玉川君、なかなかどうして、学校内で有名だったもの、『変わった人』だって。フフフ、ごめんなさい。そして、まるで壇上で授業するみたいに、こんなことを論じ始めたの。『大負けすればおとがめなしで、僅差だと戦犯扱い、恥ずかしいと思わないのか』から始まり、Yという子には、『きみが出場した玉入れで、あと三つ入れてりゃ逆転されなかった』、NとEには『三人四脚でビリだったくせに、よく人に文句が言えたもんだ』、そして、だしぬけにゴルフの話を持ち出して、こう締めくくったの『初日に多く叩いておいて、最終日に一打差で負けて、最後のボギーを悔やむのは筋違いもはなはだしい』って。玉入れも三人四脚も午前の競技だったの」
 当然のことながら、生徒会長選や里美の触れた数学の授業でのこと、他にも数学のとある定理に関して、『覚えにくい』『意味がつかみづらい』と生徒から指摘があがったとき、玉川は方程式として突き詰めた形を、あえて後退させて、答えを求めるのに直観的に数値を導入しやすい形に展開してみせ、神聖不可侵とさえ思っていた定理を書き換えたことで生徒の度肝を抜いたことや、教師にまで『確かにそのほうが覚えやすいわね……』とうならせたことなどに話は及んだ。しかし、ここではもう、詳細には触れない。
「あの当時、おれら進学校だったせいか、毎年度、変にピリピリしていたもんだが、玉川はおれたちにとって癒しの存在だったよ。だってさ、塾や予備校なんかであくせくせず、成績は常に上位なんだもんな」
「その上、わたしたちのクラスの威信を一人で背負ってたようなところがあったからね」
「けど、最後まで女子生徒には一線引かれてたけどな」
「あ、ひど~い。今の玉川君なら、わたし、ほれちゃうわ。ほら見て、あの恥じらいだ顔。ほっぺにキスしてあげたいくらい」
「こらこら、目をギラリと光らせてるやつがいるぞ。な、向野」
「わ、わたし、玉川君と、そんな関係じゃあ……」
「しっかし、蓼食う虫も好き好きとは言うが、おまえがねぇ」
「ほら、天才は天才を知るっていうじゃない。この子も頭が良かったから」
「だから、わたしは……もういいわ」
「あ~あ、あきらめちゃった」

 何人かが腕時計に視線を落としたとき、玉川が仕切り直すように、語らいの中に割って入った。
「みんな、お願いがあるんだが、ちょっとだけベッドの向こう側に集まってもらえるかな」
「なんだい、写真でも撮ろうってのか?」
「だったら、わたしが撮り役をするわ」
「いや、そうじゃないんだ、向野さん。ほら、きみもあっちに――うん、そこでいい」
 五歩ほどの距離を置き、全員を目の前に立たせた玉川は、それから腰を折り、膝を床について、何をするのかいぶかしむみんなに向かって、土下座の姿勢をとった。そして、みんながあわてて制止するのもきかず、頭を下げた。
「ぼくは、あの頃、きみたちに対して、申し訳ない振る舞いをした。どうか、許してくれ」
「や、止めて、玉川君!」
「バ、バカ! 顔を上げろよ」
 みんな一斉に飛びかかり、彼を抱きしめ、引きずり立たせ、さっきまでのようにベッドの上に座らせた。一人里美だけが、後ろに下がって血の気の引いた顔で動けずにいた。
 玉川は悲愴な面持ちで自戒の念を述べ立てた。
「ぼくはろくでもない人間だ。こうしてきみたちに会うまで、ぼくは高校時代を暗く、惨めで、忌わしい過去のように思っていた。間違いだった。本当は人生の中で、一番輝いていたときだったんだ」

 帰る時間になると、一人ひとりが玉川を抱擁した。
 運動会の思い出を語った女性が涙をにじませながら(彼女はその場に居る彼氏から申し込まれた婚約に応じるつもりであることを彼に耳打ちした)、最後に別れの言葉を告げた。
「今度の同窓会は、あなたが主役よ。いいわね、絶対休んじゃダメだからね。もし休もうものなら、あなたの家で同窓会をやらせてもらうわよ!」

 来たときのように、一緒に出ていった里美であったが、ドアの向こうで、『待ち合わせ場所まで送っていく』という彼女に『野暮なことはしない』とみんなから居残るよう命じられ、彼女だけが部屋に戻ってきた。一人で戻るのが、どこか不安な顔つきだった。入口に立ったまま、彼女は言った。
「ごめんね、見せ物みたいになってしまって……。今朝の予定では三人だったんだけど、どうしても『あなたに会いたい』って同級生が増えて」
 夕陽をめいっぱい顔に浴びる玉川が答えた。
「いや、心から感謝するよ」
 里美はなぜか、今この瞬間しかないと思い、ずっとわだかまっていたことを、初めて口に出した。
「ねぇ、玉川君。本当は――、本当は全部覚えてるんじゃないの?」
「……いや」
 窓の外を見つめたまま、玉川が振り向くことはなかった。

  ――――――――

 玉川退院後、二日目の夜。
「おまえは素性を知られてないからいいが、こっちはどんな思いで、あのあと家に帰ったと思うよ?」
「でも、いなかったんだろ?」
「ああ、いなかった――っていうか、おまえはいいやつだよな。電話で呼んだら、ほいほい出てきやがるんだから。ともかく、だからよ、おれは思うんだが、ここまで警察の手が伸びないとなると、あいつがおれの正体を明かさず、黙ってるってことだ」
「なんでだ?」
「最初に思ったのが、おれたちの仕返しを恐れて、警察に言えないでいるってことだな。なにしろ車で轢かれるってのは、やった側が言うのもなんだが、相当な恐怖だろうからな」
「中学校のいじめと一緒だな。チクると余計痛い目に遭うと思うから言えないんだ」
「おれたちのやったことは中学生と一緒ってのか? まぁいい。けどな、警察は中学校の教師ほど、間抜けじゃない。そんなことは百も承知で、やつの身の安全を保証して、口を割らせると思うんだ」
「ああ、身の安全を保障して、口を割らすだろうな」
「となると――」
「『となると』どうなるんだよ?」
「おい、どこに行くんだ? いつものファミレス、そこだぞ」
「ア、ああ……よっこらせっと、ほら入ったぜ」
「さんざんクラクション鳴らされたけどな。せっかく直したんだ、ブレーキライトはもう壊すなよ」
「ヘン。んなことより『となると』なんなんだよ?」
「さぁな、考えられるのは、頭打ったはずみで、記憶が飛んじまったくらいだが、そんなふざけたことは起こり得まいしな。下げ過ぎだ。もう、いいぜ。腹減っちまった、さっさと行こう」
 二人がドアを開けて降りかけたとき、一人の男がボンネットの前に立ちふさがった。
「この前は乗りそこなったが、今度は乗せてもらおうか。警察署まで連れて行ってくれ」
 死んだ人間を見たように二人は凝然と立ちつくし、あのとき轢いた男の顔を見つめた。


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