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6――『黒い猫』

〈12491文字〉

 バ……オホン、『なんちゃらの壁』を信じないのに、どうして一人の友達もいないのか? と言うんだね。それを説明するにあたり、必要不可欠なのが『友達』の定義だが、ここではうっちゃっておこう。狭義も広義もない。ぼくにはただの一人も友達がいないのだから。最初にわかっておいてほしいのは、損得勘定のない友情関係なんて言葉を耳にすれば、いくらぼくでも人差し指を喉奥に突っ込まずにはいられないことだ。『おれはあれするから、きみはそれしろ』仕事でいうところの、そんな同僚の関係が私的になり、多少の親切心が加わったものが、友達と呼ばれるのだろう。小学生じゃあるまいし、たくさんいる人をうらやましいとは思わないが、二、三人いる人はうらやましい。その人とをつなぐ糸は、ナイロンのように、伸びたり縮んだりするのだろうが、ぼくが神様より授けられたのは針金だけだったというのが、一点。そしてぼくが、この世で最も忌み嫌う人間感情が『慰め合い』だからだ。お互いがお互いを慰みものにし、『あいつよりましだ』と心のどこかで思いたくないからだ。もし今のぼくの心理状態を胸奥の底までわかり合える人物がいたとすれば、ぼくはその者に殺意を抱くか、自殺したくなるに違いない。とはいえ、ぼくが友達を探してないと思うのなら大間違いである。と同時に、今は友達を無理に欲しいとも思わない。しゃべるなら黙っててもらうことを望むからだ。なぜなら昨日、諸岡氏に対してそうだったように、ぼくを他の人間と同等に扱ってくれた(憎しみさえ抱いてくれた)ことに礼を尽くして、彼の何倍もの量をしゃべらねばならなくなるからだ。

 夜、ぼくは散歩に出かけた。しかもあえて一個飛ばしに、事件の日のルートを選んで。
 角を曲がるたび、三度振り返って、ぼくは苦笑した。
「フッ、さすがに尾行はついてないか」
 あの日、ぼくが見たのは、貯水池を通ったあとで、後ろからマスクをした若者がぼくを追い抜き、角を一つ曲がったところに停めていた黒の軽自動車の助手席に飛び乗るや、ドアが閉まりきるより早く車は猛然と走り出し、一本の裏路地に入りこむ際に、あわやのところでぼくを轢きかけた場面――ただそれだけだった。ぼくはそのとき、その場で立ち止まり、しばらく一歩も動かず、小さくなる車の後姿を睨みつけてやった。ナンバープレートのライトは消えていて、ブレーキライトは片方が破損し、なかの電球がむき出しで見えていた。なぜだか車軸が心持ち左に傾いていたのも記憶に残っていた。間の抜けた話だろうが、刑事が訪ねてくるまで、その男がタクシー強盗事件と関わりがあるかもしれないなど、考えもしなかった。だからといって、テストでしくじったほど慙愧に堪えないとか、赤面の至りなど思ったりもしないが。事件そのものすら、さほど記憶に留めていなかったのだから致し方ない。期待外れ、ないし周囲への感度が足りないと思うなら、それはぼくに向けてではなく、警察へ言うべき言葉である。話を戻すが――なに? 『もしそのとき気づいていたら、どうしていたか』って? さぁ、どうしていたかはわかりかねる。いま考えても、犯人の足跡を追うわずかなヒントにはなっても、犯人そのものにたどり着くのに決定的な目撃はできていないのだから、同じように警察が来るのを待っていたかもしれない。だが、半月というのは長すぎる気もする……。一方、こう見えてぼくは、警察の実力を高く評価している。もし目撃したものが犯人と無関係であった場合、確証のないあいまいな情報でせっかく積み上げた捜査を混乱させたくないというのも、そのときには勘案したに違いない。とにかく事件時に話を戻そう。事実、あの場で振り返れば、貯水池の金網越しに緑と黒のタクシーを見ることができたのかもしれない。あいにく見もしなかったし、叫び立てる声も聞かなかった。自分が被害に遭ったタクシー運転手だったとしても、ドアに施錠をし、すべての窓を閉めきってから、携帯電話で警察に通報したであろうから、聞こえなくて当然だろう。そのとき運転手は、電話をかけながら、ぼくの歩く姿を斜め後ろから見たに違いない。そういった興奮状態にあるときに見た何気ない印象というのは、不思議と後々になってからでも細かく思い出せるものだ。
 とめどなく、そんなことに考えを巡らせながら、左手にあるファミリーレストランを通り過ぎようとしていたときだった。ぼくはにわかに足を止め、前を向いたまま、ゆっくりと四歩後ろに引き下がった。記憶に引っ掛かる物体を視界の端に留めたのだ。それから顔を振り向け、駐車場に停めてある一台の車を仔細に眺め見た。道路側の生け垣にバックで停めてあったが、白線の中には斜めに収まっていた。事件当夜見た、逃げ去った車と同じ形状の車だった。ぼくはとりあえず、メーカーと車種を頭に叩き込んだ。バックライトは壊れていなかったが、ボディにはところどころ傷跡が見られた。駐車用白線の延長上に立ち、背後から車軸を確かめた。心持ち左に倒れているように見えた。ぼくはナンバープレートの登録番号も暗記した。あいにく、こっぱずかしくて言えないような語呂しか思い浮かばなかったので、内緒にさせてほしい。だが、そのおかげで完全に暗記することができたので、ぼくは悠々と新たな思索にふけりながら、家路に就くことができた。

 明くる午前、五十川警部が家を再訪した。
 母親が呼び鈴に応対する声が聞こえた時点で、ぼくはスリッパの音をやかましく立てながら階段を下り(新しめのスリッパはどうやったってやかましくなるものである)、すぐに母を引き下がらせて、ちょうど玄関を開ける警部を正面で待ち構えた。
「こんにちは。よかったです、家にいらして」
「こんにちは。一人なんですね、驚きました。日本の警察はテレビドラマみたいに一人で動き回ってはいけないように思っていましたので」
「どこの国だって、そうだと思いますよ。今日はわたし、非番なんです」
 その事実があけすけに、しかも先んじて語られたことに、ぼくは虚をつかれて、思わず口ごもってしまった。
「エッ……ああ、そうですか。それにしても、ネクタイこそしていませんが、非番でもそんな格好をしているんですね」
「ええ、これしかないもので」
 動揺を隠す場合に人はよく素っ気ない態度を装い、無駄話を買って出るものである。そうわかっていながらも、ぼくは視線を逸らすはめになった。
「まぁ、非番って言わなければ、いつでも刑事面できますからね。すみません、それほど悪い意味で言ったわけではないのですが」
 警部は意に介すことなく磊落に笑った。
「いえいえ、妻にもよく言われます。それより、わたしが詮索好きなように思われたら心外ですな、ハハ」
 このときぼくは、若輩者にも折り目正しく対応する彼の豪胆な振る舞いが、はなはだ逆恨みには違いないが、次第に癪に障ってきた。こういった場合、のちにしっぺ返しで深い後悔にさいなまれることがわかっているはずなのに。
「そりゃ、奥さんには一途でしょうが、刑事としてのあなたはそういうわけにもいかないでしょう?」
「いいえ、事件にも一途でして。こちらで第四のタクシー強盗が起きて、別の事件の捜査書類をまとめ終えたわたしに担当が移管されてからは、ほとんどそれ一つにかかりきりでして。それまでは関心こそありましたが、あくまで客観的立場で仲間に任せきりにしていた案件でしたから。捜査資料を第一の犯行から葦編三絶読み返す次第で」
「それは……ごくろうさまですね。……すみません……」
 そうら、早くも罰が当たった。ぼくはそれだけ口にするので精いっぱいだった。
 警部は目をパチクリすると、ぼくの顔を覗き込んできた。
「どうしました?」
「いえ、あなたは、本当は大変立派な方で、ぼくなんかと無駄話に興じるような方でもないのに……。それも、こんな玄関先で、あなたより上の目線でしゃべることになってしまって……。部屋に上がってもらってもいいのですが、あなたも早く用事を済ませたいでしょうから。大事なお休みでしょうし」
 目をそむけながら、へどもど語る男を、警部は凝然を見つめ、ポカンと固まった。
「ど、どうしました、いったい? アハハ、これは失敬。先日とはえらい変わりようじゃないですか?」
「あなたとぼくは、天と地ほどの違いがある。年齢も違えば、地位も違う。元々わかり合えることなんて、これっぽっちもないんです。情けをかけるような無駄話は結構ですので、ご用件だけおっしゃってください」
「おやおや、わたしとあなたが変わらないと言ったのはあなたじゃないですか」
「『生まれた頃の姿は』です。今のあなたとぼくのどこが一緒だと言うのです。もういい、お世辞は結構ですから、早く用件をお話しください」
「先日言われたことと、まるで違いますな。う~ん、困った。こうなるんだったら、誰か他の者を一緒に連れてくるんだったかな。あなたとは、この前の話の続きがしたくて、お知り合い感覚で来てしまったのですが」
 警部は腕を組みしながら考えるふりして、そつなく廊下奥と玄関回り、とくに靴脱ぎ場の様子を確認するのをぼくは見逃さなかった。今は母のサンダルがあるのみである。
「だったら、お帰りください。勤務しているあなたになら、忌憚なく言えますが、そうじゃないあなたと話すことはありません」
 仕方なさそうに腕組みをほどいた警部であったが、相変わらずその場に居座り、気になった袖のしわを引っ張りながら、突然感情のない声で語り始めた。
「公表してないんですが、第三のタクシー強盗の被害者が女性だというのはご存知ですか?」
「エッ……なんです、急に。公表されてないなら知るはずないじゃないですか!」
「その方、もう、タクシー運転手はできないと言っているそうです。それどころか、もう後ろに人を乗せて運転すること自体できなくなったと」
「……なぜ、そんなことをぼくに言うのです?」
 ぼくの顔をひたと見据えて、警部は言った。
「あなたが、この犯罪者が『一人として傷つけず』とおっしゃったからです。とんでもないことです。他の三人だって、生活上の理由から、時間帯を変えてお仕事されていますが、心には大きな傷を負われているのです」
 突として、重力が増したような――そんな負荷を、ぼくはスリッパの中の裸足の足裏に感じた。
「……ぼくが言ったのは、外傷についてだってことは、あなただってわかっているはずです」
「外傷と内傷――すなわち心の傷――は、どちらが癒えやすいと思いますか?」
 辛抱強く投げかけられた警部の質問に、ぼくはにべもなく答えた。
「くだらない質問ですね。程度によるでしょう」
「まったくその通り。しかし、外傷は癒えればそれまでですが、内傷はふとしたことで呼び覚まされることだってあるのです」
「……だからなんです? 自分たちの責任を棚に上げて、それをぼくのせいだとでも言うのですか?」
「いいえ、全責任はわたしにあります。ただ――、あなたにはご協力いただければ、感謝するばかりです」
 それきりしばらく会話が頓挫したのは、ぼくがその依頼の返答となるどんな表情も浮かべず、立ちつくしたまま黙りこんだからである。実のところ、そうすることで二人以外の気配がないか確かめたかったというのもあった。
「……ねぇ、刑事さん」ぼくは静かに話し出した。「少々くだらない話にお付き合い願いたいのですが――、犯罪は誰でも起こす可能性があります。ぼくはもちろんのこと、刑事さんだって例外ではありません。つい先日も、車を運転中、自転車と接触事故を起こして、学生を怪我させ、放置して逃げた警察署の副署長が捕まりましたよね。現場で働くあなたは、そんなことはしないと思いますが、たとえば身内が犯罪に巻き込まれてしまった場合、どうなるかなんて、そのときになってみなければわかりません。案外あなたみたいな人が、ひれ伏して許しを乞う犯人の震える前歯に、銃口を押しつけられるのかもしれませんよ――余計なことを言いました。ともかく、犯罪は、誰でも起こしうるのです。そう考えた場合、この世の正しいあり方は、犯人をとっ捕まえるのに特化した世の中ではなく、率先して自首できる世の中ではないでしょうか? 罰が怖いんでは意味がないんです。罪を恐れる人間性をはぐくむ世の中でなければ」
「おっしゃるとおりです。しかし――」
 ぼくは卑怯なのを承知の上で、言葉尻をとらえ、吊るし上げた。
「『おっしゃるとおりです』? そうあなたは言ったのですか? だったら、いま話題になっている、二年間ものあいだ、女子中学生を監禁した大学生のあの態度はいったいなんです? 下手な自殺をおこない、治療を受けたあとで、護送中にテレビカメラに映った『そうさ、おれはやった。言い訳もしないし、反省もしない。映すなら映せ』と言わんばかりの顔――。罪の意識はなく、賽は投げられたと言わんばかりの、罰のみ百パーセント恐れている者の顔――。先日、警察密着番組で見た、死亡ひき逃げ事故を起こしたのに、捜査員と加害者ともに車の凹みの原因の言い争いに終始している情景――。いわんや、加害女は人を轢き殺しておいて、『何かに当たった気はしたが、猫かなにかだと思い、轢いた猫を見るのも気持ち悪いので、そのまま走り去った』との死んだ者へ鞭を打つ所業を、全員が言い逃れとわかる場面で、ただ罰を軽減したい一心で、やってのけました。かと思えば、出来心で万引きした初犯の高校生が、号泣して許しを乞うも、指導や警告で留めることなく、逮捕する今のありよう。これも密着番組でさんざん見てきましたが、パトロール中、薬物を使ったとおぼしき人物を職質し、目つきや体臭から使用を確信するも、遮二無二逃げ口上を吐く被疑者をおとすときの警察官の、相手を見下し、やにさがった顔――。まるで勘違いにより桁違いに多くお釣りをもらったときのような、いやそれこそ、犯罪がばれずに逃げおおせた犯人のような顔ではないですか。薬物使用は確かに重罪ですが、その男はまだ他人に危害を加えたわけではなく、愚かにも自分自身にわずかずつ毒を盛っていただけで、それもほとんどが自分で自分を抑えきれない、もはや病気にかかった人間ではないですか。もしも、その男が廃人になるのを救いたいという思いが、警察官に一欠片でもあるなら、あんな顔は絶対にできない。手錠をかけるときにも、安易に『もう二度と手を出すなよ』なんてうわべだけのことを言えないはずなんです。最後に、これはあなた方に責任はありませんが、関わりの一端はあるので、言わせてもらえれば、泣き声がうるさいので父親がわが子を張り倒した、ご飯を与えず餓死させた、といった幼い子どもが被害者になった事件が、他の事件のあいだに交じって、淡々と報道される今のありようは間違っています。捜査する人間も替えるべきです、事件の質がまったく違うのだから。こういう親は唯一、公開処刑してしかるべきです。ぼくはね、五十川警部さん、あなただから、こんなことも打ち明けられるのです。そして、そんなあなたも席を置くあなた方が、まず自らを変える努力をなされないかぎり――大多数は守れても、一握りの市民をないがしろにしているかぎり、市民にあなたがたを支援する義務はないのです。協力は最後に仰ぐべきものです。差し出せと迫るべきものではありません――よね? 伝えるべきとき、伝える必要が生じた際には、ぼくからあなたのもとを訪れ、お伝えします。もっとお優しい顔をお願いしますよ。社会の底辺にいる、ならず者の言うことです。お上に仕えて、立派な役職にあるあなたがお怒りにならないでください。それに、ぼくからしたら、役に立つかもわからない些細な目撃情報を打ち明けるより、はるかに言いづらいことを言ったつもりなのですから」
 警部はぼくのぼく自身の評価について、いくつか疑問を口にしたが、ぼくは口を閉ざし、敵意のない目で警部を見続けた。最後に警部は言った。
「約束して下さい。そのときが来たら、先延ばしせず、明日にも、今日にも、きっと伝えにきてくれますね」
「申し訳ありませんが、近いうちに新たな犯行が起こったとしても、必ずは約束できませんよ。それに、なぜ警部さんがそれほど期待をかけているのか、ぼくにはわかりません。見たものは事件とは無関係で、的外れってことも十分ありうるんですからね。目撃情報とは、大半がそんなものでしょう? それが怖くなって言い出せなくなることも、考慮に入れてもらわないと」
 警部は、これまで見せたことのない険のとれた顔で、にっこりと微笑んだ。
「わたしはもう、あなたがどんな人間か知ってしまいましたからね」
「だから、なんです?」
 仏頂面のぼくを残して、警部は戸を開けると、なにやらぼくに向けてというよりは、家そのものに会釈するがごとく、一礼して帰っていった。どうやら警部も、奥で母が聞き耳を立てているのに気づいていたようである。

 その日もいつもと変わらぬ時間帯、ぼくは散歩に出た。昨日抜かした散歩道である。
 そのさなか、最初の真っ向勝負を挑むことになった。ぼくの立場からすれば、挑まれたわけである。誠の旗を掲げるぼくが、受けて立たないわけにはいかなかった。三十メートル近い前方から、壁側にあたる歩道の左端(相手から見て歩道の右端)を、わが物顔で歩く女性と向かい合ったのである。女性は完全に自分の世界に没入し、周囲に目を向けることなく、歩道の建物側を歩いてきた。お互いが近づき合うので、距離はすぐに狭まった。またたく間に十メートルなり、五メートルで女性は状況に気づいたが、せめぎ合いは続いた。三メートル、女性はまだ目を合わせなかった。二メートル、歩幅が若干短く慎重になった。そして、もう一歩あるけば、肩が触れるというときになって、女性が視線を上げ、傲然とぼくを睨みつけながら場所を譲った。ゴミ屋敷のゴミ拾いおやじでも見るように、けがらわしい目つきで睨みつけられたわけだが、ぼくにしてみたら光栄至極に存じますといったところだ。
 そのまま、車道側に立つもう一人の女性とすれ違ったとき、ぼくはつと立ち止まった。
「きみはああいう顔はしないみたいだな。で、なんで、こんなところにいる?」
 向野だった。彼女はこわばった表情をしたまま、ワンテンポ遅れて話しかけてきた。
「いつも、そんな顔をして、散歩してるの?」
「いや、あんな女とすれ違うときだけさ。男は比較的、先に譲るんでね。スマートホンを扱いながら、何食わぬ顔で道を譲らないのは女だけさ。自分は『二百メートル近くこの道を歩いているから』、もしくは、女ならではの『あたしこっちだから(総理が誰だろうと、世界情勢がどうなろうと関係ないし)』ってやつさ。で――、きみはなんでこんなところにいる?」
 青ざめた顔が血の気を取り戻すと、今度はそのまま赤く変わった。
「あ、うん、あの時間あの辺りを散歩しているなら、この辺りで会えるかなと思って」
 偶然にしてはおかし過ぎることくらい、ぼくにもわかっていた。
「……ぼくを探してたのか?」
「うん。あ、でもね、自転車で探してたのよ。あなたを見つけたから、あっちに停めて歩いてきたの」
「……何日かかった?」
「三日よ。毎日は散歩しないでしょうに。わたし、運がいいのかな? いつもここを歩いてるの?」
 ぼくは苦々しい思いで質問に質問で答えた。もう三度目である。
「何の用だ?」
「あ、うん――、玉川君、やっぱり辞めたんだね、せっかく始めたカラオケ店のバイト」
 ぼくは口角泡を飛ばさんばかりに言い返した。
「『せっかく』? 笑わせるな、あんなバイト。言ったろ、キッチン希望だっていうのにホールに回しやがって。慣れるもなにも、こっちはキッチン業務だって仕方なくだったのにさ。改善する気がないようだから辞めてやったんだ。そもそも知ってるなら、わざわざ確認する必要はないだろ」
「ち、違うの。そのこと言いたかったんじゃなくて……」彼女は腹を決めたらしく、まっすぐにぼくを見た。「あのね、玉川君、やっぱり、ちゃんと機会をあらためて、お礼が言いたかったの。あのとき、助けに来てくれないと、あのあと二度とも、どうなっていたかわからなかったから」
 ぼくは彼女の意向を汲んでキス、否、触れた唇のことは触れないことにした。なにしろ本当に酔って、覚えてないのかもしれない。こっちはすぐさま注文聞きを代わってもらったために、彼女が何をどのくらい飲んだかまでは知らなかった。入店した時間からいって、よそで飲んできたということも十分考えられた。あのとき酔ったようには見えなかったが、顔に出ない体質の可能性もある。それに、彼女はあのとき、相当酔った上でなければ、やらないことをやってのけたのだから。
「お礼の必要はない。あれは別に、きみだから助けたわけじゃない。あいつらには正論を語っただけで、言うなれば男の義務を果たしたようなもので、誰かを助けたつもりもない」
 彼女は黙って聞き流した。つんとした顔は、『うそね』――と言ってるかのようだった。まさか、高校時代のことまで気づいているのではないだろう?
 そして、彼女は急に、わが身につまされたような深刻な顔になった。
「ねぇ、玉川君、教えて――いま何してるの?」
 散歩のことを言っているわけではないのは、何かに耐えるがごとく歯を食いしばった表情が物語っていた。
 ぼくは感情を押し殺した声で尋ねた。
「……なぜ、そんなことを聞く?」
「エッ……うん、なんとなく、わたしたち、気持ちがわかり合える気がして。わたしも、ほら、今はアルバイト生活だから」
 ぼくは自分の顔面が引き攣るのを感じながらも、かまわずぶちまけた。
「きみにおれの気持ちがわかるだと。フフン、じゃあ、教えてくれ。人はなぜ、いかに立派、いや――見識を持ち、道理をわきまえ、清廉に生きようとする人間であろうと、金を稼いでいないというただ一点だけで、一目すら置かれることもなく、一方的にさげすまれるのか? そんなことはないなんて言うなよ。言わせるものか。だがしかし、それは許そう。被害者は少数だ。はるかに深刻なのは、その逆の問題だからな。さて、きみはこの唯物論的資本主義がもたらす課題に、どういう見解を見せてくれる?」
 いくら心の準備をし、立ち向かう構えはできていても、一発目に顎下から襲いかかった質問に、不意をつかれた彼女は動揺を隠せなかった。
「エッ……それは、その……」
「もっと、きみたち女性にわかりやすく言ったほうがいいかな。若手と名のつく、年収ウン千万稼いでいるお笑い芸人の自らを卑下した芸を見て、どうして腹を抱えて笑えるのか? 試合中のレギュラー陣の年俸が十億円にもなる野球チームをどうして声を枯らして応援できるのか? 知るとファンが減るからだろうな、そんな彼らは私生活を滅多に明かさないが、ついこの前知ったところでは、一万円近くするTシャツを何着も持ってるそうだ。なぜ、そんな人間に一方的な親しみを感じられるのか? いや、答えなくて結構。きみの顔に答えは書いてある。こんなことを意識したこともないきみに、いったいおれの何がわかるっていうんだ? じゃあ、さよなら」
 ぼくは風を切って前へと歩き出した。数歩あるかぬうちに、その背中に大きな声が投げかけられた。
「でも、これだけはわかるわ! 玉川君、全然、変わらないねっ」

 物分かりのいい女性なら、それっきりで済ますのだろうが、彼女はそうはいかなかった。そういえば高校時代も、自分が納得できなかった箇所は、大方みんなも納得いっていなかったにもかかわらず授業の妨げになるのをおそれて、授業後の教師を廊下で呼び止めていたっけ。しかも、戻ってきた彼女を、今度は他の女子生徒らが取り囲んでいた――そんな光景を、片付けた机の上で頬杖をつきながら眺めていたのを思い出した。背中ではバカな男子どもが騒いでいた。
 その夜、知らない携帯電話からの着信があり、わずかに開けていた私室のドアを閉めて、ぼくは電話に出た。
「はい、もしもし」
 それだけで、相手はこちらが誰か確かめられたらしい。二時間ほど前に聞いた声だからというのもあるだろう。
「よかった。高校の頃と電話番号が変わっていないで」
 おそらくこういうことだろう――彼女はカラオケ屋の裏路地でぼくが掲げている携帯電話を見た。それは高校の頃からずっと使い続けている(電池パックのみ交換した)二つ折りの携帯電話で、それならば番号も変わっていないはずと思い、古い名簿を調べてかけてきたのだろう。ちなみに、携帯電話の契約は最初から電話使用のみで、基本料金は毎月九百八十円だったが、支払いが千円を越えることは滅多になかった。
「ぼくは、この機種と電話番号になんの愛着も未練もないがね。で、どうされました、向野さん」
「よく、わたしだとわかりましたね。あ、ごめん、ところで今、玉川君、何かしてるの?」
「何も――。電話をかけてきた理由を尋ねるのが、そんなにおかしいかな?」
「あ、ううん。でも、なんだか、雰囲気が違うから……」
「そうだ。向野さん、きみの用件はあとで聞くとして、せっかくだから、ぼくからも話しておきたことがあるんだが、先に話してしまってかまわないだろうか?」
「エッ――ええ。でも、そんなにかしこまらなくても、いいのです、けど」
「いや、謝るときは、襟を正さないとね。さっきは、本当に申し訳なかった。わざわざ探しに来てくれた人に、ぼくはなんてことを言ったんだろうね。心からお詫びする。申し訳ない。あのときのぼくの発言は、すべて忘れてほしい。もちろん、きみの感謝の気持ちは十分過ぎるほど受けとめさせてもらったよ」
「あ、あの、今一度確認させてもらいたいのですけど、そばに誰かいるんですか?」
「いや、誰も。それから、そう、ティッシュ配りをしていたきみに、あざけるような態度をとったこともお詫びしたかった。なんら後ろめたくも、恥じる必要もない、ちゃんとしたアルバイトだと思う」
「あ、あのね、玉川君。あんなバイト、もうとっくに辞めたのよ。二週間の契約だったの――いえ、だったんです。そ、それに、そんなこと言われたら、わたし、あなたに対してもっとひどいことを高校生の頃にしてしまっています」
「高校の頃の話はやめよう。きみはともかく、ぼくには何ひとつ、いい思い出はなかったんだから」
「そんな……」
 そのまま――この重苦しい空気のまま、簡単な挨拶が交わされ、電話は終わると思いかけた矢先、なにやら強い覚悟を持って彼女が持ちかけたのは、真逆の申し出だった。
「あのう、玉川君、よかったら、今度、場を設けて話さない? 二回も助けられたんだもの、わたし、きちんと機会を設けて、お礼がしたいの。今日もそのことを言おうと思っていたのよ。あなたが自分の道を譲らないように、わたしだって譲らないわ。それにね、それとはまったく別に、話したい話題もあるの」
 もはや返す言葉も見つからなかった。こんな男としつこく関わり合おうとする、彼女の意図がさっぱりわかりかねる一方、こうなるとかえって、それが知りたくもなったくらいだった。林間学校を終えてしばらく経った頃、大勢が行き交う廊下ですれ違いぎわ、ぼくだけにわかるように顔をそむけたのは、義理堅さの裏腹であることは気づいていたが――そのくせ周囲が二、三人になると、どぎまぎした上目づかいを見せたものだった(もちろんぼくがお礼なんて言わせなかったが)――、今や彼女は一歩も引かない性格に落ち着いてしまったようである。
「……いったい、どうしたらいいんだ、ぼくは?」
「怒らないでね。ちょうど、ほら、今わたしたちって、時間がある生活してるじゃない? だから、昼食なんて一緒にどうかと思って」
「なぜぼくが怒る? 確認だが、それがきみの望むことで、間違いなく、きみはそれで気が済むんだな」
「なんだか、わたし、強要してるように聞こえるんだけど、そんなつもりは全然なくて」
「もちろんだよ、向野学級委員。きみは三年のとき、別のクラスだったが、学級委員をしていたよな。きみがそれで区切りをつけたいのなら、会おう」
 そこからは速やかに話が進み、場所と日取りは彼女に任せて、決まったら再び連絡をもらうようにして、電話を切った。抵抗せず、申し出を受け入れたこと、概してこんな話し方になったのは、誰と電話しているのかを両親に知られたくなかったからである。どんなに声のトーンを落としても、一階と二階に別れていても、同じ家にいるかぎり、電話で話している声は聞こえないわけにはいかないから。
 それにしても――とぼくは思い、切った電話に溜息を吐きかけながら、苦笑いを浮かべざるをえなかった。
「なるほど、おれもこういうふうに道を歩いているわけだ」

 次の日から、少年と約束した土曜日だけを除いて、タクシー強盗が起きた現場を通るルートだけを散歩することにした。のちに気づくが、あの日、前日とのルートの差し替えをおこなわなければ、このあと、もう向野とは会えなかったわけである。少年と出会ったルート、事件現場を通るルート、残る一つが、彼女と二度再会したサモトラケのニケ像を折り返しとするルートだった。
 そうして時間帯を前後にずらしながら、同じルートで散歩すること五日目――その翌日が向野と会う日だった――、ファミリーレストランの駐車場で、前にも同じ駐車場で見た、事件時に急発進して走り去った軽自動車を見つけた。折しも、ちょうど店に来たところらしく、車庫入れしている最中だった。ぼくは駐車中のワゴン車の後ろに隠れて、一列向こうで車庫入れする軽自動車のサイドガラスに視線を注いだが、あいにく駐車場のライトに反射してよく見えなかった。はたして車庫入れは苦手なご様子だったが、あきらめも早かった。まず背の低いがっしりした体格の男が、運転席から降りて、幅の狭くなった助手席側からすらっとした背の高い男が滑り降りたとき、ぼくは危うく、声を発して彼らの注意を引くところだった。すらっと背の高い美男子は、カラオケ屋で顔を合わせた塩原であった。なるほど、概して醜男より美男というのは記憶に残りにくいものだが、最初見たとき、なんとなくどこかで会った気がしたはずだった。
 彼らが店内に入ったあと、ぼくは用意していた『おれは見た。自首しろ』との名刺大の黄色い付箋を、たたみ込まれたサイドミラーの内っかわに張りつけ、急いでその場を立ち去った。一度は状況を確かめるべく、振り返っておくべきだった……。タバコを取りに車に戻りかけた塩原が、出入口の階段上に立ったまま、ぼくの後姿を不審げに見送っていたことに、まったく気づかなかった……。


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