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5――『黒い猫』

〈16943文字〉

 衛星放送の報道番組で、宗教的対立による爆破テロ事件が議題にのぼったとき、ある解説者がこんなことを述べ立てた。
「彼らにはなに言ったって、無駄ですよ。こちらの言い分なんて、聞こうともしないし、聞いたって理解しないでしょうね。できないんじゃない。しないんです。古い言い回しですが『環境に毒されて』いるんですね。頭の半分、いや、精神科医からすれば、ほぼ完全に洗脳状態ですよ。なにしろ子どものころから銃を持たされているんですから。一定の年齢に達したら、日本でいうところの元服のように、弱りきった捕虜兵を撃ち殺すよう命じられるのですからね、ゴホン……。ともかく、彼らには、なに言ったって無駄です。むかしお偉い教授がしたためてベストセラーになった、人間には理解しえない壁があるとかなんとか説いた『なんちゃらの壁』ってあったじゃないですか。あれがあるんですな。彼らが崇拝する神の教えを説く聖典にだって、人殺しは禁じられているのですからね。原理主義をかたりながら――。『右』は『左の逆』というような、本質とはかけ離れた無意味なトートロジーが頭の中で出来上がっているのですな。わたしはね、こんなことを言うと、同じように人間性を疑われるかもしれませんが、殉教者は尊敬しますよ。大いなる敵に聖戦だと大義をかざして、戦いを挑むのはかまわない。ただし、そこに他人を巻き添えにしてはいけない。この他人には、赤の他人のほか、身内や仲間も含まれます。それは断じて殉教などではない。むしろ神の教義を冒涜する、神に背いた背教行為です。思い出していただきたい、今回のテロが起きた国とさほど離れていない、同じような貧困国で、こんなことがあったのを。首相が商売をする者への租税を高めたとき、一人の露天商が『これではもう生活できない。死んだほうがましだ』と、衆人のいる前でガソリンを頭から浴びて自らに火を放ったのです。立ったまま燃えさかる姿は、携帯電話の動画で世界中に伝播され、国内外を問わず、その者を称揚する集会が大々的に起こり、結果首相は辞任に追い込まれました。言うまでもなく、課税は見送られました。これぞ、被害をこうむる仲間たちのために殉じたおこないといえましょう。仮に、この課税に反対する反政府組織が生まれ、各地で暴動を起こしたとしても、首相を辞任に追い込むことはできなかったでしょうね。ともすると、逆に支持率を上げ、首相の立場をもっと強権たらしめたかもしれません」
「そ、そうですね。ところで、さっき言われた『なんちゃらの壁』というのは――」とは、司会者の言。
「ムッ、わたしはあえて、そう名乗ったのですぞ」
「す、すみませんでした。で――」
「『で――』とはなんです?」
「アッ、そ、それでは次の話題に移りましょう」
 ぼくはそこでテレビを切った。こんな人間がいてくれるから、もっとまっとうに生きようと思うことができる。彼こそ、自己顕示欲のためなら、容赦なく他人に不快を与える、舌禍型の言論テロリストと言える。北風ばかりあげつらって、太陽が何なのか示そうともしない。それどころか、数学の『解なし』のように、公然とこの場合に太陽などないと明言しているのである。
 ぼくがこの闇鍋のように適当に具材をぶち込んだ、辛いのか甘いのかもわからない(おそらく酸っぱくはあるだろうがね)、とにかくクソまずい話を持ち出したのは、これを煮詰めると、結局のところ『なんちゃらの壁』はあるのかないのかという問題に行き着くからである。
 ぼくは、そんなものは無いと信じる(引き続き、鼻をつまんだ『青臭い』との野次を受けようと)。もっとも『なんちゃらの壁』は、発想として――つまり考え方としては、コロンブスの卵なりに卓抜で、現代人が抱える多く不安を解消し、ある種の負担や責任から解き放ってくれた。しかし、ぼくとしては、ごまかしは嫌いだし、やはり間違いは間違いとして認めたくないのだ(料理以外で卵を割るなんて行為も認めたくないのだ)。いくら気が休まろうと、それはお互いの無理解を助長するもので、そんな怠慢の言い訳でしかない不誠実を信じるわけにはいかない。頭が煙を上げるほど悩み尽くそうと、ぼくは真実を追求したい。
 人間同士であれば、伝えたいこと、伝えねばならないことは、必ずわかり合えるものと信じる。わかり合える必要のないもの――双方が無価値と判断するものは、ここでは取り合わない。だが、一方にどうしても伝えたい意欲がありさえすれば、他方がそれに無関心な場合であっても、時間はかかるかもしれないが、思いはきっと伝えることができると信じている。どんなに難しい数学の定理でも、教える側が『この子にはわかってもらいたい』という強い熱意があれば、小学生にだってそれが何たるかを理解できるはずである。
 そうでなくてどうやって生きていけるのか? 逆にそれを教えてほしい。ひっきょう壁がある(あるかもしれぬ)と思う相手と、どうやって親友面をしたり、恋人同士になったり、結婚することができるのか?
 何もぼくは、どんなに複雑な、事情の込み入った意見の隔たりも、根気よく説得しさえすれば、霧が晴れるようにわだかまりが解け、誰もが理解できるようになる、などと言っているのではない。本来、最も重要な争点というのは、たとえ外形的にややこしく見えるものであっても、その核となる部分は三段論法で片が付く程度のものである。そもそも、立場や習慣などに左右されても、人が誰かに知ってほしい・教えたいと望むものは、共通認識のある、ごく単純なものにかぎられる。両手に収まりきれぬ偉大な思想も、しっかりこねくり回しさえすれば、手のひらに収まるものになるはずだから。あなたの主張が、どうしても相手にわかってもらえない――容易に手渡せない――なら、実はあなたこそがその主張の本質を理解できていないのではないだろうか。
 では、ここで一つ出題するとしよう。これまでの話は一旦横に置くとして、一人の人間にとって、一番相互理解しにくい相手は誰か? ちょっと考えてみてほしい。『異性?』、『年齢差のある相手?』、『外国人?』……『宇宙人』と答えた人は、なかなかしゃれっ気がある。答えは『親しい人』である。それも親しければ親しいほど、思いは伝わりにくい。話す側も聞く側にも、別の感情が働いて、素直になれないからである。血縁の度合いが薄まるほど、先入観なく理解してもらえる。知らない人ほど思いは伝わりやすいのである。
 二人がケンカしているとする。とにかく憤りがおさまらない。そこに警察官がやってくる。すると、そこでようやく相手の言い分が理解できるといったようなことはよくあるものだ。警察官でも十分だが、そこに、まったく日本語の話せない外国人を仲裁に向かわせてみるといい(無理やりではなく、ケンカをやめさせたいという熱意を持つ者にかぎられる)。もっと容易に、互いをより深く理解し合えるようになるだろう。ケンカを内紛と言い換えても同じことが言える。
 理解に必要なのは、情熱と同じくらいの冷静さ、それと、言葉よりも沈黙――すなわち語るより聞く姿勢なのだから。
 おっと、挙手をする者がいる。胃潰瘍を患った担任教師に代わって、今ではこのクラスの授業を臨時に受け持つことになったぼくだが、どうやら質問をしているのは、その担任を病院送りにした張本人と目されている生徒のようである。では、話を聞こう。
「あなたの言ってることは、からきし現実味のない空虚な嘘っぱちですよ。単なる近親憎悪で、戦争は少なく、内紛は多いってことを、ひけらかしたいらしいが、無意味この上ない。おれは、昨日のあなたにはケンカを売る理由はないが、今日のあなたにはケンカを売る理由がある。それはあなたがくだらないおしゃべりをするからでもあるが、自分が言い負けるはずがないと言わんばかりの勝ち誇った顔が気にくわないからだ。人間は、九十九・九パーセント身近な人間と過ごす。なぜなら、知らない人間も、五分後は身近な人間になり変わるからだ。そこにトラップがあるというなら、人はどうやって生きればいいんです? 引きこもって生きろとでも言うのですか? 硬い殻で心を覆った昔のあなたのように? ところで、生徒会長選残念でしたね」
「感謝する。そして、きみのこの発言をもって、今日の授業を終えるとしよう」
 なぜなら、すべてを一時に終わらせることはできないのだから。
 次の授業では、出席確認後、すぐにその生徒が手を上げた。今度は先日の授業でぼくが条件として課した『双方が無価値とするものは、ここでは取り合わない』という文言をあげつらってきた。彼は滔々と弁じたてた。ぼくは途中で教壇と彼の席との入れ替わりを申し出たが、彼は慇懃に断った。ただし、その目つきからは、前回の結末がよほど気にくわなかったようである。彼は途中から、生徒全員に向けて話し始めた――。
「ここにいるきみたちに一つ借問したい。昨日話したことを、全部文字に起こしてみるがいい。みんなが今日、朝起きて午前中話した分だけでもいい。儀礼的なものを除いたとしても、人がどれほど必要性のない無駄話に明け暮れているかわかるだろう。たとえ、誰かを怪我させぬために呼びかけられた注意喚起の言葉だって、そのほとんどが仕事上の責務として無感情にアナウンスされているだけではないか。人間の約九十パーセントが、無価値な物と、無意味な言葉に埋没している。おれはこれでも甘く見積もっているつもりなんですよ。突き詰めれば、人生に有意義な、将来を左右する可能性を秘めた言葉なんて、一パーセントだってありゃしないでしょう。あなたは金鉱を探し求める山師とおんなじですよ。いや、米粒大の金をテーブルの上いっぱいに薄く広げる金箔屋だよ」
「山師はともかく」ぼくは、クラス全体を見渡していた視線を彼に戻して沈黙を破った。その生徒の発言を謹聴する生徒が多くいることに、ぼくはうれしくなったのを覚えている。「きみは金箔職人の手仕事を見たことがあるかい? 『ちゃんと見たことはない』――そうか、じゃあ教えよう。最初は、金箔用に調合した金塊をローラーで何度も何度も引き延ばして、手でも曲げられるほどの厚さにし、最終的にはハサミで切れる厚みにまでする。それをおよそ五センチ角に切って、油紙に似た油紙よりはるかに滑らかな、繊維の潰された和紙に一枚一枚それを挟んで分厚い束にし、金棒を打ちつける機械を使って何万、何十万回と叩く――これが昔は手打ちだったんだからねぇ――。金が薄くなるごとに別の和紙の束に移し替えながら、その結果、一枚の厚みが一ミリの一万分の一の金箔になるまで叩き上げるんだ。そこまでの作業には、最低でも三人の職人が必要になる。彼らは決して無駄口を叩かない。叩かないどころか、最後には、自分の息こそが金箔を移動させる道具となる。今度、動画があったら見てごらん。これを無駄話に含めるか否かは、きみたち次第だ。さて、ではそろそろ学習指導要領に沿った授業を始めるとしよう」
 ぼくはこの回り道した授業に、この上ない満足を覚えながら、開き癖のついた教科書を持つと、チョークを掴み、黒板に向かった。
 ――こんなことを考えながら、ぼくはまたいつものように散歩している。
 さて、前から、しょんぼりと肩を落とし、下を向いた、背の低い中学生が近づいてきた。この少年は、五人の集団のしんがりとして、先の角から曲がってきたのだが、話し込む同学年の少年四人を見送るように立ち止まると、切なそうに振り返って、ぼくのほうへと歩いてきたのだった。四人が振り向いて、ニタつくのを、ぼくは正面から見ていた。四人は延長上にいるぼくと目が合うと、いそいそと前に歩きだした。
 お互いあと一歩ですれ違うというときに、ぼくは中学生に声をかけた。このようなうら若い相手(少年)を呼び止めたい場合、最初の一言が肝心で、可能なかぎり、さりげなくおこなう必要があった。
「おい」少年は、けげんな顔でこちらを見上げ、立ち止まった。「おまえ、いじめられてるな」
 少年はびっくりして、思わず背後を振り返ったが、目で追った四人はすでに遠くへ歩き去っていた。
 肩に抱えていたサブバッグをぎゅっとわが身に手繰り寄せると、少年はためつすがめつ、こちらを見つめた。何度考えても心当たりがないことに気づくと(当然だ、こっちだって知りはしないのだから)、少年はやっと口を開いた。
「あ、あなた、だれ?」
「てことは、いじめられてるわけだ。普通は先に否定するものな」
「い、いじめられてなんかないよ。じゃ」
 すれ違おうとする少年の前に、ぼくは横足を突き出した。逃げられなくなったのは、この少年が車と逆行する路側帯の壁側を歩いていた報いだ。
「ふ~ん、おれには挨拶するのに、同級生のお友達にはお別れの挨拶もしないんだ」
 少年は、『いじめ』という重き言葉の出所を、単なる自分のなりすがたではなく、あの瞬間を見られたからだということに気づいたらしい。
「……しようとしたけど、しそこなったんだ。そんだけだよ。もういいでしょ」
 少年が身体をぎりぎりに寄せてきたので、ぼくは次の言葉を言い放って、足を引いた。
「おれもそうだった。もっともおれは先頭だったがね」少年がその場を動かずに、聞き耳立てていたので、ぼくは話を続けた。「おれからやつらを無視してやったが、結局はいじめられていたんだ」
 少年は初めて、まっすぐにこちらの顔を見上げた。
「……おにいちゃん、だれ?」
「誰かが死にたいと思ったときに現れる、人のなりをした悪魔さ」
 怖がらせるつもりだったのが、あいにく期待外れに終わった。少年は上目遣いで、唇を尖らせた。
「……うそつき」
 結婚を申し込んだナンパ詐欺師だって、こんなには動揺すまい。
「な、なんでだよ」
「漫画と同じじゃん。読んだんでしょ」
 ぼくは心の中で叫んだ――『なに! 漫画にあるのかよ、この筋書き』。すると、無性に腹が立ってきて、少年に詰め寄った。
「そいつが――悪魔が、こんなナリをしてると言うのか?」
「いや、あっちは死神で、バケモノだけど……おにいちゃん黒い服着てるし」
「フン、実写版の悪魔向きってわけかよ。まぁどうだっていい。おまえを見たら、一度くらい『死にたい』、『死んだらどうなるんだろう』と考えたことくらいわかるさ。ここを二百メートルほど戻ったところに、公園があるのを知ってるな?」
 話が定まらないことに不安を覚えながらも、余儀なく少年はうなずき、質問に応じた。ちなみに、日本人というのは、道に迷った人間を道案内をする際、相手の視点に立って説明するのが一般である。相手の立場になって考えるのは、なにも日本人にかぎったことではないが、それでもそう断りを入れたのは、たとえば幼い子に自らの理解を促す場合、日本人は相手のことを『ぼく』と呼ぶ(たとえば『ぼく、お名前は?』など)からで、こういった二人称を一人称で表すのは日本人独特のものだと聞いたことがあったからだ。ところで、この主観を自分に置き直した『戻った』との言い回しは(少年からいえば行く先にあたる)、言うまでもなく、こちらの道が歩く側として優先だからであり、特にこの場合、中学生ぶぜいに思い知らせる意図はないが、このことに気づくかどうかは放任した形である。
「し、知ってるけど……」
「明日の土曜日――」ぼくは携帯電話を開いて時刻を見た。もう数分で十九時――午後七時なるところだった。「夜七時に、おまえに手を上げたやつの名前と住所を書いて持ってこい」
 長い沈黙のあとで、少年は下を向いたまま尋ねた。
「……どうして? なにするの?」
 ぼくは答えなかった。顔だけ『わかってるくせに』と唇を斜めに引き延ばして――。
 少年は顔を振り向けると、切羽詰まったようにわめいた。
「おにいちゃんは……おにいちゃんは、どうしてそんなことしようとするの?」
「さっき、悪魔だって言ったろ。将来のおまえに雇われた、な」
「う、うそだ! そんなことあるもんか!」
 もちろん、こいつは中学一、二年生だから、こんな話を真に受けているわけではない。それでも、こいつが声を荒らげたのは、仮説としてだってあり得ないことを、ぼくや自分に言い聞かせたかったからに違いない。
「そいつは、こんなこともおまえに伝えてくれって言ってたな――『友達に裏切られた。教師は信じられない。学校には味方なんていないと思ってるだろう? だがな、おまえが毛嫌いしているやつで、とんでもない味方になってくれるやつがいるんだぞ――教科書ってやつがな。そいつと仲良くなれば、おまえが手を上げても、他人に手を上げられることはなくなる』ってな。まぁ、それはそれとして、おれは土曜の夜七時に、あの公園を訪れる。いいか、土曜の七時におれがいるってことを忘れるな。さ、行け!」
 それから土曜の七時は公園の前を通るようにしたが、二度と少年を見かけることはなかった。

 俗にテレビ業界でゴールデンタイムと呼ばれる時間帯に、来客を告げるチャイムが鳴った。ぼくは二階の私室にいたが、この時間のテレビ番組を嫌忌しているので、その音は、閉め切った部屋にいるぼくの耳にもはっきりと聞こえた。無意識にチラと時刻を確認し、再び読み物に没頭したとき、母親がぼくの名を呼んだ。驚いたことに、警察官がぼくを訪ねてきているという。
 すぐさま脳裏をよぎったのは、先の中学生との会話だった。しかし、腑に落ちなかった。アレは二、三キロ離れた散歩道だったし、早々に警察が出るような話でもないはずなので。もっとも学校中の話題にでもなれば別だろうが。
 玄関に降りて、なお驚かされたのは、若い制服姿の警察官だけではなく、スーツ姿の中年の男をともなっていたことである。いやこれは逆で、だぼついたスーツを着ている男のほうが、制服の警官をともなっていたのである。スーツ姿の男は、刑事にほかならなかった。しかし、スーツの男はしばらく成り行きに任せるように一歩下がって、いちいち細かく玄関周りを見回していた。刑事のこの視線が、ぼくの熟考をことごとく邪魔したものである。
 ところで、訪ねてきた理由というのは、先日この家から五百メートルほど離れたところで起きたタクシー強盗に関することであった。
「そのことはご存じですね?」
 そうぼくが聞かれた刹那、用件を聞くまでその場を梃子でも動かなかった母親が、身を震わせ、悲鳴のような声を発した。
「こ、この子が、タクシー強盗をしたっていうんですか!」
 警察官は母親へと向き直ると、安心させるつもりか、両手を肩の位置まで上げて、そんなつもりはないと意思表示したが、その大袈裟な態度が、かえって相手に疑いの念を増幅させかねなかった。ぼくが思うに、この制服警官は、現行犯以外、捜査して犯人を逮捕した経験がなく、職務上、疑いある人間以外とは接触を持ってこなかったようである。
「いえいえ、そうじゃなく、被害を受けたタクシー運転手が、目撃者としてあげた人物が、息子さんとよく似ていたものですからこうして――」
 ぼくはその話をそばで聞きながら、内心むかっ腹を立てていたのは、横にいる刑事が一心にぼくの顔を見つめていることに気づいたからである。
「もういいよ、母さん。下がっててよ。その犯人の身長は、百八十センチ近くあるんだから、ぼくのはずがないよ」
 ぼくは無理やりにも母親を居間へと戻らせ、部屋の引き戸を閉め、二人の前に戻った。
「狭苦しくてすみませんね。それとも上がって話します?」警官のほうが刑事に伺いを立てたが、返事など待たず、ぼくは続けた。「冗談ですよ。おたくらもさっさと用件を済ませたいでしょうからね」
「靴はどうされてるのです?」と、だしぬけに刑事が尋ねた。「ご両親のはありますが、あなたのはないようですので」
「靴? ああ、ぼくは自分の靴は必ず靴箱になおすんです」
「そりゃまたどうして?」
「……出しておきたくないからです。いけませんか」
「まったく。ところで、お一人暮らしをされたことは?」
「……ないです。変なことばかり聞きますね」
「いや、申し訳ない。じゃあ、きみからまず事件の概要を説明してあげて」
 刑事の隣で胡散臭そうにこちらを見る同世代の警官を制して、ぼくは知っていることを先に暗唱した。
「いえ、説明を聞く必要はありません。この数ヶ月、二、三週間のあいだを空けて、似た手口のタクシー強盗が頻発しているのは、ニュースでも知っていますから。ドライブレコーダーのメモリーを抜き取って逃げるため、詳細な犯人像が割り出せないとのことでしたね。最初、ぼくは多くを隠し過ぎる警察の悪い癖が出たなと思っていましたが、こうしていまだ捕まらないところをみると、そうではなかったようですね。身長の件も、『長身』から『百八十センチ前後』と細かく更新されたようですし」
 胡散臭いというよりは、もはや犯人を見るような目つきで、横の警官は、ぼくを睨みつけていた。
 ぼくは不意を突いて彼に尋ねた。
「何年です?」
 表情をかきくもらせて、制服警官はぼくを睨みつけた。
「はぁ?」
「何年交番に勤務したら、『いいか、本気になれば、ほこりの出ない人間なんていないんだぜ』っていう顔ができるんです?」
 今度は刑事のほうが一歩前に出て、ぼくらに割って入った。
「ま、待ってください。わたしらの態度がわるかったのなら、申し訳ない。今日はきみに尋ねたいことがあって、来たまでなんだ。お互い無用な警戒心は捨て去ろうじゃないか。きみには、まだ名乗ってもいなかったね。わたしは五十川。ほら、きみも自己紹介するんだ」警官はしぶしぶ諸岡と名乗った。「はい、これがバッジだよ。彼は見せなくてもいいだろう?」
 これまでの権柄づくな態度がうそのような、もみ手でもしかねない機嫌の取りようだった。これで気をよくして、口を開き、ぼろを出す犯人もいたのだろう。ぼくはどういう状況にしろ、二回り近い年長者に下手に出られることは好まなかった。
「ええ、ええ、もういいですから、用件を言ってください」
「え~と、それではですね、健君。あっ、そうそうきみは玉川健君でいいんだよね」
 ぼくはやられたと感じながらも、道化を演じる刑事に、思わず苦笑いしてしまった。
「いったい、どこから話を始めるつもりですか?」
 刑事ははにかんだが、心はしたり顔のはずだった。
「ふむ、では、本題に入ろう。きみはよく散歩をするようだね」
「ええ、しますね。じっとしているときより、考え事がまとまるんで」
「それも夜が多いとか」
「おもに夕方ですが、日が落ちたあとに帰ってくることもあります」
「先月の二十一日水曜日は、どうだったか覚えてないかな?」
 間髪入れず、ぼくは答えた。
「散歩しましたね、夕方」
「どうしてそんなにすぐ答えられるほど、はっきり覚えているのかな?」
「はっきりもなにも、どしゃ降りやなんかで散歩に行かなかった日は覚えていますし、夕方行かなかった日もまれなんで覚えてますから」
「記憶がはっきりされている方で非常にありがたい。で、ここまではまだ準備の段階で、ここからが本筋なんだが――」
「見てませんよ」ぼくは先手を打って、結論を述べた。「おあいにくですが」
 五十川刑事――のちに警部であることがわかる――は動じなかった。
「何を見ていないのです?」
「逃げる犯人の姿ですよ。さっきそちらの警察官が言ったじゃないですか」
「これはしたり。どうして、いくらタクシーに乗車中のことではないにしても、乗り込む犯人ではなく、逃げる犯人なのです?」
 ぼくは面食らってしまった。面食らうと同時に、われ知らず心臓が早鐘を打った。これが警察と相対するということなのだろう。
「エッ……いや、そっちの警察官が今」
 すかさず五十川は会話の尾を引き取った。
「諸岡君が言ったのは、被害者が目撃者としてあげた人物があなたに似ている――と口にしただけですよ」
「ですから、犯行を目撃していないと言ってるんです」
「一般の犯罪と認識を混同されているのであれば、申し訳ありませんが、われわれは、四件すべてにおいて、犯行自体は詳細まで熟知しているんです。模倣犯など混ざっていないと、断言できるまでに。われわれがこうして血眼になってまで探し求めているのは、バックミラー越しなどでなく、犯人を直に目撃した人物で、そうであるなら、乗り込む際に目撃した人でも、われわれはおおいにかまわないのですが」
「それは言葉のあやというものですよ。言いがかり、いや論点のすり替えというべきか」徐々にわれを取り戻しつつ、ぼくは説明を続けた。「なぜタクシーの運転手が、バックミラー越しの犯人の顔しか覚えていないか? それは意識して相手を見るようになったのが、そのときだったからですよ。タクシーを呼び止めたときに見た相手の顔なんて、『酔ってないか?』『強面じゃないか?』の条件をクリアしたら、もう一瞬で忘れてしまうでしょうからね。異性――つまり女なら多少は記憶の残存に貢献できたでしょうが、犯人は男と断定されていますからね。つまり、それはこっちだって同じことで、よほど印象に残る人でもないかぎり、二週間以上も前の顔を覚えてられないわけです。それをこうしてわざわざ聞きに来るくらいですから、犯人が犯行をおこない、せめて逃げる現場を目撃しなかったか聞いていると思ったわけです。そもそも、あなた方が、ぼくを目撃者として目星をつけた理由は、タクシー運転手が、ぼくに似た人物を――意識的に――見たことと、ここからさほど離れてない貯水池の辺りで、最後の――あなた方が近日起きた事件を隠していなければ最後の――犯行がおこなわれたからでしょ」
 長く語るはめになったのを忌々しく思いながら、ぼくは締めくくった。
「そうですか、そこまでご推察いただけるとは思ってもみませんでした。一般の方ですと、われわれを前にした場合、心がざわついて、十お話ししても、三程度しか飲み込んでいただけないのに、あなたはわれわれがあなたのご母堂にお話しした数言を横でお聞きになっただけで、すっかりご理解いただけているのですからね。では、ぶしつけついでにもう一つ――、あなたが警察をお嫌いになる理由があれば、お聞きしたいのですが」
「ずけずけ来ますね。それは今度、あなたが一人で来たときにお話ししましょう。そんな機会はもうないと思いますし、そう期待したいところですけど」と、そこで、眼光炯々なまなざしを送る相手に視線を移して、ぼくは声をかけた。「あなただって、そのほうがいいでしょうから」
 意外にも、諸岡は反意を唱えた。
「いいえ、わたしだって聞かせてもらいたいですね」
 ぼくは、話し相手をしばし彼に切り替えた。
「諸岡さん、こんなふうな話し方になってしまうことを申し訳なく思いますが、ぼくはあなたたちのような制服警官には頭が下がる思いなのですよ」
「ね、ほら、玉川さん、わたしとお話し願えますか?」
 横合いからしゃしゃりこんでくる年長者を無視して、ぼくら同世代組は語り合った。
「そうは思えないな。嫌っているし、嫌う理由がきみ自身にあるから、そんな態度になるんだ」
「つまり、ぼくは後ろ暗い人間だと?」
「そうまで言わないが……」
「ぼくが、不可避に、ちょろっとでも犯罪に加担していたら、きみがどんな態度に出るか考えただけでも背筋が寒くなるよ」
「な、なんだとう?」
「その『なんだとう?』は、意味をちゃんと理解して口にしてるのかい? 本来、こういうときは静かに『そんなことはないさ』と返すべきなんだよ。とはいえね、諸岡さん」興奮気味の獣をなだめすかす飼育員のように、ぼくは声色を変えて話を続けた。「犯罪者と関わり続けたことで、そういう言い方が自然に出てしまうようになったとしたら、それは職業病と言うべきもので、ぼくら市民はやはりあなた方に対して『ごくろうさま』と頭を下げることをいとわないんですよ。ただし――」そこで今一度、口調を会話の冒頭に戻して、睨む相手を毫もひるまず睨み返した。「自分は守られていて、清廉潔白だという認識は捨ててもらいたいですね」
 ブレイクに入る審判さながら、片膝をわずかに上げ、下向きに腕をクロスさせた五十川が割って入った。
「もうダメです。よしてください、玉川さん。あなたの言うとおり、わたしたちは同じ目的を持った味方同士なんですから」ぼくはそんな発言をした覚えはなかった。「こんな言い合いはやめましょう」
 あきらめがつかないらしく、諸岡が耳打ちした。
「警部、ちょっとお話ししたいことが」
「わかった、わかった、外で聞くから。では、最後に今一度確認しますが、あなたは犯人とおぼしき人物を見ていないのですね」
 警部のニュアンスがさりげなく変化したことを、ぼくは聞き逃さなかった。
「犯人は見てはいません」
「ん、わたしがいま聞いたのは、『犯人とおぼしき人物』なのですが」
「まだ、不毛な言い合いを続けたいのですか、警部さん? あなたや諸岡さんから見たら、ぼくだって十分犯人とおぼしき人物に当たるのではないですか?」
「いえいえ、あなたは犯人ではありません。何しろ犯人の身長は百八十を越えてるのですからね」
 ぼくは肩をすくめて見せた。
「今ほど、背が高くなくてよかったと思えたことはありませんよ。じゃあ、ぼくから犯人とおぼしき人物を提示しましょう、諸岡さんです。だって、彼はちょうど百八十くらいでしょう?」
 警部は横を向いて尋ねた。
「きみ、身長いくつ?」
「百八十二センチです」
 警部は顔を戻した。
「だそうですが、彼ではありません。この管轄で第四の犯行がおこなわれたとき、彼もこの制服を着て初動捜査に加わっていましたから。他にはいませんか? それもあの夜、背の高い人物を見かけていたら、お教え願いたいのですが。そうそう、忘れていました。実際、あなたは、あの夜、あの辺りを散歩されていたのでしょうか? さっきは急に『見てない』などとおっしゃるので、聞き忘れていましたが」
 『ふん、なにが〈忘れていました●●●●●●●〉だ』――ぼくは心の中で毒づいた――『あの時間、あの場所を歩いていたのを知ってるから、横のペーペーに任せることなく、捜査を主任する警部自らやってきてるんじゃないか。犯行現場から百メートルと離れていない、表でいつも暇そうにタバコをくゆらせている、あの床屋が発信元だろうな。それでもって、その手前のたばこの自販機を映した防犯カメラに、歩くおれの姿が映ってたってところだろう。ところで、そのとき歩くおれの顔を見て、この警部自らが聞き役を買って出ることに決めたというのなら、はたしておれはどんな顔して歩いてたんだろう?』。
 ぼくは慎重に言葉を選びつつ、質問に答えた。
「散歩するにあたり、一通りの道だけでは面白くないので、四方に分けて散歩道を決めていますが、大学のある側は混み合うので、方角別に三つのコースを順繰りに歩いています。事件の翌日にニュースでそのことを知ったときは、ほとんど聞き流していて、その二日後、同じコースを歩いていたときに、『ああ、事件があった日も、このコースを歩いてたんだな』って思い出しましたから、実際あの日あの辺りを歩いていたのは確かでしょうね。時間帯がどこまで重なっていたかまでは、家を出る時間もまちまちですから、ぼくにはわかりません。ただ、叫び声など聞いた覚えはないですね」
「では、タクシーはどうです? 見ませんでしたか?」
「さぁ、タクシーなんていくらでも走っていますからね」
「では、停まっているタクシーは?」
「帰宅時間ですから、停まっているタクシーも見たでしょうね。それより、被害に遭ったタクシーがどんな色をした車で、どこの会社のものかは教えてもらえないんですか?」
「残念ながら、捜査に関わる秘密保持から申し上げられないのです」
「一つの会社のものが狙われているのかどうかも?」
「ええ」目をつぶったまま警部はうなずいた。
「第一と第二の分なら、ネットに流れたニュースの動画を見れば、おそらく確認できますよ」
「そうでしょうね」
 ぼくはあきれたように一つ溜息をついた。
「……いったい誰の何のための秘密保持なんです?」
「犯人を追い込むのに必要な秘密保持ですよ。では、あなたにだけはお教えします」
 さらりと出た発言だけに、諸岡は耳を疑った。
「け、警部!」
「かまわないよ。わたしが責任を取る。この人なら大丈夫だ。他言なさるような人じゃない。そうでしょう?」
「今の時代、どこにも書き込まぬよう注意もすべきでしょうね。ええ、しませんよ。それが市民の義務なら」
「そう、わたしはあなたに純然たる市民の義務を果たしてもらいたいだけなのです。今のところ、狙われたタクシー会社は二社です。ともに業界の大手で――これはわれわれが公にしたというよりもマスコミが抜け駆けして発表しただけなのですが――メモリーが取り外せるタイプのドライブレコーダーを採用しています。社名こそ控えさせていただきますが、この二社で、わが県の認可を受けているタクシーのおおよそ五割をカバーできます。したがって、駅や繁華街よりも、街で頻繁に見かけます。バンパーが黒に緑のセダン車と全面金色のハイブリッド車です。先月二十一日に起きた分は前者の緑のほうです。どうです、心当たりありませんか?」
 あえて一呼吸置いてから、ぼくは首を横に振った。
「はっきり申し上げて、ありませんね。見てないというんではなく、記憶に定かでないのです。申し訳ありませんが」
「本当は見ているのに、見てないと言うんなら――」諸岡が、平素の自分を取り戻すかのようなしゃちこばった物言いで口を挟んだ。「犯人隠避になりますよ」
「どうして? 覚えてないという言葉が、どうやって犯人隠避につながるんです。現時点でそんなことを言うのは考えられないことですよ」
 五十川警部が辛抱強く迫った。
「今一度確認したいのですが、犯人とおぼしき人物も見てないのですね?」
 ぼくは込み上げる笑いを鼻息だけでおさえた。
「いったい何度確認したら、警部さんは気が済むんです?」
 その五十川警部の顔が、にわかに真顔に変わった。
「あいにく、あなたが一度もお答えにならないからですよ」
 突然の強風にあおられたかのように、ぼくは背筋がゾクリとなった。後ろ足をつきたくなるのを、どうにか踏ん張りとおした。初めて取調室での顔を見せた警部に謝意を表して、ぼくは胸中を吐露することにした。
「いいですか、あなた方が社会悪とみなす相手が、国民全員の敵であり犯罪者として捕まえてほしいと願う相手と、がっちり重なるなどと思わないほうがいい。あなたたちが国民に被害が及ぶ前に、根を絶やしている悪党を含めても、あなた方の枠のほうが大きく、そしてお互いの円がおおまかに重なっているというだけに過ぎません。国民のあいだでますます格差が広がる現代において、底辺にいる人たちの内情というものを、あなた方――公務員という、まっとうな仕事について、まっとうな生活をされているあなた方――に、どの程度理解できているでしょうね。捕まえたら、人間的付き合いは、はいそれまで。無味乾燥に響く『もうこんなことするんじゃないぞ』。あなた方のやってることは、無責任そのものですよ。子どもが新たなおもちゃを欲しがるように、新たな犯罪者を追い求めているだけです。衣食足りて礼節を知ると言います。衣食が足りない者に法がなんだというのです。近所の独り暮らしの意固地な老人を見て、そう思うんじゃない。警察密着番組を見て、そう思ったんです。もちろん、今回の犯人は、そうでなく、若く背の高い男でした。事情も違って、おおかた借金があるか、遊興費が欲しかったんでしょう。だからといって、はいそうですか、とあなたの側に立つと思ったら大間違いです。老いてなくても、うまく世渡りできない人間はいくらでもいます。ぼくの今の立場からすれば、どれだけ確率が低くとも、考え抜いた末に、致し方ないと決断を下し、犯罪に手を染めた人間を見放すわけにはいきません。少なくとも今は、あなた方よりも、その人とのほうが、多くの面で理解を共有できるでしょうから。あなた方は、罪人をほんの一瞬でも自分と重ね合わせたことはありますか? 完全な別の種族と思って見ていませんか。今でこそ、ここにいる三人は三者三様の見目形をしていますが、生まれたばかりの頃は、ほとんど一緒だったのですよ。ぼくにはあなた方のやってることが、ときに粛清じみて見えることがあります。言い過ぎだったら、あやまります。確かに、あなた方は大変なご苦労をされて、罪人の大多数のろくでなしを捕まえてくれる。頭が下がります、本当です。しかし、だからって、市民全員が、あなた方の味方であり、言いなりになると思っているのなら、それはおごり以外の何物でもありません。どうぞ職務を忠実に遂行されて、一刻も早く犯人を捕まえてください。ただし、今回に関して、ぼくは中立な傍観者的立場を取らせていただきます」もう言わずもがな、わが家の玄関口は、静電気でも溜まったように、ピリピリと殺気立っていたが、ぼくは意に介すことなく、最後まで話を続けた。「それに、何につけ保険の適用する今の世の中にあって、他人が模倣できず、一人も傷つけないで、金銭を盗む行為に――それにメモリーカードもでしたね――、ニュースが叫び立てるほどの、凶悪性があるでしょうか? ともかく、せいぜいがんばるんですね。内心では大いにあなた方に期待しているのですから。では、お帰り下さい」
 彼らの足音とともに、『青臭い』と揶揄した人たちまでもが地面に唾を吐きながら去りゆく足音も聞こえてくるようだった。

 詮方なく玉川家を出た警察官二人であった。一人は沈思黙考し、もう一人は切歯扼腕していた。
 停めてあったパトカーまで戻り、車内が密閉された瞬間、さるぐつわから解放されたように一人が猛然と口火を切った。
「なんです、あいつの、あの態度! もし見てたんだったら、逃亡ほう助か犯人隠避で捕まえてやりたいところですよ」
 警部は、刑事部の詰め所に居るときの重くゆっくりとした口調で、それに答えた。
「うそをつかれるよりましだろう。カーテンを閉めきった真っ暗な部屋で、ナイフの刃がきらりと光った――なんていう証言みたいにな」
「とにかく、あいつはろくでなしですよ。きちんとした就職もせず、親のすねをかじりやがって。いまだに小遣いもらってるんじゃないですか? 学費だって全部親に払ってもらっている口ですよ」
「きみはどうなんだね?」
「おれ、いえ、ぼくは、大学三年次から奨学金です。三十になるまで払いどおしですよ」
「それまではどうなんだね?」
「いえ、まぁ、払ってもらっていましたけど」
「だったら、そんなふうに知りもしない相手をあげつらうもんじゃないよ」
「……警部、もしかして、あいつに感心してるんじゃないでしょうね」
「感心? どうだろね。感心する要素がまったくないと言ったらうそになるだろうな」
「警部ぅ、あなたほどの人が、あんなやつの口車に乗せられてはいけません。あいつはあの場にいるから調子に乗ってるだけで、軽くしょっ引いてやれば、泣いて許しを乞うようなやつですよ」
「そうかな? わたしにはより一層、殻に閉じこもる気がするんだが」
「薄っぺらい殻ですよ。あいつが学生時代にいじめられっ子だったのは、同世代のぼくには手に取るようにわかります」
「そんなきみが、いじめっ子だったりしてな?」
「おあいにくさま、警部。幼なじみに泣き虫だったやつがいて、ぼくはその子のために、いじめっ子とやりあっていたもんです」
「すまんな、冗談で言ったまでだ。しかし、それは感心。わたしなんかより、立派な少年時代だったわけだ」
「け、警部ほどではありません。なにせ、そいつにかわいい姉がいたもので」
「なるほど。しかし、わたしもさほど変わらない。気のある女子生徒の失くし物を探したことがきっかけで、この仕事に就いたようなものだから。話を戻そう。彼は、われわれ社会に向けては声を荒らげてのさばる一方、こと内向きなものに関しては異常なまでの後悔にさいなまれている」
「エッ、いったいどこがです? 徹頭徹尾、家族に対してすら、あいつは横柄だったじゃないですか。あれはすべてを社会に責任転嫁している証しですよ」
「靴を隠していただろう――あれは、家族に対する申し訳なさの発現にほかならない。すべての責任を自分に認めているからこそ、ああいった行為に出るものなんだよ。彼はきみを少々非難したが――きみ自身は面前でマシンガンでもぶっ放されたように思っているようだが、実際には数発威嚇射撃したに過ぎないとわたしは思うがね――、ああいった言葉は実のところ、きみをすり抜け、ゴム糸付きの弾丸かなんぞのように、わが身に帰ってくるのかもしれない。それが、わたしがどうしようもなく気になった、監視カメラでの歩き方と顔つきにつながっているように思われるのだが……」
「……警部、あいつ、もしかして、なにも見てないんじゃないですか。ただ安直に、『見ていません』って言いたくなかったために、あんな遠回しなことを言ってるだけなんじゃないですか。タクシー運転手の証言も、曖昧の域を出ないのですから」
「いや、あの男は何かを見た。だからこそ、『現時点』なんて言葉を持ち出したのだ。彼が実は正直者だという、今のきみの意見は正しい。犯人と確証づけるものは見なかった。そしておそらく、ありふれた光景の些細な違和感だったのかもしれない。しかし、あの男は引っ掛かった。つまり、犯人とおぼしき人物を見たんだ。だからこそ、わたしの質問を最後までごまかし通したのさ」


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