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4――『黒い猫』

〈13921文字〉

 そのくせ、あのあと、里美を避けるように学校生活を過ごしたのは玉川のほうだった。当時の里美は、いま振り返るとコースに引き返してきた理由を含め、愚かしいほどに彼の言うことを信じた。また、あの頃のチャーミングの欠片もない地味な小娘でしかない自分に、なぜあれほどの自信を持てたのかも、今となってははなはだ疑問なのだが、年頃の夢見がちな乙女がなせる業として受け留めるほかないと理解するとして、ともかく、当時は彼と噂になることを何より恐れ、実のところ、教師らの救援を待つあいだ、横目で彼のことを見ながら、先んじてそのことで頭を悩ませていたのは彼女のほうであった――『どうしよう……。ここまま助けられた場合、この人と変な噂されないかな。いや、玉川君は、成績優秀だし、こうやって一緒にいてくれるようないい人だけど、ちょっと変わった人だから……。もっとあけすけな人だったらよかったけど、こういう性格の人だからこそ、余計に尾ヒレのついた噂になりかねないし。助けが来るのが見えたら、偶然を装う形で、一緒に見つかったことにできないかな?』。
 というのも、二人きりになった直後、彼女は一人ひそかに(迷子の責任も棚に上げて)こんなことを思い起こしたからであった。それは中学時代に読んだ少女漫画の話で、まさしく今の状況に似た、記憶に深く刻まれた一場面であった。そのシーンとは、学校が休みの日でのこと、人気のない村の神社で偶然出会った、お互いに気が強く、平素はつっけんどんにしか言葉を交わさない、学年の中では彼が男子の代表を担い、彼女が女子の代表を担う立場の男子と女子が、“なんとなく”話し合ううち、“なんとなく”好意を持つようになり、特に告白もないまま“なんとなく”男子の側から寄せられた唇に女子が応じ、そのまま何時間ものあいだ、無言でキスをするといったものであった(その少女漫画がシリアスなのはその場面くらいで、あとは学校内ではいがみ合い、隠れて恋愛するというコミカルな内容だった)。そのシーンを目の当たりにした当初、中学生だった里美は、衝撃こそあれ、耽美な気持ちが勝ったが、このときは戦慄なくして思い返すことができなかった。でも、男女を意識するたび、否が応でも思い出さずにはいられないのだった。ところで、この戦慄の対象は、『彼』に向けたもの以上に、『別のもの』に向けられたものであった。それは、もちろん今回の一件が何事もなく落着したにせよ、過去あの漫画を見た同級生の女の子たちが、いずれそのことを思い出しはしないだろうかということだった。
 彼女の高校は進学校だったので、そういった噂――つまりは異性との不純な交遊が、これまで表立って問題視されたことがなく、無垢な彼女の思考回路は、噂イコール停学もしくは退学処分へと直結し、そう考えると、たとえ噂が招いたことであろうと親への申し訳なさで今にも胸がつまるほどだった。噂には証拠など何ひとつないにもかかわらず……いや証拠がないからこそ、噂としての裏付けを得るのである。
 しかし、足を怪我して、もはや重荷と化した自分をそばにおいて、文句ひとつ言わず(彼女の妄想など露と知らず)、林に目を向け、一緒に救援を待ってくれる彼の横顔をまっすぐ見つめた彼女は、そんな胸算用は捨て去って『今はただ、この人にいてほしい!』との願望だけが心を支配するにいたった。闇とともに迫りくる恐怖を感じたとき、わが身を抱くのではなく、彼の手を握ったのは、その感情のあらわれだった。
 そんな彼女にとって、救援が到着した際の『自力で帰る』との彼の申し出は、ある種、渡りに船とも言えた。しかし、彼を一人行かせてしまったことは、すぐさま彼女の胸に深い後悔を植え付けることになる。それは、三十分後に宿舎に戻ってきて、泣きながら駆け寄る五人に抱きとめられ、生徒全員に迎えられるなか、廊下の隅っこのトイレの壁にもたれかかり腕を組む玉川の姿を見てからも、なくなることはなかった。彼の言う『無用な純真さ』に何度駆られたかしれない。そして、残る学生生活で、どれほど彼と二人きりになる偶然の瞬間を求めたかしれない――『あのときはありがとう』と、ただそれだけを言いたくて。だが、叶うことはなかった。後者に関しては、彼がそうなりかける状況をすべて潰した。教室から出遅れる彼を確認した彼女が、わざと教室に居残ると、彼は机の上の整理もせず、猛然と教室を出ていったものである。次第に彼女は、彼に対する怒りが込み上げてきた。そしてそれはいつしか『知るもんですか』という感情に変わった。無意識が、彼を忘れ去るのに手を貸した瞬間だった。
 その後、彼を一度思い出したのは、大学生の頃だった。同じゼミ生との会話で、カブトムシというワードがたまたま話題にのぼったときであった――『でも、すごいよね、オオクワガタって一匹三千円で買い取ってくれるんでしょう?』『はぁ? どこのどいつかそんなこと言ったんだい。それは二十年も昔、オオクワガタが黒いダイヤと言われていた頃の話さ。話題になり過ぎて、繁殖の技術が上がってからは、よっぽど大きいもの以外は天然ものですら三百円でも買い取ってはくれないよ』『そ、そうなんだ……』。そのときチラと、玉川のふてぶてしい面構えが脳裏をよぎったが、どうしてあのとき彼がそんなことを言ったのか考え直すまでには、あと四年を要することになる。
「つまり――」そして今、里美はベッドに横たわったまま、長い年月を費やした考察を、口に出してまとめた。「あのとき、あの人はオオクワガタを探しに来てたんじゃない。やっぱり、わたしが森で迷子になったのを知って、『自分も地図係だし、慣れた道だから』と先生たちより先に助けに来てくれたんだ……そうなんだ……明日、バイトが明けたら……手前の駅で降りて……あのスーパーの……別の系列店に……行って……みよう……」
 うわ言のようにそれだけを言い残し、彼女は微笑むようにして深い眠りに落ちた。

 アルバイトを終え、帰宅の途に就く里美の携帯電話が鳴った。
「あ、里美、電話に出たってことは、仕事は終わったようね」
「ごめん、明日香。前の着信も気づいてたんだけど、落ち着いてから、かけ直そうと思って。今、駅で電車を待ってるの」
「切符は? もう買った?」
「うん、もう買ったよ。『電車を待ってる』って言ったでしょ。買わなきゃプラットホームに入れないわ」
「どこまでのやつ?」
「『どこまで』って、家までのやつに決まってるじゃん……」
「家までってことは、『大橋』行き?」
「エ、うん、今日はちょっと、ボタン押し間違えちゃって、『高宮』までのやつ――って、それより、なんなの突然?」
「うわっ、奇跡だわ!」
「オ、驚いた……なにが『奇跡』なのよ」
「今日、あんた、もう用事ないわよね。どうせ、今は彼氏いないんだし」
「重ね重ね失礼ね。で、いったい何が奇跡なのよ」
「お願い、里美ちゃん、コンパに出て! 一人欠員が出ちゃって。参加費は入らないから。ちょうどこれから高宮で合流するの」
「んもう、会社員を辞めてから、そういうの行かないって言ったでしょ」
「大丈夫、男のほうは国立大出身のボンボンだけだから」
「はぁ……それの何が『大丈夫』なわけ?」
「だってさ、そういう人と結婚できりゃあ、再就職なんてしないで、いきなり主婦としてやっていけるじゃない」
「あなたが、正社員を狙わず派遣におさまって、コンパに明け暮れている理由がやっとわかったわ」
「今だけは、どうとでも言わせてあげる。でも、これは一生のお願い、今日だけ参加して!」
「あのね、明日香、羽化したセミだって、そんなに軽々しく『一生のお願い』をしないと思うわ。まったく……普段着だけどかまわないわね。それと……男性陣と会う前に、あなたのメイク道具借りるから」

 駅前で合流した残る女性二人は、勤め先は違うもののともに明日香の知り合いで、里美にとっても会社員時代から顔なじみのコンパ仲間だった。その場かぎりの男どもには、勤め先からおおよその年収、現住所から部屋の間取り、兄弟姉妹のあるなし(とりわけ長男かどうか)にいたるまで調べ尽くすのに、この女性二人に関しては――おおまかなことを間接的に聞き知ることはあっても実際に――どこに勤めて、明日香とはどういう関係なのかも、いまだよくは知らなかった。聞こうという気が起こらないままに、それっきりになっていたのだ。それも当然だったのかもしれない。コンパは女同士が仲良くなる場ではなく、ひっきょう男を奪い合う敵でしかない――というのが、歴戦のつわものでもある彼女たちの認識だった。二人がこれまで里美につれない態度をとっていたのは、同じ敵でも、好まれざる側に位置づけられるからであった。そんな二人が今回、明日香の『里美を誘おう』との申し出を受け入れたのは、それだけ切羽詰まっていたからといえよう。今回は初めて二人のほうから里美に近づき、挨拶と軽い近況報告がなされた。とにかく、新人が一人もいないことから、明日香と彼女たちの本気度がうかがえた。
 『よほどいいメンツに恵まれたらしいわね』――その憶測は、居酒屋の個室で待つ男性陣を見て、納得に変わった。歯の真っ白な一団がそこに待ち構えていた。相手は、国立大の同窓生、こちらはよく集まる女子会のメンバーとして紹介された。むろん里美は、一番手前の末席である。一仕事終えたばかりの彼女は、よく食べ、よく飲んだ。ちょうど、ホールスタッフが開ける引き戸のそばにいたので、グラスの中身を確認しながら配膳し、自分も飲んだことのない高いカクテルにこっそり手を出してみたりした。仮に男側に負担してもらうことになっても、彼女の心は痛まない。気がとがめるとしたら、タダを約束してくれた明日香たちに対してであって、彼らではない。そもそも、彼女は数合わせために呼ばれたのだから、出しゃばらなければ、ちょっと多めに飲み食いするくらい許してもらえるはずであった。とはいえ、彼女だって質問くらいせねばならない。それに、本当を言うと、最初から一つだけ彼女には聞きたいことがあったのである。
「あの、みなさんは、大学のどの学部のどちらの学科出身なんですか?」
 二人が経済学部経済産業学科、あとは、理学部数学科と商学部商学科であった。里美は膝に乗せていた手をテーブルにつくと、残りの一人が言い終えるのも待ち切れずに、息巻くように斜め前の数学科の青年に尋ねた。
「で、でしたら、ご存じありませんか? 玉川健って人がいたと思うんですけど」
 なぜかその男は、代表を務める、常に落ち着いていて、背が高く、グループ一ハンサムの男に目を向けた。まるで、予定にない話の広がりに対して、ひそかな指示でも仰ぐように。
 その美男子が二人のあいだに割り込んだ。
「なに? その男って、きみの彼氏だった人かい?」
 別の人の話を聞いているときに何度か目が合ってはいたが、真正面から見られると、第三者的立場を堅持しているつもりでいる彼女も、ほんのり頬を染めた。里美は慌てて訂正した。
「い、いえ、全然、彼氏なんかでは……高校の同級生なんです……ちょっと変わった人で……」
 隣で、咳をするのが聞こえた。届いたばかりのシーザーサラダのパルメザンチーズが気管に入ったのだろうくらいに受けとめ、里美はすぐに忘れた。
「きみと同級生ってことは、彼よりいっこ下に当たるからね。さすがにわからないんじゃないかな。どうだ、正毅」
 理学部数学科出身という正毅が答えた。
「う、うん、玉川君だっけ、記憶にないな」
 それでも、こんな偶然は滅多にないと、彼女は質問を続けた。
「名前はわからなくとも、姿くらい見かけたことがあるかもしれません。あの人はだいたいいつも黒い――」そのとき、明日香までが咳き込み始めたことで、ようやく里美にも場の雰囲気を――女子たちのしらけた空気を――感じ取ることができた。「ご、ごめんなさい。ふと思い出したもので。忘れてください……」
 里美は下を向き、肩を寄せて、縮こまることしかできなかった。
 このままでは余計にムードが悪くなると、明日香が会話を引き継いで、その話題を締めくくった。
「いえ、違うんです。わたしもこの子と同じ高校の出身で、文系のほうだったんですけど、その人のことは知っていて。とにかく変わった人で、本人の知らないあいだに生徒会長に立候補されたような人なんです。掲示板でそれを知ったときは、本人、半べそかいたような顔してましたけど。ね、お笑い草でしょう! ええ、もちろん落ちましたとも」
 コースメニューは出尽くし、腹はふくれ、宴もたけなわになると、二次会に行くことが決定し、ブラウスを引っ張られた里美だけは強制的に――一人抜けて総数を偶数から奇数にできようはずもなく――、全員でカラオケ店に向かった。

 そこでも、代表を務める落ち着き払った美男子――塩原が、一人抜け出してカラオケ店の受付と交渉し、一番奥にある他の部屋より一回り大きな、ダーツもできるボックスルームをお膳立てしてくれた。ラウンジで立ち話しているグループの中から一歩飛び出した里美が、手を後ろに組んで、戻ってきた塩原を出迎えた。
「よく来るお店なんですか?」
「うん、オーナーともちょっとした知り合いでね。向野さん、いや、里美ちゃんは、普段はどこのカラオケ屋に行くの?」
「エッ、わたし?」話題の中心になるのを避けていた里美であったが、今日初めて、聞かれたことに素直に答えた。「いえ、最近は行ってないです。というのも、わたし、オンチで――」
 そのとき、熱いくらいの視線を背中に感じた里美が、何気なく振り返ったところ――感覚としては念のようなもので誰かに呼ばれたような気がしたのだ――、仲間の三人が三人とも真っ向から自分を睨みつけている光景を目の当たりにして、一瞬だが彼女の心臓は収縮したまま停止しそうになった。またたく間に血の気が引いた里美は、無意識とはいえ、本命最有力候補に、ごく自然と、まるきし普通に話しかけてしまったことが、軽率だったことに気づかされた。
 その背中で、従容とした声が続いた。
「ふ~ん、里美ちゃんは、器量がいい分、歌は苦手なんだ」
「き、器量なんて……だ、だから、あんまり歌わせないでくださいね」里美は取り乱して、後ろ足のままラウンジに戻ると、急に振り返って、保育士さながら、みんなに向かって手を叩いて見せた。「ほら、みんなどうしたの。早く部屋に行きましょう。正毅さん、そんな奥にいると置いていきますよ」

 女性陣が安くあげるのによく利用する、狭苦しく、テーブルがやたらごついために奥に座るともう出られない、長時間いると腰と尻が痛くなるコの字型のソファに占領された部屋とは異なった、広々とした、沈みこみのいいソファが人が自由に入れ替われる余裕を持って配置され、奥にはスツールがしつらえられた部屋を、女子たちが興味津々に眺め回していると、その間に、紺色の帽子に茶色の腰エプロン姿のホールスタッフが、データを打ちこむ機械を手に持って現れた。が、一度顔を上げると、部屋を間違えたことに気づいたらしく、向かい合った男性陣にだけ一礼して、部屋を出ていった。運よくこの部屋はとれたが、この時間、カラオケボックスは満室に近かった。ややあって、『いくら満室とはいえ、ビップルームにしては応対が遅過ぎる』と、塩原が仲間の一人に内線での呼び出しを指示すると、古馴染みのスタッフがそそくさと現れた。
「いや~、塩原さん、お待たせしちゃってすみません。立て込んでいる上に、スタッフが全然足りなくて」
 塩原は不興顔で、謝罪に対する返事を先延ばしにした。
「……新しいのも増えたようだが?」
「ええ、部屋も覚えきれない上に、注文のデータも打ちこめないようなやつで。この前も、部屋に行ったきり、データが全然上がってこないんで、何やってるんだと思っていたところ、素知らぬ顔で戻ってきやがって、呼び止めるおれを振り切って、キッチンに向かうと、受けた注文を口で言い始めたんです。全部暗記してやがって。こちとら、それをまたデータに打ちこんだ次第で」
「それはそれですごいが、なんで、そんなやつを雇う?」
「ええ、これにはちょっとした理由がありまして――」
 話が長くなりそうだと見ると、塩原は手を払い上げてやめさせた。
「もういい、それより注文だ。お~い、みんな、こっちこっち。なに飲む? ここはね、カフェラテ風味のフローズンカクテルが女性には人気だよ」

 あくる朝、こめかみに痛みを感じても、記憶ははっきりしていた。この夜のことを振り返っても、なぜこうなったのか――『それも〈一夜に二回、別人と〉よ……』、ともかく里美にはわかりかねた。
 話を戻そう――。彼女は今、トイレに行くふりをして、酔い覚ましに風に当たろうと(居酒屋のアルコールが今になって祟ったのだ)、廊下の丁字のつきあたりを、トイレとは逆の非常口のほうに足を向けたが、鉄扉には鍵がかかっていて、プラスチックのカバーを破壊しなければ、外には出られないようになっていた。そりゃそうであろう。出ていけたら、無銭飲食がやり放題である。『バカね、オフィス用のビルじゃないんだから……』彼女が自嘲の笑みを浮かべ、廊下を戻ろうと振り返ったところ、埋め込み式の電球照明を三つ隔てた先に、物音ひとつ立てることなく塩原が立っていた。ただでさえ、薄暗い廊下である、彼の表情はうかがい知れなかった。
「どうしたんですか、塩原さん? トイレなら向こうですけど」
「知ってる」
「じゃあ、どうして?」
「どうして、ぼくがここにいるかって? きみを口説くためだよ。最初からきみしか狙っていなかった」
 塩原はゆっくりと近づいてきた。里美は彼をまともに見ることができず、恥じらいながら、距離を取るように下がった。実を言うと、盛り立て役を演じる一方で、彼女も四人の男の中で、いつしか彼しか見えなくなっていた。彼の前への一歩は、彼女の後ろ足の一歩より、はるかに大きくすぐに距離は狭まった。必然、彼女は袋小路に追い詰められることになった。
「エッ、ア、あの……塩原さん?」
 二人は手の届く距離になった。里美は、背中が壁に当たると、今度は壁の隅に身を引いた。
「ぼくのこと、嫌いかい?」
 彼女は首を左右に強く振った。この場合、単純に好意の度合いを問われれば、彼女はそれを明かすのをためらったであろう。しかし、このように否定形で問われた場合、ただでさえ、出会ってまもない関係であり相手に自分の心情を悟られぬ段階であれば、嫌いでないという意思表示は無意識にも強くなるものである。とはいえ、理性がすぐさま“強く”否定したことを彼女自身に後悔させた。
「いえ、そんなことありません。で、でも、もう戻らないと……」
「うん、戻ろう。だけど、向こうに戻ってからも、結ばれていることの約束だけ、今しておこうよ」
 塩原の右手が背中の壁につかれ、里美は完全に彼の懐に入る形となった。逃げ場がないわけではない。彼の脇の下をくぐれば、この状況を回避することはできた。しかし、おそらく、いやだからこそ、彼女はその場に留まったのだろう。そして、こぶしに固めた両手を胸に置き、上目遣いの目を閉じて、彼女の唇が塩原の唇と合わさった。
 だが、合わさった刹那、里美は眠りから目覚めたように彼の胸を押し返して、自分も壁に背中を打ちつけながら身を引いて、彼の横をすり抜け、塩原の背後に回った。
「わ、わたし、先に戻ります……」
 里美は下を向いたまま、それだけ言い残すと、駆けるような早足で、自分たちの部屋に戻った。
 戻ったあと、彼女は彼に対して、逆に一線引く態度をとった。塩原とは短い受け答えに徹し、他の男性とは、話題に割り込むほど長く話すようになった。一方、塩原はといえば、これまでは折に触れ、伺うような視線を投げかけていたものが、あまりにも堂々と、臆面もなく、周囲に見せつけるように里美を見つめるようになった。そのため、場が急速に熱を失い、特に三人の女子と正毅はすっかり興醒めしたようになった。それから三十分と経たず、コンパは散会することが決まった。他の三人の女子が、いい人を見つけられたのかそうでないのか、このあとどうなったのか、里美は知らない。『じゃあね』と言われたっきり、三人は静かに去っていった。まずは確定している二人から分断していく――これがこの場合のしきたりなのだった。明日香だけが振り向いて、あとで電話するようにとひそかなジェスチャーを送った。里美が一緒に付いていけなかったのは、そのときにはすでに、塩原より『店裏で待ってて』と耳打ちされていたこと、それに今どういう印象が残っているにしろ、キスを交わした責任があったからであった。
 彼女が待っていて当然のように、塩原はなかなか現れなかった。じろじろとねめ回す酔ったサラリーマンを回避すること六人、ようやく両方の手をポケットに入れ、水たまりを飛ぶような軽快さで、塩原はさっそうと現れた。彼は闇夜でもわかる白い歯で微笑むと、そのまま彼女の腕を掴んで、どこかに連れ出そうとした。
「行こう!」
 腕を引っ張られながら、里美は仕方なくついて歩いた。
「どこに行くんです? あの、わたし、その前に――」
「『その前に』の用件は、ぼくの部屋で聞くよ。向こうにタクシー乗り場がある」
 里美は膝を寄せ、開いた足を踏ん張って、その場に立ち止まった。掴まれた腕は引っ張られ、肩の辺りまで持ちあがった。重力を無視したわけではない。彼のほうがだいぶ背が高かったからである。
「エッ、ま、待って! 待ってください。わたし、行きません! だって、塩原さんとは今日知り合ったばかりじゃないですか」
 彼は一度大きく目をみはると、わが目を疑うとでもいうように、瞬きを繰り返した。
「驚いたな……きみ、本当に二十五なんだよね? フッ、冗談だよ。そんな怖い目をしたら、せっかくの均整のとれた造形美の顔がもったいない。つまり、きみはぼくが、部屋に連れ込んだことで、きみに何かをするんじゃないかと危惧しているんだね。でも、安心していい。決してぼくから●●●●●●●、その『何か』をするようなことはないから」
 里美は明らかに軽蔑した視線を投げかけると、眼前のうぬぼれ屋に言わねばならぬことだけを事務的に伝えた。
「塩原さん、あなたはもしかすると、いま酔ってらっしゃるのかもしれません。さきほど電話番号の交換をしましたよね。近日中に必ず電話しますから、そのときまた会っていただけますか?」
「ハハ、きみはぼくに、あらぬ疑いを抱いているようだね。恋愛は理屈じゃなく、もっとフィーリングを大事にすべきだと思うけどな。たとえば、さっきの廊下にいたときのきみのようにさ。おうっと、そういえばきみは理系女子だったね。だったら、やっぱり、ぼくの部屋を見ておくほうがいいと思うよ。部屋を見れば、その人の人間性もわかるというからね」
 里美は理系ならではの至極冷静な態度で聞き返した。
「……逆にお聞きしたいのですが、こんな時間にお宅を訪問して、わたしは何をしたらいいのですか?」
 彼の片方の眉がピクリと動いた、仮面が剥がれるように、少しずつ怒りがあらわになった。
「別に――、ぼくがどんな人間かわかるまで、部屋を散らかしまくるがいいさ。眠くなったら寝たらいい。その姿をただ見守ってほしいなら、ただ見守ってあげよう。あくる朝には、執事さながら、きみを車で送ってあげてもいい」
 無駄話を断ち切るように、間髪入れず彼女は言った。
「手を離してください」
 彼女は毅然と申し出たが、聞き入れられなかった。彼ははじめ、彼女の肘下を掴んでいたが、もっと掴みやすいよう、今では右手首をしっかりと掴んでいた。彼のほうは返事を待つように、ただ黙って彼女を見つめるばかりだった。
 再度、里美が口を開いた。
「では、はっきり言います。あなたの部屋には行きません。そして、たぶん、今後もきっと行くことはないでしょう。お願いですから、手を離してください」
「痛く握っているわけではないから、そんなに大きな声を出さないでもらいたいな。きみは恥ずかしくないのか? あんなまねして、今更態度をひるがえすなんて」
「あなたこそ、恥ずかしくないんですか、塩原さん……」
 彼女の憐みを催した顔が、彼の神経を逆撫でた。
「痛いッ」
 腕を強く握られた里美は思わず悲鳴を上げた。
「きみがそんなにタクシーが嫌だって言うなら、友達の車で連れていったってかまわないんだぜ」
 そのとき、突然、二人の予期せぬ方向から声が上がった。
「まったく、その子の言うように、よく恥ずかしくないものだな、あんた」
「だ、誰だ?」
 そう声を荒らげるなり、塩原は声のほうを振り向いた。薄く開いた従業員用出入り口から、紺のキャップに茶色の腰エプロンを巻いた男が現れ、近づいてきた。
 本当に驚くと、声は出ないものらしい――大きく口を開けた里美は、声を失ったまま、何も考えることができず、腕の痛みすら忘れて、その場に立ちつくした。
 そのカラオケ店の店員は、まぎれもない、玉川健だった。
 店を知り尽くしている塩原は、即座に言い放った。
「なんだ、おまえ、さっきちょろっと部屋に来やがったアルバイトじゃねぇか。おまえ、立場わかってるのか? おれはおまえんところの店長と――」
 冒頭の事実を知らなかった里美は、驚くままに歪んだ塩原の顔を見返した。塩原の威圧的な口調を黙らせるように、玉川が声をかぶせた。
「気安く『おまえ、おまえ』って呼ばないでもらえます」里美が身体ごと玉川へと視線を振り戻したのは言うまでもない。「あなた、店のスタッフの印象、よくないですよ」
 酔いが覚めたはずの里美の頬が、赤く色づいた。塩原は、世話を焼いてやっている自負もあり、案に違う内々の事情に、別の衝撃を受けたらしかった。
「な、なんだとぅ」
「それにね、いったい全体、勤め始めたばかりのぼくに、どんな立場があるって言うんです。望まない業務を無理やりにやらされているぼくに。あなたの言ってることはすべてナンセンスですよ。一つ確かなことは」彼は自分の携帯電話を取り出し、顔の横に掲げた。「この携帯電話で警察を呼べば、あなたは脅迫罪と傷害罪で、ただちに逮捕されるということです」
 やっと掴まれていた里美の手首が離された。彼女はすかさず塩原から手の届かぬだけの距離をとった。恐怖が残っていたにせよ、彼女はまだ、この場から逃げ去るわけにはいかなかった。新たな獲物を得たように、塩原は前へと足を踏み出したからである。背の高さ、腕力、俊敏さ、ケンカに必要なものはすべて、塩原が勝っているように見えた。
「そんなまねをして、ただで済むと思っているのか?」
 何かを隠し持っているように、塩原の手がズボンの尻ポケットをまさぐったが、玉川は動じなかった。
「どうだろう? 考えたこともない。ただし、この服を着た業務上のことで怪我した場合、ぼくは店の保険適用を訴え出るつもりでいるがね」
 塩原は立ち止まり、二メートルの距離を置いて、玉川を睨みつけると、尻ポケットからゆっくりと後ろ手を引き抜いた。その手には何も握られておらず、また『ポケットには最初から何もなかったんだ』とでも言うように、指の股が大きく開かれた。
「……その制服を脱いだとき、せいぜい気をつけるんだな」そう捨てゼリフを吐くと、玉川にはもう一言も言わせまじと、塩原はきびすを返して歩きだした。横を通るとき、彼は里美に言い残した。「じゃあな、お嬢さん。次会ったときは、よろしく頼むぜ」
 彼女はその意味するところを察して、言い返した。
「次はありませんから、安心してください。わたしもう、コンパには行きませんから」
 深読み好きな方のために断っておくが、その言葉に、特に他意――つまりもうコンパ(恋人探し)に行く必要がなくなったとの意味――はない。そこには売り言葉に買い言葉もあったが、実際、当分のあいだ、コンパはごめんだと里美は素直に思ったのである。
「そりゃよかった」
 感情のない、なおざりな返事を残して、塩原は落ち着きはらった歩調で去っていった。
 暗い通路に取り残された二人だったが、うち一人は状況の変化に気づくとすぐに、廊下の光がこぼれる開けっ放しのドアに足を向けた。
「待って!」
 男は待った。女は駆け出し、歩を緩めると、何もない空間を一途に見つめる男の真横に立った。男は帽子をかぶったままだった。
「あ、ありがとう」
 今度は、彼も拒まなかった。
「邪魔したんでなければな」
「アッ……廊下でのこと、見たんだ……」
 里美は決まり悪げに下を向いた。
 彼は外壁を伝う配管の一本に視線を定め、返事をしなかった。そう、確かに彼はあのとき、通用口の隙間からひそかに見ていたのである。
「いつ、わたしだと気づいたの?」
「部屋に入ってすぐ――きみがスツールの上の電池式キャンドルに見入っていたときさ。しかし、きみが、あのときリーダーだった文系の女性と、いまだ付き合ってるとはな」
「わたしも不思議。あの子とは、切れそうで途切れない、不思議な関係なの。それと、あのキャンドル――びっくりしちゃった。本当に火が付いているように灯火部分が揺れるんですもの」
 里美は雰囲気を楽しむように、じっと彼を見つめた。おかげで玉川は、どんな状況にあるか教える意味も込めて、横目でチラチラ視線を振るように里美を見なければならなかった。
「……おれ、仕事中なんだけどな」
「アッ、そうだった。ごめんなさい。戻らないといけないよね。今日は何時に――」
 彼は人を待たせることも、人に待ってもらうことも大嫌いだった。なかんずく、夜中に女を路上に待たせておくことなど、一分たりともさせたくはなかった。
「いいさ、勝手に休憩を取ったことにする」里美を直視こそしなかったが、玉川はようやく身体を彼女と向かい合わせた。「しかし、偶然って怖いな。しかも三度目ともなると、達観して、動じない自分がいる」
「わたしも――」とんでもない男にだまされそうになった直後だからか、こんなにも安らぎを感じる瞬間は、近年彼女にはなかった。「玉川君、この前わたし、ひどいことを言ったね。あれからずっと、あなたのこと探してたのよ」
「きみがどう探すか、考えた上で選んだ勤め先で、これさ」
 彼はこともなげに言ったが、確かにそうだった。里美の性格を知る彼であれば、あんなことを言った手前、彼女が探し回ることくらい見越して当然だった。あいにくそこまで見抜けなかった里美に味方したのが、彼の仕組んだものを、土台ごとひっくり返す力を持った、奇跡というやつだ。
「ねぇ、玉川君。今度は、バイト、辞めないよね」
「さぁな。どうせ向かない仕事だし。キッチン業務だって聞いてバイトに入ったのに、勝手にホールやらされてるしな。案外、あいつが店に苦情を入れてくれたらすっきりするんだが」
 里美は、あらためて制服姿の彼を見つめた。あいかわらず、顔を隠すように帽子をかぶっているが、おかしいところはなく、様にさえなっていた。あの白ずくめのときだって、決して笑いを買うようなコミカルな姿ではなかった。
 彼女は半歩前に出て、ためらいがちに語りかけた。
「もしかして、また、わたしのせいで――」
 間髪入れず、玉川はぞんざいに突き放した。
「あんまし、自分を買いかぶるなよ」
「エッ……」
 彼のすげない態度に、彼女は思わず息を呑んだ。
「自分ではきれいになったつもりでいるようだが、おれからしたらあの頃となんら変わりはしない。ただ、あの頃は恐る恐る男の手を握っていたやつが、今じゃ誰とでも簡単にキスができるようになっただけさ」
 感情が高ぶったとはいえ、この男にしては言質を取られかねない発言をしたものである。余計な主観をそぎ落とせば『きみは高校のときよりきれいだ』と言ってるようなものだったから。しかし、彼女がそのことに気づくのは、やはりその夜の就寝前だった。今は釈明に奔走し、それどころではなかったのだ。
「わ、わたし、そんな女じゃないわ……あのときは、あの状況は、仕方がなかったの……自分でも何が何だかわからないまま……」
 高校の頃のふてぶてしさそのままに、玉川はたたみかけた。
「ふ~ん、そうかな、案外おれなんかにも、ここでキスしてくれるんじゃないか。ほら、やったらどうだ? 目くらいつぶってやるぜ」
 ここで前もって、この男がなにゆえに、こんなにも彼女を愚弄する発言をしたのか説明を入れておかねばなるまい。一言でいえば『サヨナラの代わり』だった。彼側の話題はもう尽きた。きっとこんな場合に一言二言いっておきたい――彼女への忠義立ても果たしたように思えた。最後に必要なのが別れの言葉だった。以前、彼自身が語ったように、彼にはただの一人も友達がいなかった。もう十年以上、人と手を振り合って、別れたことなどなかった。知った人間に会うことはあっても、いつも自分から離れることになっていた。しかし、今回はそれができない。なぜなら、ここを去らねばならないのは彼女だからだ。置いて行くわけにはいかなかった。だとするなら、彼にはもう相手を怒らせて、帰らせる以外に方法はなかったのである。
 唇に何かが触れ、帽子がポトリと落ちた。玉川が目を見開くと、眼前に目を閉じた里美の顔がアップとなって存在した。唇同士が合わさっていたのである。
 ぼう然と立ちつくす玉川を残して、里美は唇を離した。わずかに傾けた首をまっすぐに戻し、浮かした踵を下ろして立つと、彼をひたと見据えた。
「したわよ、これで満足?」
 毒気に当てられた玉川の口から、こわばった声が漏れ出た。
「……おまえ、バカだろ……」
 あるいは普段動じない態度をとり続ける彼に、そうまで言わしめたのは、唇同士が触れ合うキスではなく、唇を押し当てる比較的しっかりした、正式というべきものがもしあるなら、それに類するキスだったせいかもしれない。もちろん、そうせねばならない理由が、彼女にはあったのである。
「失礼ね。汚れた口を拭いただけよ。じゃ、さよなら」
 高らかな靴音を鳴らして――堂々とはしていたが、やはり気恥ずかしさもあったに違いない。心持ち早足で――彼女は去っていった。


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