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3(回想)――『黒い猫』

〈11701文字〉

 高校二年時の十月初旬。まだ残暑なるこの時期、里美の通う高校では、小高い山の中腹にある避暑地で学年をあげた宿泊研修がおこなわれた。文系理系半々を条件に、女子なら女子、男子なら男子だけで、ランダムに選ばれた六名のグループが形成され、一つの部屋での寝泊まりは当然のことながら、当地で催される各イベントもグループで参加することが義務づけられていた。
 毎年、教員らが下準備してまで、研修の中で最も力を入れている野外行事があった。生徒主体でおこなわれる、アドベンチャーレースさながらの、周囲の山林一帯に隠してあるチェックポイント探しである。そのとき、数合わせのグループが順位を競うチームとなり変わる。ただし、順位が良かったからといって、特別優遇されることはなく、夕食までの自由に過ごせる時間が増えるだけであった。それでも、順位があると聞くと、それだけでやる気を覚えるのが、彼ら若人である。また、イベントを催した側の興を削ぐ、チーム同士が結託して場所を教え合うといったことがなくなることも、教師らが過去の反省を踏まえて順位を決めることにした理由でもあった。
 朝食後の小休憩を終えた朝九時、草木のむせかえる青臭さが立ち込める中庭に呼び集められたジャージ姿の二年生全員は、そのとき初めて、今日の野外イベントがこれまでのマニュアル化された受動的なものと異なり、自分たちに主導権が託された、いわばレース競技のようなものであることを知らされた。ちなみに鼻を突く草いきれは、この前日、生徒全員で建物一帯の草むしりをしたからであり、今回のイベントはそれに対する教師からの褒美も兼ねていた。続いて、代表者が前に呼ばれ、グループごとに台紙と、おおまかなチェックポイントが赤書きされた周辺地図のコピー、それにコンパスが渡され、学年主任の教員より各ポイントにあるスタンプを台紙にすべて押印し、ここに戻ってきたらゴールになることが(演出を兼ねた心持ちぞんざいな口調で)言い渡された。昼食時には必ず弁当を取りに戻ってくることだけ厳命し、号砲代わりの手一本で、丸一日を費やしたイベントが開始された。
 こんなとき、われ先に飛び出すのが競技に参加する選手一般であるが、教師らが奥に控えたあとも、生徒たちは中庭に居残ったままで、指示のない状態に動揺し、顔を見合わせたり、周囲の様子をうかがったりするばかりだった。それでも、一チーム目が動き出してからは、なし崩し的に残るチームも外門へと歩きだし、最初の丁字路を右へ左へとほぼ均等に別れていった。
 選んだコースによっても、大幅な順位変動など紆余曲折あったが、ここではレース内容は割愛する。
 ダントツだった一位の男子チームが十四時半にゴールしてから遅れること四十五分、二位の男子チームがゴールして以降、女子チームを含め次々とゴールするチームが現れた。そんな中、里美のいるグループは、どうしても最後の一つを見つけ出せずにいた。
 森をさまよって三十分になろうとしていた。理系の三人の中でもっとも成績が良いという、お門違いもはなはだしい理由で、地図係を押しつけられた里美は、上下の向きを変えて何度も地図をあらためていた。
「本当? 里美」
「うん。ここら辺にあるはずなんだけど……」
 ここまで、行き当たりばったりな面は否めないながら、里美の地図読みのおかげもあり、ほとんど迷うことなくチェックポイントを通過してきたものの、道なき森に分け入り、さまようこと三十分でその信用は失墜し、いまや彼女を頼りにする理系二人と、文系三人とのあいだには大きな溝ができてしまっていた。どこを見ても似た風景で、これといった特徴的な自然物もない、幹の太さも均一な同じ種類とおぼしき樹木ばかりである。ついに離れた場所で話し合いをしていた文系の女子の一人が、手を差し出して、里美に迫った。
「向野さん、悪いけど、コンパス貸してくれない」
 低姿勢ながら、片手を突き出した時点で、それは相談でも要請でもなく強制であった。
 里美は慌てて、手首に吊るしていたコンパスを、差し出された手に渡した。一も二もなくしたがったのには理由がある。ここまで、分岐では必ず合意を取って進んでいたのだが、今にいたった責任はすべて自分に押し付けられていることを、彼女は痛いほど感じていた。彼女はもう、二十分も前からこの任を別の人と代わってもらいたかったが、仲の良い理系の二人に譲るのは無理だった。これまで里美の言うことに阿諛追従するばかりで、方向音痴なのも明らかだったから。立てた枝が倒れた方向に道を選ぶような女子に、この役目を任せては、結局自分のせいにされかねないのはわかっていた。だからこそ、文系の女子に代わってもらうのは、待ち望んでいたことでもあったのだ。
「ごめん。じゃあ、地図も」
 このグループのリーダーでもある文系の女子は顔をそむけるようにして、天地が返され、文字が読めるよう向けられた地図の受け取りを拒んだ。
「ううん、地図はいらない。もう見たってわからないし」
 そもそも文系側の女子は、道中も世間話――アイドルの誰某がどの女優と仲が悪く、過去誰と付き合っていたかなど――に花を咲かせるばかりで、地図に興味を示したことは一度もなかった。少しでも方向感覚に自信があれば、ほうってはおかないものである。別れ道に来て、里美が位置確認の説明する際、しかたなく見るだけだった。したがって、彼女らには台紙だけを任せることになっていた――せめてもの、チームの意識づけとして。
 里美は手に持った地図をひっこめるどころか、かえって差し出すようにして言い張った。
「で、でも、この辺りにいるのは間違いないから。チェックポイントも書かれてあるし――」
 里美がそれっきり口を閉ざしたのは、疲労と不信があらわな視線でギロリと睨みつけられたからであった。
「もう、チェックポイントなんてどうでもいいじゃない! 成績がどうなるもんでもない、単なるお遊びなんだから」相手の女子生徒はつっけんどんに言い渡すと、理系の二人に向かって諭すように呼びかけた。「さ、帰りましょうよ」
 それがさっき、離れた木陰で、ささやき声の会合をもった文系女子たちの出した結論だった。
 残すポイントはたった一つである。里美としては、絶対にこの辺りにあるという確信と、日没まではもう少し時間があり、地図とコンパスから遭難にいたらないための退路だけは確保してあるつもりだったので、もう少し粘りたかった。何よりこれまで、学校の宿題はもちろん、言ったことさえ忘れている友達の依頼さえ、やり遂げるよう努めてきた彼女だけに、どんなに遅くなろうとも完走だけはしておきたかった。とにかく、リタイヤはしたくなかった。それだけに『どうでもいい』『帰りましょう』というのは、想定外の申し出だった。せめて事前に『もう帰りたい』旨を一言でも言ってもらえていたら、彼女だけでも最後の頑張りを見せ、諦めもつくのだが、こういう他人行儀な関係というのはえてしてそういうものだが、言い出したときが最後なのだった。
「エッ――、だけど……」
「『だけど』もへったくれもないの。あなたがチェックポイントなんてのに固執するから、こうなったんじゃない。さっさとあきらめて帰ればよかったのよ。もうたくさん、くたくたに疲れきっちゃったわ。さっきから声も全然聞こえなければ足音だってしないし、みんなもう宿舎に帰ってるんじゃない? ここからいうと、建物は北東にあるのよね。じゃあ、その方角だけに足を向けて歩きましょう」
 なすすべなく立ちつくした里美であったが、歩き出した文系の女子たちに向けて、最後、追いすがるように嘆願した。
「じゃ、じゃあ、帰りがけに見て回るから、せめて台紙だけでも、わたしに持たせて」

 日の入り目前の午後六時前、里美のチームが最後となって宿舎に戻ったとき、人数は五人に減っていた。手を膝に乗せて歩く五人であったが、宿舎の外門を越えると、うち理系の二人がつんのめるように走り出して、迎えに出た教師にすがりついた。
「残念だったな、走ったっておまえたちが、ドンベだよ。ほんの五分差だがね。ん、おい、どうした? なにか――」
 教師の言葉をかき消すように二人が声をそろえて叫んだ。
「里美、まだ戻っていませんよね?」
「先生、里美が……はぁはぁ……向野さんがいないんです! はぐれちゃって……もしかしたら、十一番のポイント周辺にまだいるのかもしれません!」
「な、なんだとッ」
 教師陣は慌てふためき、すぐにも若手が『ポイントの近くに行ってみます』と名乗り出たが、別の教師により『もうすぐ日没だ、きみまで遭難したらどうする!』と制された。大広間にいる生徒たちに気づかれぬよう、教師全員がひそかに施設の玄関口に呼び出され、最低限の人数を残して、二人一組で救助に向かうことに決まった。
 その全光景を、電気を消した自室の部屋の窓から目撃していた生徒がいた。声こそ聞こえなかったが、無声映画を見るように、その生徒には即座に何が起きたか把握することができた。
 彼は――その男子生徒は、部屋にある非常用の懐中電灯を引き抜き、懐に忍ばせ、にわかに部屋を飛び出した。
 宿舎のエントランスには戻ってきた女子生徒が、ある者は靴箱に寄りかかり、ある者は膝のあいだに頭を挟み、抜け殻のように憔悴しきった姿で上がりがまちに座り込んでいた。彼女らは、玄関を挟んで三人と二人とに別れて座っていた。お互い目も合わそうとせず、またその意識は理系の女子のほうが強いようだった。彼はエントランスに行き着くと、まず過去同じクラスだった子もいる理系の女子たちに声をかけた。
「向野とはどこではぐれた?」
 名簿を確認するまでもなく、誰がどのグループにいるのかを暗記していた彼は、このグループで欠けているのが向野里美であるのはわかっていた。
 相手の女子は、学校でも滅多に女子と話さない彼が突然現れたことに驚いたが、仲間という意識が勝って、瞳を潤ませながら二人して説明した。
「エッ、ああ、玉川君……たぶん十一番のチェックポイント辺りと思う。それが、どうしても見つからなくて。あの子を最後尾にするんじゃなかった……」
「あの子、地図係だったし、責任感のある子だから、どうしても見つけておきたかったんだと思う」
「地図係? あいつは地図係なのに、一人道に迷ったのか?」
「違うの……どう探しても最後の十一番だけが見つからなくて、みんなで『帰ろう』ってことになって、コンパスだけをあっちの文系の子に預けて、おおよそ宿舎のある方角へと歩き出したの。だけど……一旦通り越してしまったらしくて、あとは電線を頼りにぐるぐる回って、やっと戻ってこられたの。そしたら、そしたら……」
 泣きだした二人を残して、玉川は文系の女子のほうに向かった。さっきは膝立ちだったが、今度は立ったままだった。
「どこで、あいつとはぐれた?」
 三人の真ん中にいるグループの代表にもなっている女子生徒が、彼を睨み返した。彼が顔見知りでないことから理系の男子との認識があり、先に理系の女子と話しているのを目の当たりにしたこともあって、最初から敵意むき出しだった。しかし、裏を返せば、それも彼女なりに責任を感じている証しでもあったのだ。
「なによ、あんた?」
「おれが聞いてるんだ。あいつとどこではぐれた?」
 彼の態度に圧倒され、彼女は視線を逸らして、そっぽを向いた。
「わ、わからないわ。気づいたら、いなかったのよ」
「コンパスは? もう返したのか?」
「ここにあるわ」
 彼はそれを取り返すように奪い取ると、黙って玄関へと足を向けた。ポケットには、地図係の証しである地図が最初から入っていた。ここで一つ説明を挟んでおいたほうがいいだろう。もし彼が完全なる第三者であれば、こんなスタンドプレーに出ることなく、きっと教師らに女子生徒の救出をゆだねたであろう。しかし、今の彼には自信があった、誰より早く現場に行き着ける自信が。なぜなら向野里美と同じで、一から十五まであるチェックポイントのうち、十一番を最後に回すコースが距離として最短であり、彼はそのルートで最初に戻ってきたグループの地図係だったから。
 玉川が玄関のガラス戸に手をかけたとき、最前の女子が大声で訴えた。
「しかたないじゃない! あの人がチェックポイントに固執するから」
 彼は振り返ってそれに答えた。
「その責任感を、きみらは仇で返したわけだ」
 おさまりが付かなくなった女子生徒は、何も言い返すことができなくなったとき、彼女らにとってそれがお定まりであるかのように、わざと低俗なほうに話を差し替えた。その口元には、うすら笑いが浮かんでいた。
「あんた、あの子のなんなの? どういう関係なわけ?」
 『あんたわかってるの? あんたなんて全然、一人で助けに向かうような美男子キャラじゃないんだから』とのあざけりも込められていた。
 彼は無視するように扉を押し開いた。入りこんだ風のおかげで、彼の独り言が彼女の耳にも届いた。
「あいつは――おれのクラスメイトだ」

 日暮れどきの林の中は、湿っぽく、影だらけで薄暗かった。地面の照り返しがなくなると、急に気温が下がったように感じた。
 ずっと先頭を歩いていた里美は、あの件以降、最後尾となってみんなについて歩いた。自分の意見はもはや誰からも信用されない気がして、帰り道のルートなども助言できずにいた。地図は持っていたが、コンパスあっての地図である。もう彼女自身、おおよその位置しかわからなくなっていた。そのときである。運よくあればと見回していた彼女の目に、チェックポイントのスタンプがある目印とおぼしき赤いフラッグが見えた気がした。本当は声をかけて、この場に待機してもらい、確かめに行きたかったが、猛獣のように草木を踏み分けて進んでいる先頭の女子に『ちょっと待って』とは言えなかった。「アッ!」「なに、どうしたの、里美」「……ううん、なんでもない」それだけの会話に留まった。十秒ないし、かかっても二十秒程度で済むと思った。『このことは宿舎に着いてからみんなに明かすことにして、これで失った信用を少しは取り戻せるかもしれない』――そんな幻想も、ほんのわずかだが、秘密の行動に手を貸したのかもしれない。最後尾である里美は、一列に並んだベクトルの先を頭に叩き込んで、彼女らの直線状の列から離れた。そして、フラッグに見えたものが色鮮やかなカエデの葉であることに気づいたとき、幻のようにみんなの後ろ姿は見えなくなっていた。
 それから四十分、彼女は林の中をさまよっていた。風の向きが変わり、木の葉がそよぎ始めた。方向感覚を失った彼女に地図など無意味に等しかった。が、頼りになるものはそれしかなかったのだから、頼らずにはいられなかった。地図を見ながら歩いたため、何度か転んだ。そして日が落ちゆくことで、次第にその絵も文字も読めなくなろうとしていた。
 ガサッ――という音がした。
 息を呑んだ里美は、八割の恐怖と二割の期待の入り混じった声を上げた。
「だ、だれ? 誰かいるの?」
 木の影から、西日が入る場所に玉川健が現れた。誰でもいい、知った人であれば、そう願っていた彼女も、まったく予想もしなかった人物だった。彼は成績優秀を笠に着て、クラスメイトを見下し、特に女子に対しては専横な振る舞いが目立った男子だった。
「た、玉川君じゃない……ど、どうしたの?」
「『どうしたの』だと? フン、人を探してるんだ」
「ア――」彼女の胸がじいんと熱くなった瞬間だった。「も、もしかして、わたしを探しに来て――」
 玉川はさえぎるように声を重ねて質問した。
「なぁ、向野、この辺りで清水見なかったか?」
「エッ、清水君? し、知らないけど……もしかして自分のグループを探してるの?」
「ああ」
 彼女の胸を空っ風が吹き抜けた瞬間だった。
「……あの、それって、グループからはぐれて迷子になったってこと?」
「別に迷子になったわけじゃない」いきなり遭遇したため、他に理由が見つからず頬を染めながら、彼は言い訳した。「カ、カブトムシを見つけたから、見入ってたら、あいつらがいなくなっただけだ」
「それって、はぐれて迷子になったことと同じだと思うよ」
「見方は人それぞれある。で、きみは、自他共に認める、まぎれもない迷子なわけだ」
「う、うん。あ、でも、もしかして、玉川君なら、公道に出る道、わかる?」
 さっきから彼女がまっすぐ立っていないことに彼は気づいていた。
「その足はどうした?」
「うん、さっきぬかるみに足を取られて……」
 彼女が長歩きできないのは、見るからに明らかだった。
「……あっちに、朽ちかけたやしろがある。ほら、色の剥げた鳥居が見えているだろ」
「うん、知ってる。この辺りのことならもう熟知したから」
 彼女は気丈な微笑みを見せた。落ち葉で汚れたジャージ姿とのコントラストが、彼の心臓を鷲掴みした。
「……あそこで救援が来るのを待とう。地図には一応神社のマークが記載されているから、そこに避難しているのを見越して、早めに探しに来るかもしれない。一人で、歩けるな?」
「うん、大丈夫。でも、玉川君、手に持ってるのコンパスじゃない? だったら――」
 相手の口から出るより早く、玉川はその申し出を断固として突っぱねた。
「ダメだ。もう動かずに、あそこで休むんだ」
「そ、そうだね……そうだよね……うん、わかった」
 これまで歩くことしか考えなかった彼女には、休むという概念すら頭に浮かばず、彼にそう諭されたことが思いがけず新鮮だった。あるいは女子仲間だったら彼女は、それに反意を唱えたかもしれない。足はまだねんざというほどではなかったし(のちに腫れあがり、ねんざと診断される)、何より一刻も早く、この迷路のような林を抜け出たかったから。でも、他のクラスメイトの意見には反対しても、玉川の意見だけは素直にしたがう気になれたから不思議である。さっきのような強要されてしたがうのとは、心持ちがまったく違った。それはどうしてだろうか? 彼の成績が自分より優秀だったから? 口げんかで負けたことがなかったから? それで粗暴な男子に殴られても黙って耐えている人だったから? おそらく一番正しいのは、彼がその場かぎりの正論を並べ立てたり、相手の揚げ足を取るような手法をこれまでしてこなかったからだろう。
 里美はよれよれの地図を大事そうに折り畳んでポケットにしまうと、片方の足で積った落ち葉を払いながら歩きだした。三メートルほど先を行く男の背中を、こんなに頼もしく思ったことはなかった。――と、その男が振り返り、コンパスを左手に持ち替えると、右手を二十センチほど前で出して、何事か言った。ちょうどかばった足が落ち葉を掃き飛ばしたところだったので里美には聞こえなかった。
「エッ、ごめん、なんて言ったの?」
 玉川は彼女の膝下が汚れた足だけを見続けたが、ふいに振り返った。
「なんでもない。おまえはゆっくり歩いて来い。やしろは見えてるし、おれはどこにも行きやしないから」
「うん!」

 やしろに行き着くと、朽ち果てた賽銭箱の前の階段に、二人は離れて座った。風が強くなり、ざわめく葉音が辺りを支配した。落ち着くと、今度は急に男女を意識し始めた里美であった。
 われともなく里美がチラチラ横目で見ていることに、玉川も気づいたらしい。
「さっきからそんな目でおれを見るなよ」
 彼女は動揺を隠しきれず、やっきになって言い返した。
「エッ、ちょ、ちょっとなに? 勘違いしないでよね」
「何に勘違いするんだ? おまえ、さっきから疑ってるだろ。どうしておれが、迷子になったわりに、地図にコンパスに、懐中電灯を持ってるのかって」
 五分前、不安そうに空を見上げる彼女に『安心しろ。暗くなればなるほど、こいつが効果を発揮する』――そう言って懐中電灯を取り出し、顔面に光を当てられてから、彼女は白い目で彼を見つめるようになった。
「あ、ソレね。うん、疑ってる。おかしいもん」
「実はね、おれさっき、ごまかしてたんだ」
 里美は思った――『ほうらね、この人やっぱりわたしのことを助けに来てくれたんだ。表向きの性格に似合わず、いいところあるじゃない。でも、危険じゃない、里美? この状況で、この続きを聞くってことは……あんたってほら、いや、わたしって流されやすい性格だから……』。
 しかし、聞かずにはいられないのが乙女心である。
「な、なにをごまかしてたの?」
 彼は一つ大きく息を吐くと、真面目そのもので語り出した。
「実はおれ――カブトムシよりクワガタのほうが好きでさ。おれが最初にここを通過したとき、樹液にカブトムシが群がっているブナの木を見つけてね。暗くなりかけたとき、もう一度見に来ようと思って、地図とコンパスと懐中電灯を持ってやってきた次第なんだ」
 思いもよらない肩すかしを食った里美は、境内から滑りこけそうになるほど拍子抜けするとともに、ふつふつと怒りが込み上げてきた。
「……あっそう……子どもみたい」
 バカにされた側は、中腰になって言い返した。
「な、なんだよ。こんなところで迷う、おまえのほうが子どもだろ」
 里美は空咳をすると、慇懃に忠告した。
「あのさ、玉川君。気安く『おまえ、おまえ』って呼ばないでくれる。女子にだけそんな態度とるの、やめたほうがいいと思う。この際だから言うけど、玉川君、女子たちにあまりいい印象持たれてないよ」
「チェッ……」
 しばしの沈黙――。
「さっきはごめん。言い過ぎた……。その……一緒に居てくれてありがとう。ところで、さっきの確認なんだけど、玉川君は誰にも言わず、こそっと来たの?」
 玉川は、彼女の意図をすっかり見抜いて、投げやりに応じた。
「ああ、『こそっと来た』さ。こんなガキみたいな理由で、どうやっておおっぴらに出てこられるって言うんだ。いくらオオクワガタが一匹三千円で売れるっていってもな」
 それを聞いた里美が、勃然と気色ばんだ。今回のうちで、乙女心が一番傷つけられた瞬間だったのだ。
「あ、ひどい! それが魂胆だったのね」
 急にいきり立った彼女の理由が理解できず、玉川はたじろぎながら言い返した。
「なんだよ、『魂胆』って。別にいいだろ。おまえに迷惑かけたわけじゃなし」
「め、迷惑よ、一緒にされちゃあ!」
 里美はそっぽを向いて唇を噛んだ――『何よ、成就はしないし、させないまでも、淡い恋の思い出として、記憶の奥底に留めておこうと思ったのに。これじゃあ、とんだ黒歴史じゃない。絶対に忘れよう、この人と一夜を過ごしかけたことなんて』。
 遠くでカラスが鳴き、メジロとおぼしき小鳥が現れ、賽銭箱の上でピーチクパーチクやかましいほどさえずり、急いで飛び去っていった。
「なぁ、向野――」彼は里美の憎々しい目つきなど気にすることなく、汚れていたらしい手を払うと、おもむろに話し始めた。「おまえ、どうせ、十一番のチェックポイントを探してて迷子になったんだろう。おれ、早めにゴールして見聞きしているから知ってるけど、十一番は後半戻ってきたやつらは全員見つけられなかったんだぜ。気になって確認したところ十四チーム目のやつが地面に落ちているのを見つけて、十九チーム目のやつが風に飛ばされないよう、木のウロに入れちまったらしいんだ。見つからないはずさ。おまえが悪いんじゃないさ」
「見て」
 まだ根に持っているらしく強気に差し出された台紙を、玉川は手に取って影の薄い場所に透かして確認した。十一番にもハンが押され、枠の中はくまなく赤い印が埋まっていた。
「……み、見つけたのか」
 彼は目を見開いて彼女を見返した。最初、自分が先に見つけようと思っていたが、この場に着いた段階で、これは無理だと、彼さえあきらめていたことだった。
 彼女はそれまでの努力と苦労を忘れたように、玉川の思い込みを出し抜けたこと、ただそれだけを喜ぶように、自慢げに語った。
「あなたが来る、十分くらい前に見つけたの。低く落ちた西日に、樹木の穴――ウロって言うのね――が照らされて、ようやく。それでね、慌てて駆け寄った際に、この足をひねっちゃったの。重ね重ねバカよね」
 『こんなもののために……』――台紙の角が指の圧力でねじれた。本当は、十一番さえ埋まっていなければ、握り潰して投げ捨ててやるところだったが、今はそういうわけにもいかなかった。玉川は台紙を突き返した。
「……ああ、おまえはおバカさんだよ」
「あ、ひどーい。チェッ」
 彼女は彼のマネをして見せた。

 それから十分が経ち、日没の時刻を迎え、いよいよ辺りは最後に天上の間接照明を残すのみとなった。肌寒い風が蕭々と流れ、二人の足元を落ち葉が払っていった。
 玉川が林に目を向け、周囲に対する聴覚を研ぎ澄ましていると、階段の板についていた右手が突然誰かに握られた。驚いた彼は反射的に手を引いたが、相手が力を込めて離さなかった。里美が、気づかぬうちにすぐ横にまで身体をずらしていたのである。
「な、なんだよ。おまえを置いて行きやしな――」
 彼女はうつむいたまま答えた。
「お願い、手だけ握ってて。小さいとき、怖いテレビを見たときなんか、いつもこうやって、お父さんやお母さんに手を握ってもらっていたの」
「ば――」
 しかし、続きの『かやろう。さっきは言わせなかったくせに……』は言えなくなり、彼はただ握らせたままにしていた手を、ほんの少しだけ力を込めて握り返してやった。

 最初に声が聞こえた。握り合う二人の手に力が入った。同時に立ち上がり、声の方角を確かめると、懐中電灯の光が、薄暗い闇を切り裂きながら、縦横無尽に動き回っていた。
「お~い、向野ぉ、いるかぁ」
「とにかく、あっちに神社の建物があったはずだから、行ってみよう」
 そんな言葉が耳まで届くと、玉川は階段を下り、光射す方角から離れるように、一歩後ろに身を引いた。つながれた手は自然とほどかれた。
「どうやら、おれが抜け出したことはバレちゃいないらしい。チェッ、冷めたいもんだ。おまえ――オホン、向野は、懐中電灯の光をやつらに当てて助けてもらえ。いいか、懐中電灯は、やしろの中にあったって言うんだぞ。さっき地面の土を塗ったくっておいたから、それなりのものに見えるだろう」
「ちょ、ちょっと待ってよ! 玉川君はどうするの?」
 彼はその場で腰を折り、膝を伸ばしながら、さも平然と答えた。
「自力で帰る」
 その発言は、里美の背筋を凍りつかせた。
「う、うそでしょ。わたし、みんなといるときを含めたら一時間半、二時間近くこの森をさまよっていたのよ。今度は玉川君が迷子になるわ!」
 行かせないよう彼に向けて手を伸ばしたが、彼が半歩身を引いただけで、ひねった足がうずいて踏み出せず、里美の手は空を切ってしまった。足の痛みはいよいよ増しつつあった。
 彼は得意の数学のテストを回収されたときのような不敵な笑みを浮かべて、不安げな里美の顔を見返した。
「笑わせるな。おれは宿舎から、一直線に走って十八分でここに着いたんだ。このぎりぎりの明るさでも二十分までには宿舎に帰り着くさ。とにかく、おまえ、いや、きみらが戻るより早くな。それに、こんなところで一緒にいたなんてことがバレてみろ。おれらを知るクラスメイトならまだしも、文系の女どもにどんな噂されるか? きみじゃないぜ、おれが困るんだ。さっき、きみが言ったよな、おれは女子の印象がよくないって。もし噂されてみろ、おれのイメージは男子を含めて底なしだ。いいか、戻ってから顔合わせても、素知らぬ顔ですれ違えよ。『あのときはありがとう』なんて口が裂けても、言うんじゃないぞ。おれはオオクワガタを探しに来ただけなんだからな。気が紛れたのを恩義に感じるなら、黙っているのがきみの果たす役目だ。もし無用な純真さに駆られでもして、バラしてみろ。『手を握っただけ? 冗談じゃない。あんなことしたし、こんなこともしたさ』って、おれから言いふらすからな。いや、このほうがいいか、真っ赤になって首を振りながら、ささやくんだ――『言えないよ、あの子のために』ってね。そんなに怒るなよ。なんだって、『わたしから誘ったみたいになってる』? 知らないよ。ともかく、きみが言わなきゃ、おれも言いはしないんだからさ。いいか、忘れるなよ。いや、忘れないよう努力するのは無意味だから、気にするなと言っておこう。それと、万が一、きみのグループの女子に聞かれても、『誰とも会わなかった』と答えるんだぞ。身に覚えのないスキャンダルで、二人してイメージを落とすよりましだろ。それから――それから、もしきみがこのレースを完走扱いにしてほしければ、帰りついた時刻を、ちゃんと台紙に記入してもらうのを忘れるな」


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