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7-1――『黒い猫』

〈10896文字〉

 約束の日、約束の場所――。
 待ち合わせの時間より二十分早く着いたが、すでに彼女は待っていた。ぼくが何より安堵したのは、彼女が着飾ってこなかったことだ。流行りなのか知らないが、首元に何かを巻いて来られたり、リボンのついた麦わら帽を被って来られたり、コンパのときのような化粧をほどこして来られては、かえって迷惑だった。こっちはジーンズに黒シャツ一枚――警部と同じ毎度似たような格好である。そうでなくとも、高校時代ならまだしも、今の彼女とは元の釣り合いが取れていないのだから……。
 まだ来るとは思っていないのだろう。向野は高いビル群を見上げ、何かに想いを馳せているらしかった。ほとんど真横に立っても、彼女は気づかなかった。ぼくが口を開けたにもかかわらず、声をかけるをためらったのは、その横顔に宿泊研修で、やしろの階段に腰掛けたときの面影が、そのまま想起されたからだった。
「……よお。まだおはようか、それとも、こんにちはと言うべきか」
「ア、うん、早いね。おはよう、いえ、こんにちは。わたしが働いていたところでは、十一時から言い換えるようになっていたの。あ、ごめん、バカね、わたし……開口一番、そんなこと聞いたわけじゃないのに」
「就職先は、接客業だったのか?」
「うん、ドラッグストアで働いていたの、三年間」
「そうか……」
「えっ、なに?」
「今はつらい過去かもしれないが、週休二日として一生懸命に勤め上げた約八百日間は、きみにとってかけがえない財産になるだろうな」
「ど、どうしたの、玉川君?」
「そのフレーズ流行ってるのか? 人が殊勝になると、よく聞くんだが」
「エッ……誰か別の人にも言われたの?」
「いや、空耳だったかもしれない。いいよ、どうせもう過去の人だから。さぁ行こう。どこに行くかは知らないが」
 事前の電話で、『こじゃれた店は嫌だ』『できたらチェーン店がいい』と依頼していたので、行き先は、向野が友達とよく行くというスパゲッティ店に決まった。彼女曰く『予定時刻より早いから開いてるか心配』とのことだったが、さすがはチェーン店、十一時に開店していて、すでに数組、客が入店していた。窓側の席に座り、ぼくは日替わりランチを頼んだ。メニューを見ていた(おそらく自分は二の次に、招待者としてゲストの好みそうな品目を通常のメニューから探していた)彼女は、『それでいいの?』という顔をしたが、見ないふりをした。彼女も同じものを頼み、ウェイトレスにセットの飲み物を選ぶよう促された。向野はいつもどおりなのか、即座にオレンジジュースを頼んだ。どこに選べる飲み物の一覧が書かれているか探すと、向野が身を乗り出して、書かれた場所を教えてくれた。
「ここにあるよ。玉川君、コーラとか好きなんじゃない?」
 彼女がそれを口にするや、顔を真っ赤にしたのは、ぼくのシャツの色から連想したと、自分で自分を判断したためか。
 ぼくは言った。
「いや、コーラは嫌いなんだ。薬品みたいな味がするだろ」
「初めて聞きました」
 ジョークと解してか、はたまた純粋にそう思っただけなのか、割って入り、嫌味と捉えるべきか返答に窮する向野の隣で、クスクス笑ってくれたのはウェイトレスのほうだった。
 注文を終え、ウェイトレスが席を離れる瞬間を狙って、ぼくはオーダーを分けてくれるよう頼んだ。普通なら、厳しい一瞥をぼくにくれるところだろうが、注文の主導権を向野が握っていたので、主婦とおぼしきウェイトレスは目礼ひとつで承知してくれた。
 唇を尖らせ、何か言いかける向野に先んじて、ぼくは言った。
「申し訳ないが、ぼくがきみのために一銭も費やしていない以上、きみにおごってもらうわけにはいかない。ぼくは、おごってもらうということを、軽々しく思わないたちでね。誰にもそういった借りを作りたくないんだ。大丈夫、その代わり、きみの納得がいくまで話は聞くつもりだから。なんだったら、感じのいい店だし、引き続き晩飯もここで食べたってかまわない」
「んもう、こういうときだけ冗談を言うんだから。それに何が『大丈夫』よ。やっぱりわたしがお願いしてるみたいじゃない?」今度は、いたずらっぽい笑みを見せて、彼女は切り返した。「いいわ、こうなったら、そういうお礼をしてあげるから。でも、とりあえず、セルフのスープだけは取ってきてあげる」
 いち早く立ちあがった彼女を、ぼくは呼び止めた。
「向野さん」
「エッ、なに?」
「ありがとう」
 気遣わしげに振り向いた彼女は拍子抜けし、安堵のため息をついた。
「あのね、お願いだから、足をくじきかねないような呼び止め方しないで。それから『さん』付けならしないでいいから――」彼女は半分まで行ったのに、また戻ってきた。「へ、変な意味じゃないのよ。そりゃ昔は女子だったからよかったけど、わたしたちの歳で、『さん』付けって他人行儀じゃない? ど、同級生はみんな呼び捨てだし。だ、だからよ」
 それから向野とは、とりとめもなく話をしたから、順序だって内容を覚えていない。とりあえず話したことを、思い出せるままに列記してみるとしよう。

「ぼくはね、向野さん、いや、向野君、貯金も稼ぎもない。だが、それを恥じ入るつもりもない。笑うやつは笑え、それだけさ。就職活動なんてものは一度もしなかった。なんなら一生アルバイト生活していければ、それでもいいと思っている。そんな人間だよ、ぼくは。いきなり変なことを言って申し訳ないが、前もってそれだけは言っておいたほうがいいと思ってね」

「散歩――、よくしてるの?」
「ああ、ほぼ毎日してる。飽きがくるんで、コースは替えているがね。『どうしてそんなに散歩するの?』って顔をしているね。いいよ、それにも答えるから。世の中を――社会を、ぼくなりに秤にかけているのさ。ぼくは毎日、小一時間程度、歩道上を歩行するに正しいと思う場所を歩き続けている。なのに、これまで一度も避けずに歩けたことがない。ただの一度もだよ。必ず誰かに邪魔をされる。この前の女性は譲ってくれたが、あの人より年輩の女性はまず引かない。自分の場所はここだという信念があるらしい。別のことに生かしてほしいものだ。それに犬を散歩させている者――どこを歩こうが犬次第、わたしの知ったことじゃないって顔して邪魔してくる。せめて、人とすれ違うときはリードくらい引き寄せろと言いたい。なにより意味がわからないのが、工事の交通誘導員――彼自身が交通の邪魔になっていることがままある。居なければスムーズなのに、居て邪魔になる交通誘導員ってなんだろうな。ともかく、ぼくはこう思うのさ。陸の上に生きるものにとって、もっとも根源的である歩くという行為すら、まともにできないなら、この世の中に正しさを求めることなんて土台無理だってね。昔の同級生が聞くと大笑いするだろうが、ぼくはこれさえ何度か続けて成功すれば、どっかの会社に勤めて、働いてやったってかまわないと思ってるくらいなんだ」

「きみからもらう電話のことだけど、応対が素っ気なくなって申し訳ない。ぼくの家は安普請で、下の電話の声が上に丸聞こえだから、逆もしかりで、滅多にかかってこない電話に、大きな声で話をしたり、長話したくなくてね」
「そうなんだ。一回目のときなんか、びっくりしちゃった。何かの会議に出ているさなかに、つながっちゃったのかしらって勘繰ったくらい。電話では、いつもの玉川君以上に話が簡潔で冷静な一方、つっけんどんで『怒ってるのかな?』って感じられるんですもの。内容そのものは温かみがあったりするのにね、ふふ。でも、どうして教えてくれなかったの? せめて、二度目の電話の前に、そっちからかけて、そのことを教えてくれればよかったのに。だけど、それならわたし、ご両親に感謝しなくちゃね」
「なんでさ?」
「だって、そうでもなければ、きっとこんなふうに、二つ返事で会ってくれなかったでしょうから」

「わたしが会社を辞めたのは、働くって行為は、実際は目の前にいるお客さんのためじゃなく、遠目でしか見たことがない雇い主のためにあるっていう当然の仕組みを、現場でまざまざと思い知らされたからなの。重役以外、店長ですら、すべてはこき使われる存在に過ぎないってことを知ったから。笑わないでね。わたし、お客さんの喜びの先に、会社の利益があると思っていたの。でも必ずしもそうじゃない。お客と反対側に、会社の利益があることだってある。そういうとき、わたしたちが何をするかといえば、わたしたちへの信頼を逆手にとって、相手を言いくるめるの。『ソレより、こっちの自社製品のほうが効能が上です』なんてうたってね。もちろん、うそはつかないわ。テレビショッピングと一緒、他社より劣っている点には触れないだけ。よりきわどいことを言う人ほど成績はよかった。そういう作業を命じられたとき、わたしは、他の人に比べてノルマの達成が遅かった。そうして三年近くが過ぎて、こんなことに一生涯を捧げるのだとしたら、わたし、何のために生きてるんだろうって思うようになったの。勘違いしないでね。もちろん楽しいことも、生き甲斐を感じることもいっぱいあったわ。新人研修や進発式は、本当に楽しかった。でもやっぱり、チームとして成績を競う上で、わたしが足手まといになることも多かった。辞めるとき、目をかけてくれた三十代の店長に『ここが堪え時なんだよ』って、大きな温かい手を肩に置いて諭してくれましたけど、わたし、一歩下がって、深々と一礼したの。その戻れぬ門をくぐりたくなくて辞めるのだから。それまで、そんな気はまったくなかったんだけど、ロッカールームでは泣いちゃった」
「正しいか正しくないかでいえば、出てゆくきみも正しいし、居残る人も正しい。『生きる』という行為の中に、生活が占める割合が違うのさ。大人になるほどその割合は増してゆく。きみのいう戻れぬ門も数字で示せば、この割合になるのだろうな」
「あら、じゃあ、わたしは、まだまだ幼いってこと?」
「あいにく女子大生ってふうには、もう見えないがね。フッ、安心しなよ。もっと精神年齢の幼いやつが目の前にいるだろ。ところで、以前、こんな話を聞いたことがある。数学者ってのは、一般業務をさせると大した能力は発揮しないが、百黙一言、何年かに一度、経営方針の転換を迫るくらいの一大発案をする。だから、それだけで十分に一般社員以上の価値があるんだと」
「でも、わたし、玉川君みたいに、数学得意じゃなかったから」
「ぼくだって、数学者じゃない。理系的なものの考え方を言ったまでだよ。会社を辞めたのだって、その一端と言えなくもない。あのとき、唇は許したが、家には行かなかったってこともね」
「ア……、じゃあ、それでも、わたしは『正しい』と言えるの?」
「『正しい』さ。うだうだ能弁を垂れるやつより、実行に移して、意にそぐわなければ、身を引く人間のほうがよっぽど立派だから」
 羞恥からだろう、彼女は一旦視線を窓の外にそらした。ぼくはグラスに手を伸ばした。
「そ、そうだ、思い出したわ。昨夜、突然彼から謝罪の電話があったのよ」
「『彼』って?」
「うん、ほら、あのとき、あなたが路地裏で言い争いをした人。わたしが、その――」
「塩原、のこと?」
「そう、よく名前覚えてたね。その人から唐突に電話があって――わたしは削除してたんだけど、番号交換だけしていたから――、あのときのことを謝りたいって。ついては、あなたにも謝罪したいから、電話番号を知らないかって言うの。教えられるはずないから、もし会うことがあったら、その気持ちだけ伝えておきますって、こっちから電話を切ってやったけど。どういうつもりかしらね。おかしな人、あれからだいぶ経ったあとだというのに。……どうしたの?」
 ぼくは持ち上げぬまま、握ったグラスを見つめて考え込んでいた。
「いや……それで、今日会うってことは、彼に話したの?」
「まさか、言うもんですか。それにしても、ココってあのときのカラオケ屋さんから、そう離れてない場所だったね。もっとも昼間だから、あんなやつと会う心配もないけど」

「金持ちは、無条件で嫌いだ。仕方なくなったやつも含めてね。あいつらが言う、格言や名言なんて聞きたいとも思わない。流行作家が書いた小説なんて、金をもらったって、読む気になれない。偶然話をする機会を持ち、意気投合しても、そいつが金持ちだとをわかった時点で、ぼくは理由も告げず席を立つだろうな。それくらい嫌いだよ。もし逆にぼくが金持ちだったとしたら、人前にしゃしゃり出ることはしないだろう。金持ちというだけで罪を背負ったようなものだからね。できるだけ部屋の隅で、似た者同士、肩身狭くしゃべるくらいだろうな」
「じゃあ、玉川君は誰を尊敬するの? 尊敬できる人はいないの? 対等に話のできる人は?」
「死んだ人間は尊敬するよ。死んだ者に比べたら、生きてるやつなんてほんのわずかだし。未来のことを知りたいなら、どうして過去と向き合おうとしないのか不思議に思うよ。読んでるものも、必然死んだ作家のものにかぎられる。実のところ、前衛なんてものを含め、今しかないと思えるものは、ほぼすべて過去にあるんだ。その上、完成度は過去のほうがはるかに高い。文学、映画、音楽、お笑い、そういったすべてにおいてね。それと、対等に話せる人だっけ? では確認するが、きみは金持ちかい? だったらきみのような人となら、もちろん対等に話ができるよ」

 食後の飲み物に差し掛かったときだった。指先が触れたことで椅子の隙間に何かあることに気づいた向野が身をよじり、慎重な手つきでクッションの隙間から欠片状のものを取り出した。それは、形が整ったまま折れずに残った動物型のクッキーで、とぐろを巻いたヘビだった。軽く表面を払うと、彼女はテーブルの端っこにそれを置いた。
「ヘビが嫌いな子が置いていったのね。それともおいしくなかったのかしら?」
 独り言のようにつぶやいただけだったが、ぼくはうっかり答えてしまった。
「……そうでもないさ」
「エッ、玉川君、これ、食べたことあるの?」
「……ああ」
「そ、そうなんだ。ちょっと意外……」その顔つきは『ちょっと』どころではなかった。「ちなみに、いつ食べたの?」
「……三ヶ月ほど前……」興味深げに覗き込む彼女の視線に耐えかね、ぼくは自ら沈黙を破った。「いいさ、食べることになったいきさつを明かしてもかまわないが、これは別に何の意図もなくて、ただきみに隠し事なんかしないし、する必要のないことを証明するために言うんだからな。そう――、あれはたぶん三ヶ月くらい前だった。散歩をしていると、うれしそうにコンビニから走り出てきた五歳くらいの男の子が、マットに蹴つまずいて、手を広げたまま、崖先からダイブでもするように転んじまったのを目撃した。ああいう子には受け身も何もあったもんじゃない。敷物と身体が柔らかいおかげで怪我はしてなさそうだから、店から出てくる人たちは、視線を送るも、声はかけずに通り過ぎていった。一方、男児は立ち上がったまま、ビニール袋を持った右手を胸の前に上げて、泣きたいのに泣けないような、悲しそうな顔をしていたんで、ちょうど前を通りがかったぼくが声をかけてみた――『おい、大丈夫か?』。そばに立って、ようやくその子が泣くに泣けない立場に追い込まれている理由がわかった。袋の中の生卵が割れて、黄色い黄身がビニールの内側にべっとりへばりついていたんだ。コイツなりに『やばいことになった』と思ってるんだろう。蒼くなった顔でぼう然と立ちつくすばかりだった。ちなみに、袋の中には、その他に食パンとお菓子らしきものが入っていた。無意味な一人芝居になったが、ぼくは大きな溜息を一つして見せ、その男児に『ついて来い』と言って、店の中に向けて顎をしゃくった。振り返ると、自動ドアが閉まった先に、男児が取り残されたまま、こっちを見ている。ぼくは戻って『なんでついて来ないんだ?』と問いただすと、男児はこう答えやがった『しらないひとについていっちゃだめだもん』。『ふん、しつけはなってるが、こんなちっちゃなガキに買い物に行かせるなんてな』『ちっちゃくないもん! それに、これは、ぼくがかいにいくっていったんだ、もん……』。『フン。じゃあ、ここで待ってろ』そう言い残して、ぼくは一人店に入り、同じものを買った袋を、男児に差し出してやった『ほら、交換してやるよ』。男児はうれしいくせに、変にもぞもぞしながら必死に表情をこらえて、お礼を言う代わりに、こうのたまった――『おにいちゃん、だぁれ?』。ぼくは最後くらい意地悪をしてやりたくなった『おまえの二十年後だよ』『う、うそだぁ』『なんでわかる?』。もしかすると、そのくらいの幼子には、お金というものは命の次に大事なもので、というのも稼ぐすべを知らない子どもには、なんにでも交換できるお金は魔法のようなものであり、そんな貴重であり額に関係なく高価なものを赤の他人に躊躇なく費やしてくれることのほうが考えられなくて、ぼくを二十年後の未来と言われても、あながち突拍子もない話とまでは思えなかったのかもしれないな。『……じゃあ、おしごと、なにしてるの?』『無職さ』そう聞くやいなや、突っ走って帰りやがった。現金なもんだよな。ぼくはその子の袋を持って帰り、食パンと割れてない卵で母がフレンチトーストを作り、ぼくは卵で汚れた紙箱を捨て、お菓子の中身だけ取っておいて、後日そこにあるやつと同じ、動物クッキーを食べたってわけさ」
 彼女は話の冒頭、ジュースを飲みながら聞いていたが、途中で喉が堰き止めたのだろう、ストローを離して、口に含んだものを大きな音を立てて飲み込むと、オレンジジュースのグラスを脇に押しやって、両肘をテーブルに乗せ、若干前のめりになって、何度も目を見開いて聞き入っていたが、話が終わると黙り込み、しばらくしてから、だしぬけにこう切り出した。
「……あのね、玉川君。わたしの親戚が、小さい子向けの塾を開いてるの、知ってる?」
 ちょうど口にくわえたアイスコーヒーのストローを外して、ぼくは答えた。
「なんだい、急に。知るはずないだろう」
 彼女の頭は状況を見極めるどころではなかったらしく、タイミングの悪さを詫びるように、ぼくが喉をうるおす間をとった。
「わたしね、今でもたまに呼ばれて行くことあるの。そこにね、送り迎えで親と一緒に、小学生の生徒さんの弟や妹もついて来ることがあってね。だから、わかるんだけど。その子が走って帰ったのは、『ムショク』っていう言葉の意味がわからなくて、両親の元に聞きに帰ったのだと思う。いえ、きっとそうよ。だから、二十年後があなたのような人であることを、その子は決して悲観したわけじゃない。それどころか、その意味を知りたくてたまらないという、逆の意味のあらわれだったんじゃないかしら」
「……フン、どちらにしても、親は『そういう大人にはなるな』と言うに決まってるさ」

 話題が尽きて、会話が途切れだしたとき――それでも彼女が平然としていられたのはどうしてだろう?――、ぼくはたまりかねて、あえてこれまで触れずにきた、当初の目的を口にした。
「きみから話があるって言ったわりには、その話題には触れないんだな。まぁいい、この前、きみはぼくを『全然変わってない』と言ったが、こうして見ても、確かにきみは、変わったな」
「エッ……どんなふうに?」
 まっすぐ彼女を見て、ぼくは言った。
「つぼみが花咲くように、さ」
「あ……」彼女は恥じらい、耳まで顔を赤くして下を向いた。「だ、だって、玉川君、以前、わたしのことも『変わってない』って言ったじゃない」
「『きれいになった』とも言ったはずだぜ」
 今度は不安にさいなまれでもしたかのように、彼女はぼくを見返した。
「……ど、どうしたの?」
 ぼくは椅子にもたれかかり、窓の外を見た。この風景が夜になり、ガラスが室内を反射する鏡となれば、きっと不釣り合いな男女をここに映し出してくれることだろう。
「どうもしない。きみは様々なことを経験する一方、なんにも成長なく、当時のうじうじしたいじめられっ子と変わらぬ、今の自分が情けなく思えてきてね」
「そう、それも是非とも聞いておきたかったことなの。前回も『いい思い出などない』って高校時代のことを振り返ったよね。それが、『うじうじしたいじめられっ子だった』って表現に由来するなら、教えて、いったい誰があなたをいじめていたの?」
「フン、手っ取り早い話でいえば、勝手に生徒会長選に立候補される――これがいじめじゃなかったとでもいうのかい?」
「結果を、玉川君は、票数の結果を知ってるの?」
「知るもんか」
「そうでしょうね。あの頃、頻繁に休んでたものね。実はね、それほど大きな差はつかなかったの。はっきり言えば僅差だったのよ、一回も選挙活動しなかったあなたが。理系のほとんどの人が、あなたを推したって話だったわ。どうしてかわかる?」
「……面白がってだろ」
「なかにはそう言う人もいたかもしれない。それは否定しないわ。でも、わたしをはじめ、大多数の人が『あなたなら今の学校を、もっと生徒側の意向を汲んだ――つまりは今より面白い――学校に変えてくれる』と期待したからだと思う。あなたは利発過ぎた分、一部の先生からは好かれていなかった。覚えてる? 隣のクラス担任の数学教師が教科書にもチャート式にも載ってない難しい問題を持ち出して、わたしたちに意地悪な当てこすりをしたことを――『向こうのクラスじゃあ、前に出て考えながらも、解いてくれた者がいたんだが、こっちにはいないのかな?』。そう言われたとき、全員が下を向いたけど、心の中では『あなたなら解いてくれるんじゃないか?』と期待していたのよ。そしたら『はい』とあなたが手を挙げ、何のヒントもなく、黒板の四分の三を使って、その問題を解いてくれた。あなたが煩わしそうに手についたチョークをはたく姿が、わたしたちにとって、どれほど誇らしかったか。他にも、休日に催される文化祭で、駐車場の不足が懸念されたとき、学校の向かいにあり、わが校の施設工事全般を請け負っている工務店の駐車場を借りればいいとあなたが提言したときの、教師たちの奇想天外を笑った一瞬後、すぐさま驚愕を覚えたように青ざめた顔――いま思い出しても笑っちゃう。あとで知ることになる裏話なんだけど、どうもそれまで言いなりの金額で工事することになっていて、次回から施工会社を変更すべきか会議がなされていたときだったらしいの。あの年からよ、当然のごとく臨時に駐車場を借りるようになったのは。選挙のとき、先生たちは明らかに、文系側の立候補者を推していたわ。あなたになられては、教師としての面目が危ぶまれるかもしれないと思ったのかもね。結果、数の論理で負けちゃったけど、あなたがもしやる気になって、どんなことでもいい、今日みたいにあのときの学校に関して、こうあるべきと思っていることを一席ぶってくれていたら――そんな選挙活動を一度でもおこなっていたら、絶対に勝てたと思うわ、玉川君なら」
「……向野君、いや向野」親しみではない。熱くなりすぎている彼女をいさめるつもりで、そう呼んだのだ。「きみは間違ってる。ぼくはやはり自分のことしか考えない、ろくでもない生徒だったよ。その質問のことは覚えている。あの数学教師は、あのとき、いの一番にぼくを見たからね。あれは、どちらかといえば心理戦だった。あのとき、授業は後半だったが、教師の得意げな顔から――単純に難しいだけの問題ならあんな顔はすまい――、きっと今日の授業のどこかに問題を解くカギが隠されていると予想し、それが冒頭に軽く触れられた公式であるのにぼくは気づいた。最初、そっぽを向いて解けないふりをした。そして、今一度そらで検算したあと、あいつの勝ち誇った最後通牒を待って、手を上げたんだ。そのとき、みんなのことは頭になかった。あいつとぼくの意地の張り合いだったから」
「わたしたちはそれでもかまわなかった。だって、素晴らしい試合を見せてもらったんですもの。あなたがあの公式を引いたときの、教室のどよめきは今だって覚えてるわ」
 おそらく、彼女にとって学生時代は、一生錆びつくことのない黄金時代なのだろう。ぼくはこの話題をあきらめ、別のカードをきった。
「それじゃあ、当時のぼくのあだ名を覚えてるかい? その顔は覚えているようだな。言ってみてくれ」
「『裁判官』……だったよね? でも、それは最後の一年間だけで――」
「ああ、そうだ。存在感が薄かったのなら申し訳ないが『あれ? 裁判官は来てるか?』って声が、ぼくの目の前で何度飛び交っただろう。裁判官といえば、刑の宣告者でもある。ぼくが無慈悲な人間だったからだろう。恐ろしいあだ名をつけられたものだ」
「それにはね、ちょっとしたいわく、いえ、別の事情があるの」
 その思わせぶりな発言に、ぼくは眉をひそめた。
「別の事情?」
「最初に、裁判官とあだ名をつけられ、それをいじめだと認識する人は、世の中でもいるかいないかくらいの少数派だと思うの。だって、一部の人にとってみたら憧れの職業ですし、公平で賢い人間だからこそ、そんなあだ名がつけられたわけだから。それを前提で言うんだけど……」
 そこで彼女は口ごもると、こちらをチラチラ上目遣いで見つめた。どうも視線がぼくの襟元を見ているような気がしてならなかった。こっちは食べこぼしがないか確認したほどだった。
「なんだよ?」
 覚悟を決めたように、向野は話し始めた。
「玉川君、冬休みに私服で学校に集まらなければならないことが、何度かあったのを覚えてる? そのとき、あなたが黒いシャツに黒系の上着を着て現れたから、男子が『裁判官みたいだな』って言い始めて、あなたの性格と相まって、上手いあだ名ってことになり、それが理系クラス全体に広がってしまったの。でも、いじめる気なんてさらさらなくて、いわば、どことなく近寄りがたかったあなたへの愛着心や親しみのあらわれだったのよ。それよりなにより、みんな、口ではどう言おうと、内心ではあなたのことを尊敬していたんだから。だって、塾に行くのが当たり前の進学校にあって、あなただけが、塾にも行かず成績は常に上位、数学では必ずトップだったんですから。当時のわたしたちからすると、それはまさに奇跡としか言いようのないことで、誰しもあなたのことをひそかに一目置いて見てたんですから」
「……きみはどうも、セピア色した学生時代をしのびたがって、ぼくという人間すらも美化しているらしいな」
「ねぇ玉川君――、もしかしたら、あなたこそ、自分自身を勘違いしているんじゃない?」


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