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12――『黒い猫』

〈4566文字〉

 車を地域警察署の敷地に乗り入れ、正面玄関前に停車させると、ぼくは運転手の横手にクラクションを鳴らしてもらい、玄関警備の警察官を呼び寄せ、後部ドアを開けてもらってから、前席のシートベルトに挟みこんでいた自分のベルトを外した。ここまで来て、二人を信用してないわけではなかったが、無駄な期待を抱かせないようにするのも、彼らへの思いやりであった。それになにより、ぼくはこのシゴトをきっちり仕上げたかった。前にいる二人は『ここには停めちゃいかん』と何度も怒られたが、完全に無視していた。エンジンを切った車から、最初に降りたぼくが説明した。
「この車は証拠物件になると思いますから、このままにさせてください」
 胡散臭そうに中を覗き込む警察官を残し、二人をともなって、もちろんペットボトルには拾ったフタをし直すのを忘れず、ぼくら三人は受付へと向かった。
「罪を悔い、自首に来ました。市警本部の五十川警部と連絡を取っていただけますか?」

 五十川警部に連絡がいくと、電話越しにもかかわらず、説明など必要としない上意下達の指令が数多く下された。それまで行儀よく入口そばの長椅子に三人横並びで腰かけていたぼくらは、いくつものドアをくぐり、エレベーターを上がった先の廊下に連れて行かされ、塩原と横手は別々の取調室らしき小部屋に、ぼくだけその向かいの会議室らしき大部屋に入れられ、監視がついた。電話していいか尋ねたところ、『駄目だ』ということだった。トイレには行かせてもらえたので、そこでペットボトルの中身を下水に流させてもらった。流れた先で、火のついたタバコが排水溝に捨てられても、そのときには爆発する恐れはないだろう。なぜなら、中身はガソリンではなく、墨汁が混じった灯油なのだから。コーラを選んだのは、黒い色味をつけることでガソリンの色でないことを見抜かれないためだ。それで信憑性が増せば、かえってよいくらいだ。すべては、あの番組――あの防犯カメラ映像の賜物であり、個人的にはあのおしゃべりなスーパーマーケットの社員のおかげだった。このことがなかったら、ちょっとでも警戒心を持つ者なら(かける前に強く中身を振ったとて)こぼしてみせた液体の刺激臭の弱さ、揮発性の遅さを見抜けたであろう。

 二十分後、五十川警部が現れた。
「やってくれたね、玉川君。もっとも『よくも』という言葉をつけねばならんが」
 そこからこっぴどく叱られたのは言うまでもない。しかし、自分でも思いがけず気を張り詰めていたのか、警部が現れた頃には疲れがどっと押し寄せ、あまりこのときのことは覚えていない。警部は最後にこんなことも言った。
「きみは彼女と付き合えるまっとうな人間――これはきみの言う意味の『まっとう』だが――になりたくて、われわれに情報を持ち込むんじゃなく、自ら彼らを自首に導いたんだね」
「きみは社会に謝罪したかった。恩返しをしたかった。その範を示したわけだ」
 しかし、そんなことはどうだっていい。

 向野里美を待つあいだ、ぼくは心苦しかった。結局すべては自分のためではなかったかという後悔がうずき始めたからだ。誰かに褒められそうなことをしたとき、もっとうまくやれたはずだという自責の念が先走った。そして『褒められそうなこと』をしたというあざとさが、追って自分を苦しめた。
 電話してから三十分後、会議室のドアに現れた彼女は、驚くほど美しく盛装し、ぼくを見ると、涙を流して駆け寄り、危険を感じ慌てて椅子から立ち上がるぼくを、そのまま押し倒さんばかりに抱きしめた。そして、声を震わせ、だしぬけにこんなことを耳もとでささやいた。
「駅で女性を救ったのも、健君、あなたよね。わたしたちってバカよね。あんなことをして名乗り出ない人を探せば、すぐにわかったはずなのに」
 その推理の補完には、ぼくがあのとき、その話題を無下に斥けすぎたこともあったに違いない。だが、もう今は、そのことを偽る必要がなければ、もはや答えなど求めていない彼女を前に、隠し通せるはずがないことをぼくはさとった。
「あれは動機が不純だったから……。あの頃、家族にも学校にも迷惑をかけない死に方を――そんな機会ばかりを探し求めていた。あれこそうまく死ねる場所と思ったんだが、結局死ねなかった。あきらめて死んだら、それはもう卑怯な死でしかないからね。逆に、そこからのほうが、落ちた女性に申し訳が立たないと思い、必死だったよ。ひと駅歩いたのは、朝歩くと頭が冴えることに気づいたから。知ってたかい? 定期券は同じ路線上なら、どこで乗っても使えるんだよ。ところで、向野、これはきみも知るまい――この部屋、結構、人がいるんだぜ」
 部屋角三つを陣取るように、暇な警察官が見張り役として居合わせていたが、みな目のやり場に困っているようだった。
「ア……」彼女は背中を抱きしめる手をほどき、ぼくの胸の中から一歩離れたものの、また半歩近づいて赤く潤んだ目で見上げた。「それで、塩原は本当に自首したの?」
 彼女の言わんとすることは、塩原が反省なしに否応なく連れてこらされたのではなく、自らの意思で出頭したのかを尋ねたかったのである。
「ああ。軟派な顔をしているが、なかなかどうして硬派な男だった。証人を前に、罪を認め、自ら自首を決断した。向野、きみは間違っちゃいない。確かにやつはいい男だったよ」
 彼女はもう半歩、ぼくに近づいた――涙あふれる顔を両手で覆いながら。今度は三人ともが平然と見つめてくるので、ぼくのほうが目のやり場に困ってしまった。

 明日も聴取を受けることを約束し、その日遅く、ぼくは解放された。五十川警部に見送られながら、ぼくと向野は、廊下をエレベーターへ向かって歩いた。警部の目を気にしていた向野だったが、エレベーター前に来ると、あらたまった態度でぼくに話しかけた。もしかすると、二人だけの約束ではなく、他に誰かを介在させたかったのかもしれない。もしくは、事故に見舞われる直前の会話を、彼女はずっと気に留めていたからか。あるいは、ぼくが彼女を『向野』としか呼ばなかったからか。ないしは今、それに加わる形で、ぼくが放つ雰囲気に、何かしら不穏なものを感じ取っていたからか……。
「わたしね、玉川君――あなたとあのとき再会できたことは、偶然じゃない気がするの。なにより、あなたと出会えて、わたしは色々な悩みから解放されて、まっすぐ生きられるようになったわ。だからって、別に、今、それを証明しようってわけじゃないんだけど……あのね、玉川君、これからも一緒に――」
 もしかすると、そうまで深い意味はなかったのかもしれない。隣に居るのは、あくまで介在人であり、決して介添人ではないのだから。しかし、ぼくはその語られているさなかの告白の上に重しを乗せて海に沈めた。
「ありがとう、向野。でも、ぼくは今日、つくづく反省させられた、なんてエゴイストな人間だったんだろうって。今夜ぼくがおこなったことは、きみや警部、塩原らの誰のためでもなく、すべて自分のためにやったことだった。第五の犯行がおこなわれていたら、ぼくはこの両手首を警部に差し出さねばならなかった。被害者には土下座くらいでは済まぬお詫びをせねばならなかった。車に轢かれる直前、ぼくは微笑んだというが、これは単純に、それまでの人生に罰が欲しくてたまらなかったからかもしれないな。また、そのことでは、きみを危険に巻き込んだ。ぼくが最初からきちんと頭を働かせていれば、もっと早くに片が付いていたはずだった。ぼくは今日の電話で、きみに真っ平らな場所で再会すると約束したが、ぼくがそれを望んだのは、きっぱり背を向けて、立ち去るためだった。あらためてきみの姿を見たとき、ぼくはやっぱりきみを抱きしめられるような人間じゃないことに気づかされたよ。さっきは思わず抱きしめてしまったがね。これまで人に譲らなかったぶん、これからぼくは人に譲っていく人間にならねばならない。おれみたいな男に、かかずらっている暇があるなら、就職先を探したほうがいいよ。……じゃ」
 向野の顔は、つらくて見ることができなかった。きっと、保育所に残される子どものような顔をしていたに違いない。否、離れ離れになる弟を見送る姉のような心境か? しかし、これでいいのだとぼくは思った。すでに三人乗る狭いエレベーターに二人乗るのは窮屈だった。ぼくは彼女が乗りそうにないので、手前の空いた空間に収まり、ぼくがボタンを押し、エレベーターのドアは閉まった。
 ここで一旦、あとで聞いたことを先回りして述べさせてほしい。すべては彼女に聞いたことだ。
 灰と化した向野がその場にたたずんでいると、コホンという咳を聞いた。振り向くと、五十川警部が『追いかけなさい』と言うように、建物中央の吹き抜けになった階段に視線を振った。彼女は下に向かうエレベーターの表示板を見上げると、警部に返事をするのも忘れて、脇目もふらず一目散に階段を駆け降りた。彼女がエレベーター前に立つのと、片開きドアが開くのは同時だった。
 では、戻ろう――開いたドアの目の前に、向野が息を切らせて立っていた。
 出ようとするぼくを、壁に両手をついて彼女が立ちふさいだ。
「なんのつもりだ?」
「おあいにくさま、あなたが譲っても、わたしが譲らないわ。そういう場合、どうするの?」
「あ、あのう……」
 後ろの事務関係の警察官が困り顔になっていた。
 ぼくは愁訴するように頼んだ。
「わかった。わかったから、一旦出よう」
 しかし向野は、強情なまでに譲らなかった。
「嫌よ、行かせるもんですか! さぁ、そんな場合はどうするの?」
 向野の後ろに五十川警部が現れ、エレベーター内の警察官三人にちょっと待ってくれるよう、目顔で頼んだ。
 ぼくは言葉に窮した――こんなにもわからない問題があるなど思いもしなかったから。
「……どうしてだ? どうしておれなんかに……」
「だって、わたし、約束したもの。お母様に、『見捨てない』って。その意味は、その――」
 ぼくは発言を押しとどめて、誠心誠意彼女に懇願した。
「わかった。じゃあ、階段横で話そう。ここじゃあ、あんまりだ。そんな目で見るなよ。どこにも行きやしないから」
 ぼくらはエレベーター前で左右に別れて立ち、エレベーター内から出てくる三人に謝罪した。最初に出たぼくは、ドアのセーフティシューを押さえ、うつむいたまま頭を下げたが、向野は態度を一変させ、つつましく「ごめんなさい」と、一人ひとりの顔を見て謝った。
 ぼくらは階段横に移動した。自らの使命であるかのように介在人が付いて回った。
「チェッ、人を猫みたいに言いやがって。じゃれるどころか、噛みつくような猫だぞ」
「か、かまわない」
 彼女が強情にそう言ってのけた続けざま、言葉を引き継ぐように、ぼくは言った。
「じゃあ、拾ってくれ」
 彼女がびっくりしたのは、ぼくの態度から表情にいたるまで、何ひとつ変わらなかったからだろう。むろん、男ならよくやる照れ隠しだ。
「エッ? い、今なんて?」
「可愛げのない野良猫だが、見捨てないでくれるんなら、そうしてくれと言ったんだ」


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