エピローグーー『黒い猫』
〈1354文字〉
一ヶ月後――。
曙光が、レースのカーテン越しに、部屋に差し込み、ベッドの上に這い上がろうとしていた。
彼は、仰向けの状態で、肘を曲げた自分の片腕を枕にして、十五分も前に目を覚ましていた。
その隣で、掛け布団がもぞつき、男の残る片腕に自分の手を添えて横向きに眠っていた女が目を覚ました。
「起きてたの?」
「うん」
「寒くなかった?」
「全然」
「小さな布団なのに?」
「きみがいたから」
女は顔を赤く火照らせた。
「ありがとう、健君」
「それ、塾のことだったら、里美さん、お礼を言うのはぼくのほうだよ」
「叔父さん、健君のこと褒めてたよ。小学生相手の授業は、ともすると一方的になりがちだそうだけど、健君はきちんと生徒に寄り添えて授業ができてるって。面接に来る大学生なんかは、どちらが主役かわからない予備校や大手塾のやり方に悪い影響を受けてしまっているけど、健君はそうじゃないって。でもね、今の『ありがとう』は、そうじゃないの。いま、健君がここにこうして存在してくれていることに感謝したの。産声をあげて生まれてから、今現在ここにいたるまでのすべての過程に感謝したの。だって、まだ夢見ているようなんですもの」
「まったく、女ってやつは――。きみが夢心地なら、ぼくはあの世気分だよ」
女は顔をシーツに押し付けると、男の二の腕を軽くつまんだ。
「もう危険なことはしないって約束して」
「ああ、しない。今朝ほど長生きしたいと思ったことはないからね」
やっぱり女は二の腕をつまんだ。それから、今一度真意をただすように顔を上げる女に、男はあたらめてしっかりとうなずいて見せた。
「ねぇ、さっき――起きてたとき、なに考えてたの?」
「うん? ああ、きみの部屋に自己紹介をしていたのさ」
「あ、ずるい。わたし、この前あなたの部屋に行ったとき、自己紹介し忘れちゃった。今度行ったとき、しばらく一人にさせてもらうからね」
あのときは挨拶も何も、映画公開のために来日した際、お忍びで体験活動をするハリウッド女優が現れた男子校の教室のように、彼の部屋はただもう彼女の存在に度肝を抜かれるばかりだった。
「どうぞ、ご勝手に」
お互い顔の向きは違えども、こんな幸せな時間はないと、それぞれに思ったほどだった。
「それからね、健君」女が横向きのままベッドに両肘をつき、真剣な面持ちで話しかけた。「わたしのことだったら、もう、『さん』付けなんてしないでいいのよ」
「飼い主に呼び捨ては失礼だからな。はは、冗談さ。でもね、里美さん。ぼくはこのままがいいんだ。きみがぼくを『君』付けにして、ぼくがきみを『さん』付けにする――今はそんな関係でいたいんだ」
彼が距離を置いたのは、むろん彼女との関係ではなく、世間に対して謙虚になろうとしている姿勢のあらわれと、それに、二人の関係をちょっとだけやり直す意味で、もう少し若かりし頃に戻したい気持ちも、そこには含まれていた。
「わかった」すっかり了承すると、女は肘を伸ばして起き上がった。「じゃあ、コーヒー淹れるね。あ、そうだ、忘れてた。おはよう」
彼女の意図を察して、彼も恥ずかしそうに答えた。まさか、あのとき面映ゆげに挨拶を交わした二人がこんな関係になるなんて、思いもしなかったから。
「ああ――おはよう」
(了)