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7-2――『黒い猫』

〈11489文字〉

 ぼくは氷が解けて薄くなったアイスコーヒーを飲み干して、いつでも下げてもらえるように、通路側に移動した。彼女は窓際に置きっぱなしの空のグラスを動かさなかった。いい加減、この長話も終わりにせねばならないと、ぼくは考えた。ただし、現状のままではいけない。その前に彼女の間違った理解を正す必要があった。
「……きみの知らないことを話そう。そうすればきみの絵筆で潤色をほどこされることなく、ぼくという人間をありのまま提示できる。ぼくは小学生の頃、女子同士のいじめを目撃したにもかかわらず、何もできずに見て見ぬ振りをした。そのいじめられていた子なんて、当時気があった女の子なんだぜ。中学生になると、同級生なんて愚かで邪魔な存在としか思えなくなり『おまえらみんな敵だ』発言をして、クラス全員の総スカンを食らい、挨拶すらしてもらえなくなった。その日から、高校を卒業するまで、ぼくはいじめによる自殺記事を読みあさった。いい死に方を探してね。本当だよ、ファイルも取ってある。だが、中学の頃、優しい女子生徒もいた。当時、ぼくはいつも始業のベルの三十分前には登校していたんだが、学年は同じでクラスの違う一人の女子生徒と、ほぼ毎日ゲタ箱で顔を合わせていた。その子だけは、ぼくが先にいようが、遅れてこようが、いつも自分から挨拶の声をかけてくれた。他愛のない『おはよう』『ああ』の会話が、当時のぼくの学校生活のよりどころになっていた。しかし、悲しいことに、その子も『全員敵だ』発言以降、しばらくして声をかけてくれなくなった」
 悲しい雰囲気を醸し出すべく、一呼吸置いたところに、すかさず彼女が割り込んだ。
「だって、玉川君、声かけてほしくなさそうに見えたんだもん」
 ぼくはギョッとして、なにやら微笑む彼女を睨みつけてやった。
「……どういうつもりだ? 人の記憶にまで介入することはないだろう。たとえ、その子の気持ちが想像できたとしたって」
 目をしばたたかせた彼女は、瞬時に顔を硬直させた。
「エッ、でも、あれ、わたしだから……」
 ぼくは意味がわからなかった。『わたし』のアクセントの位置を置き換えて、意味を模索したが、やはり何のことだかわからなかった。自分という意味の『わたし』は、このとき頭をよぎりもしなかった。動詞としてばかり考えていたので。結局、何かを聞き間違えたと判断した。今のような場面、聞き間違えるようなことを言うほうが間違っているんだという認識のもと、ぼくは聞き返した。
「はぁ?」
 いよいよ彼女は困惑しきった様子だったが、それはこっちも同じだった。驚いたことに、彼女の手は小刻みに震え始めていた。
「か、確認したいんだけど、その子の名前、覚えてる? 古い名前で申し訳ないけど、あなたなら」
 変なことを聞くものだと思ったが、威圧とは逆の、恐怖さえ抱いているかのような視線に免じて、答えてやることにした。
「違うクラスの子だし、正確には覚えてないが、確か、三宅ミサトだった気が、いや、サトミだったかな」
 間髪入れず彼女が質問した。
「じゃあわたしの名前、今度は、わたしの名前言ってみて!」
 意味不明なのは相変わらずだが、付き合ってやることにした。
「きみは、向野里美だろ……」言い終わると同時に、ぼくは思い切りテーブルを叩いて、立ち上がった。「ま、まさか! きみっ」
 今度はぼくが恐怖におののき、彼女が冷静になる番だった。彼女は、ランチの時刻が過ぎても居残っているぼくらと同じ意図を持った客たちに頭を下げて回ったが、ぼくはまったく気にかけず、前のめりに立ったまま、彼女の顔を凝視し続けた。本当に、あの少女が向野だったのか見極めたくて。だが、思い出すにも、少女の面影は薄く、現在の向野の印象が強すぎた。
 彼女は心持ち赤くなりながら、話を続けた。
「わたしも驚いたわ。知らなかったなんて。玉川君、お願いだから、座ってくれない? ありがとう。じゃあ、もう一度ちゃんと言うね、その女の子、わたしだったの」
 親知らずでも抜かれたように、ぼくはしゃべりがままならなかった。
「では、きみとは、中学、高校と、同窓、だったのか……」
「そうなの。でも、今の今まで気づいてなかったなんて、わたし思いもしなかった……。名字が変わったのは、お気づきのとおり両親が離婚したから。中学を卒業するまで、離婚は待ってもらっていたの。それが半年前に打ち明けられ、離婚を承諾したわたしからの条件だった。名字を変えたわたしは、心機一転をはかるつもりで、高校入学を前に、肩下まであった髪をバッサリ切ってイメージチェンジしたの。そうね、確かに最初のうちは気づかないことも考えられたけど、卒業するまで気がつかないなんてね。誰かに教わっていたものと思ってた。別に隠すつもりもなかったし、わたしたち以外にもほんの数名だけど、同じ中学の出身者もいたから」
「じゃあ、確認するが、いや確認なんて無意味なんだが……教えてほしい。あの宿泊研修での一幕も、きみはぼくが、その●●ぼくだと、気づいていたわけだ……」
「そう言われて、逆に驚いてるわ。じゃあ、あなたはあのとき、あの●●わたしだと気づいていなかったのね。それなのに、助けに来てくれたんだ」
「きみは、その、クラスメイトだったし、それに――」ぼくは雰囲気に呑まれ、うっかり口を滑らせるところだった。「いや待ってくれ。ぼくは助けに行ったのではなく、あのときは……」
「ねぇ玉川君」さめた目つきの彼女が言った。「オオクワガタが『黒いダイヤ』と呼ばれて希少価値があったのはずっと昔のことで、当時は高値なんかで取引されていなかったそうよ。十月にカブトムシやクワガタもおかしいしね。もう明日香にも確かめて全部わかってるんだから。ところで、『クラスメイトだったし、それに――』何かしら?」
 うそをついたことがそんなに許せなかったのか、女取り立て屋さながら、テーブルに半身を乗り出して、彼女は返答を迫った。
「エ、いや、クラスメイトだったし……ア、ほら、席も比較的近かったから……」
「ふーん、そう。あのときは、どちらかといえば、席が離れていたように思うけど」そこで、彼女はいつもの穏やかな表情に戻ると、一転して、背筋を伸ばし、手を腿の上において、大袈裟にならぬ範囲で、でも動作の端々にまで気持ちを込めて、感謝を述べた。「でも、あのときは、本当にありがとう」
 ぼくはようやく、これまで胸につかえていたものの溜飲が下がった気がした。
「やっとわかった気がするよ」
「エッ、なんのこと?」
「今日のわけと、これまでのわけがさ。実のところ、今の今まで、なぜきみがこんな危険ともいえる振る舞いに出るのか、まったくもってわからなかった。今日はそれを教わりに来たようなものだったが、ここまではわからずじまいだった。でも、やっといま目が開いたようだ。もっと素直に受け止めてよかったのかもしれないな。もっとも完全にじゃなく、ちょっとわかっただけだがね」
「危険だなんて……。わたしもね、本当はわかっていなかったのよ。ただ、会って話したかった、それだけなの。でも、玉川君にそう言ってもらえると、なんかうれしい」
 ぼくは周囲に目を配り、声をひそめた。
「……なぁ、向野」
 必然彼女も小声になった。
「な、なに、玉川君?」
「一つ、大事なことを確かめさせてくれ」
 二人してテーブルに両肘をついて、軽く身を乗り出す形になった。
「エッ――、なに?」彼女は急に慌て始めた。「い、今じゃなきゃダメなの?」
「ああ、今のほうがいい」
「で、でも……もう少しあとじゃあ、ダメなの? そ、そのほうが、わたしはいいような気もするけど……」
「いや、もう我慢できないんだ。頼むよ」
「わ、わかったわ。オホン、じゃあ、どうぞ……」
「うん。では、教えてくれ。あのさ――」ぼくが生唾を呑むと、彼女もつられて喉を鳴らした。「まだ、ここに居て大丈夫なんだろうか?」
 それとなく居住いを正し始めた彼女の手が止まった。
「ハ?」
 ぼくはひそかに店員のいるカウンターを盗み見た。
「いや、追加の注文もしないで、こんなに居座り続けて怒られないものかなって」
 こちらの意味を推し量るように、一語一語言葉を区切りながら彼女は答えた。
「……席はすいてるから、問題ないと思うけど。女子だけのとき、もっと話していたこともあるし」
「そうか……ふ~ん……ならいっか」
 堂々としていいのならと、ぼくは座席に身を投げ出した。
「『ならいっか』……それだけ?」
「ああ、ずっと気になってたもんでね」
「…………気が晴れてよかったね」
 これまでになく、向野の態度がぞんざいに感じられたのは気のせいだろうか。
 それに催促を感じたわけではないと思うが、彼女がようやく用件として持ち合わせた話題を打ち明けた。
「実はね、これが聞きたかったの。別にもったいぶったわけじゃなくて、玉川君が『覚えてない』って言えば、それで終わる話だから、後回しにしてたんだけど――。高校二年のときよ。そういえば中高ずっと一緒の学校だったのに、同じクラスになったのは高二のときだけだったね。思い返せば、宿泊研修もそうだった。そんな偶然の重なった高校二年の三学期、うちの学校に、最後まで名乗り出なかった、人助けのヒーローがいたのを覚えてる?」
 なんてことない語り口の中に、どんな表情も見逃すまいとする、真剣なまなざしが注がれているのに、ぼくは気づいた。
「ああ、そういうことがあったような気がするけど、一ヶ月ほど経って、その人物が見つかったんじゃなかったかい」
「ううん、違うの。アレは卒業を間近に控えた三年生の男子の一人が、悪ふざけに名乗り出ただけだったの。それも先生にじゃなく、親しい仲間内にだけ。それがクラス内に広がり、ひいては噂として学校中に知れ渡ってしまっただけのことなの」
「へぇ、しかし、なんでうそだとわかるんだ? 救われた女性の記憶は曖昧だったはずだろう」
「なぁんだ、覚えてるんじゃない、玉川君」
「言われて、少し思い出しただけさ」
「じゃあ、ちゃんと説明したほうがいいかしら。あれは新年が始まったばかりの一月のことだったわ。朝の出勤時、プラットホームで電車待ちをしていたOLさんが、残業続きの疲労にダイエット中の貧血が相まって、立ちくらみを起こし、運悪く線路上の落ちてしまったの。彼女はまったく動けなかった。めまいを起こした上に、高い所から落ちて全身を打ちつけた状態だったから。見てきたように言うけど、新聞の情報で間違いないから許してね。普通だったら、非常停止ボタンを押して、駅員や居合わせた人が救出するのでしょうけど、そのときはそれどころではなかった。だって、もう目前に、電車が迫っていたんですもの。電車の車掌は、誰よりもはっきりと、彼女が線路上に倒れ落ちるさまを目撃していた。誰かに落とされたわけでもなく、一人転倒しホームから転げ落ちるさまを目の前で。その直後、汽笛とものすごいブレーキ音が、ホームにこだましたわ。それでも、見ていた人みんなが『もう無理だ。助からない』と思った。非常ボタンを押すひまさえないくらいだったから。そのとき、学生カバンをたすきがけにして背中に密着させた一人の男子高校生が、白線を斜め横切って線路に飛び降りると、勢いのまま女性に駆け寄った。すぐさま、見ていた人がよってたかって、『無理だ』『あきらめろ』『おまえまで轢かれちまうぞ』って声をかけたらしいけど、男子生徒は見向きもせず、無駄のない動きで、倒れた女性を仰向けにして、線路と平行に寝かせると、轟音と叫声の入り乱れるなか、男子生徒は線路に尻餅をつくようにして、横向きの女性の身体を下から支え、上に持ち上げるのではなく、前にほうるようにして、女性の身体を回転させながら、プラットホームの下の隙間に投げ飛ばしたの。振り返ることでようやく、その男子高校生が何をしたかがわかる。自分の体重を使った、てこの原理を利用したわけ。わかるかしらこの意味、道具や着ている服――周りにあるものじゃなく、自分を使ったの、それもこれだけ切羽詰まった状況でね。後日の地方欄で、介護職に携わっているという、その場に居合わせた男性は『あれは奇跡としか思えぬ離れ業だった』と振り返っていたわ。寝ているような、一般に意識のない人間のバランスは取りにくく、引きずることも、持ち上げて運ぶことも、とても大変なことらしいの。でも、その離れ業のせいで助けた本人は脱力したように、どっかと線路上に座り込んでしまった。力が抜けきって動けないらしいことはわかったけど、見ていた一人が居ても立ってもいられず『死ぬつもりか!』と怒鳴りつけたとき、初めて男子高校生は顔を上げてニコッとしたらしいわ。その瞬間、電車が止まり切れず、猛スピードで駆け抜けた」
「どうもきみはドラマチックに演出したいらしいね」
 堪え切れず半畳を入れるも、彼女は突っぱねた。
「ダメダメ、最後まで話を聞いて。でも、知ってのとおり、男子高校生は轢かれてなどいなかった。では、どうやって助かったか? 唯一考えられたのは、座った状態から、お尻をわずかに浮かせて、膝を伸ばすようにして線路を蹴り、背後に飛んだということだった。でんぐり返しした跡が、あったとか、なかったとか……。ともかく、それから駅員総出で駅中を探し回ったそうだけど、その男子生徒は見つからなかった。わたしたちの学校は、その日は何事もなく授業がおこなわれたものの、次の日には大騒ぎになった。人助けのことが新聞に大々的に載り、授業前からどこもかしこも噂で持ち切りだった。だって、その生徒はわたしたちの学校の制服を着てたんですもの。一時間目は取り止めになり、全校集会がおこなわれた。校長先生が、素晴らしいことをした生徒に名乗り出てくれるように呼びかけ、その場でもみ手をしながら数分待ったが、誰も手を挙げなかった。今は恥ずかしいのかもしれないが、名誉あることをしたのだから、今日中に担任教師に名乗り出てほしいと懇願したが、結局誰も名乗り出なかった。あのあと数週間、校長の寂しそうな顔ったらなかったわ。……興味ないようね、玉川君」
 ぼくは筒状になったデザートのメニューを元あった場所に戻した。
「あんまり好きな話じゃないね、伝聞の情報ばかりで。それにどうも話にも作為が感じられるよ。どうせ助けたやつは、長身の美男子なんだろう?」
「それが違うの。『ごく普通』っていう表現が的確な生徒さんだったそうよ。見つからなかったのもそれが原因の一つかもね。もっとも、救われた女性は、そうは思わないでしょうけど」
「ふ~ん、若干興醒めの感があるな。そこは男性洗顔料のCMに出てくるようなイケメンということにしてほしかったよ」
「だって、真実は、そこまでの色男じゃなかったんだもん。仕方ないわ」
 なぜぼくの顔を見て、彼女は溜息をついたのか。
「どうしてきみは……いや、よそう、結論のでない不毛な言い合いは。で、話は終わったのかい?」
「まだよ。だって玉川君にはまだ、覚えてるかどうか確認しただけじゃない」
 唇を尖らせる彼女に、ぼくは指先を向けた手のひらを差し出して、再び椅子の背もたれに身をあずけた。
「だったら、どうぞ続けてくれ。もっとも、きみが最終的に何を聞きたいかは、すでにわかってはいるけど」
「あら、だったら、先に答えてもらってもかまわないけど」
 これまでにないお高くとまった強気な女に、ぼくは冷や水を浴びせるがごとく、冷淡に言ってのけた。
「きみは変に期待しているみたいだけど、そいつはぼくじゃない。恥をかかせないでもらいたいね。余計なお世話というものだよ」
 彼女なりの確信があって出た興奮と熱意だったのだろうが、それらが萎縮しだすと、彼女はすっかり浮足立った。
「エッ、ア、でも、だけど、今までのことを勘案したら――」
 聞く耳持たず、ぼくは論鋒を転じて質問を突きつけた。
「その人助けが起きた駅は?」
「た、竹下駅よ」
「ぼくもそう記憶している。ところでぼくが通学に利用する駅はその一つ前の笹原駅だ。竹下駅でのドアの開閉時間は一分程度だろう。そんなぼくがどうやって状況も飲み込めないまま、電車を降りて、線路に落ちた女性を救えるだろう?」
 それでも彼女は、自説をあきらめきれず、早口で追いすがった。
「竹下駅まで歩いたとしたら? たとえばあの日、運賃を安くあげて、お小遣いにしようとして、竹下駅まで歩いてたとしたら?」
「きみはどれだけぼくに恥をかかせるつもりだい? ぼくだってそりゃ小遣いは欲しいがね。定期券があるんでは意味がないというものだよ」
 最後は、さながら犯人に向けて情に訴えるように、潤んだ悲しげな目で彼女はぼくを見つめた。
「本当に……あなたじゃないの?」
「本当に、ぼくじゃない。こういう話は好きじゃないから、もう二度としないでくれ。さて、これで話が終わりということなら、店を出よう。駅くらい、送るよ。なぁに、あそこの本屋で買いたいやつがあるのさ」

 帰り道――。
 最後のことですっかり意気消沈したこともあり、めっきり会話の数が減った彼女に代わって、ぼくから話しかけた。
「もう結構前になるけど、衝撃映像を寄せ集めした番組で、クリーニング店にガソリンを持った強盗が押し入ってさ」
「爆発したのよね、お店ごと」
 うつむきながら、にべもなく彼女は答えた。
「なんだ、知ってたのか」
「うん、わたしは見なかったけど、たまたま知った人が、見ててね」
「そうか。あれってさ、視聴率高かったのかな?」
「ええ、高かったみたい。動画サイトを開いたときも、すぐにアップされてて――もちろん違法だけど――、一面に取り上げられて、閲覧者数もすごかったから。結果、人が死んでるのにね……」
「あれは偶然防犯カメラに映ったものらしいね。ああいう番組は、案外、犯罪者も気にかけて見ているかもしれないね」
「そうかしら。気にかけてるのは、目立ちたがりな若者くらいじゃないかしら。最近では動画投稿サイトに、奇をてらった自作自演の映像を好んで投稿している人が多いから。防犯カメラを装う人もいるくらい」
「ふ~ん、そうなんだ」
 ぼくは素直に気になっていただけで、場を盛り立てようとする気遣いはなかったのだが、突然彼女が詫び言を述べた。
「……ごめん」
「どうした?」
「わたしが誘っておいて、最後にこんな話になって」
 ぼくらは横並びにはならず、距離としては半歩空けて、横幅としては半身を重ねるようにして歩いていた。歩く速度は彼女に合わせ、いつもの散歩時からはだいぶ落として歩いていた。
 彼女が立ち止まった地点から、二歩進んでぼくも立ち止まり、振り返った。
「じゃあさ、ここで、ぼくらしい話を、一席ぶってあげようか?」
 雨雲が過ぎ去り、うつむいていたヒマワリが再び空を仰ぐように、彼女の顔に大輪の笑顔が咲いた。むろん、今度ばかりはそれを企図しての『一席ぶつ』という言葉の選出であった。
「うん!」
 辺りに休める公園や店は見つからなかったので、ぼくらは自動販売機のある建物の陰で一席を設けることにした。飲んできたばかりなので飲み物は遠慮した。ぼくはまっすぐ立ったまま自販機を覆うポールに軽く背中を預け、彼女はちょうど腰の高さにあったコンクリート塀をカウンターチェア代わりに使った。手ぐすねを引くように今や遅しと待ち構える彼女に向かって、早速ぼくも口火を切って話し始めた。
「向野、きみさ、さっき、パンチラしたんだぜ」
「エッ……」
 目を見開き、思わず絶句した彼女は、赤くなると同時に、ぼくから顔をそむけた。まったくもって表情豊かな女性だ。確かに、ソレは彼女にとって耳慣れもしなければ、想像だにしないワードだったに違いない。ぼくは追い詰めるように、平然と聞き返した。
「どうした?」
「……だ、だって、そんな言葉、玉川君の口から聞くと思わなかったし」ここからは幾分力を込めて抗弁した。「それにわたし、今日スカートじゃないから、み、見えるはずないし。それに、しゃ、しゃがんだ覚えもないし」
 ぼくが悠揚迫らぬ態度をとったのは、別にその色を知っていたからではない。
「いや、そうじゃなく、さっき角を左折するとき、きみは柵のない駐車場を横切ろうとしたが、歩道に沿って歩くぼくに気づき、小走りで戻ってきただろう。きみが特別じゃなく、コンビニの駐車場なんかでもよく見られる光景だが、ぼくはそれを、隙を見せる行為ととらえ、パンツをチラリと見せてしまう失態、いわゆるパンチラと同一視するようにしてるんだ」
 向野は、ぼくとの正視を避けるようにして、決まり悪げに問いただした。
「ど、どうして、それがパ――いえ、隙を見せる行為になるの?」
 ぼくはといえば、不仰天地に愧じることなしと、胸を張って答えた。
「簡単に言うと、逮捕される可能性がある行為だからだよ。住居侵入――いわゆる不法侵入の罪にね。ぼくはね、みんながやっているからって同調して、軽率な行動はとりたくないんだ。きみなんか、他人の家に許可なく上がり込んだって文句は言われまいが、ぼくなんか路上を歩いているだけで職務質問されかねないからね。『こんなところで何してるんだね?』『歩いているだけです、悪いですか?』『なんだぁ、その態度は? 身元を証明するものを見せろ』『いやです。言ってるでしょ、歩いているだけだって。どうして身元を証明せねばならないのです』『こいつめ。おまえがそういう態度をとるなら、こっちにだってやり方がある。おまえ、さっき、そこの駐車場を横切ったよな。ついて来い。住人が、おまえに通行の許可をしたか確かめてやる。もししていなかったら、住居侵入の罪でその場で逮捕だ。さぁ、行くか見せるか選べ』ってね」
 信じられないとばかりに、彼女は首を振った。
「そ、そんなひどい警察官、いないわ」
「それも、軽率な思い込みだよ。いないともかぎらない。歩く分ならまだましで、それに留まらない災難を引き起こすことだってある。自動車やバイクでそんなまねをして、万が一事故っちまった場合だよ。そういうやからは大抵が無駄に急ぐやつで、だからこそ事故だって起こしかねない。駐車場を猛スピードで走り抜けるのだから、特にね。たとえば、きみがスーパーの店長で、信号待ちを避けるために駐車場を通り抜ける不埒な運転手に対して腹にすえかねていたとしよう。しかし、基本的に現場はおさえにくいので、放置しておくしかない。そんな折、出口のところで買い物袋もレシートも持たない人物が事故を起こしたと警察に教わる。事故を起こしたやつは、きみに対し当然こう言い逃れするだろう――『見に来たが、買うものがなかった』と。しかし、駐車場の防犯カメラには、店に入る様子もなく、明らかに最短距離で駐車場を横切っている。さて、きみならどうする? ぼくなら絶対に不法侵入の罪で訴える。こんなときくらいしか、憂さを晴らす機会がないからね。というわけで、そういう法に抵触する行為を軽い気持ちでおこなうことを、隙を見せる行為として、ぼくはひそかにパンチラと呼ぶようにしている。だから、きれいな女性がそういう行為を堂々とやっているほど、こっちが気後れを感じて目のやり場に困ることがあるよ。なんら臆面もなくやられればやられるほどにね。男に関しては、ズボンをはき忘れたようなものだから、『馬鹿なやつ』とあざけるだけだがね」
 距離を置く目つきというのがあるなら、今の彼女がまさにそれだった。
「ふ~ん、玉川君って、いっつもそんなことばかり考えながら散歩してるんだ」
 もしかすると彼女には、実際に見られたのと同等の認識があるのかもしれない。あの場所を歩いて引き返すちょっとした時間、ぼくがそういう目で自分を見たんだという意識を彼女は引きずっているような気がした。彼女はきっとそういった面では小学生と同じくらい純真で、ぼくに透視の能力があろうがなかろうが関係ないのだ。ところが、事実は、ぼくこそそういう意識にとらわれ、あのときそばを離れた彼女に目を向けるのをためらったくらいである。
「『いっつも』ではないが、『思想および良心の自由は、これを犯してはならない』と憲法にも明記されているからね。じゃあ、駅に向かうとしよう」
 あえてこの話題を振ったのは、彼女に現実を正しく認識してもらうためだった。食事中から、何度こう説教してやりたかったことか――『そもそも、きみはぼくをいったいなんだと思っているんだ! 兄や弟でもなければ、七十の老人でもないんだぞ』。だが、今回もそれを言うことはできなかった。
「なぁ、そこの大通りは、歩道が狭い上に、街路樹がせり出して歩きにくいから、住宅地を抜けてかないか?」
「わたしはかまいません」
 しかし、彼女の慇懃な態度も最初の数分だけで、このことがきっかけで、気が重たくならず、懐かしんだ話に数輪の花を咲かすことができた。

 大した話じゃないので、固有名詞を省いた概略を述べるにとどめるが、高校で同学年だった男が、大学のサークルで知り合った男と一緒にコンビを組み、大学卒業後は事務所に所属して、アルバイトに明け暮れながらも、それ一本で食べていけるプロのお笑い芸人を目指しているという話を、彼女が語った。ぼくは言った『そうか、昔は職にあぶれたような若者が安易な気持ちで目指すことも多かったようだが、今ではもう、テレビの向こうに成功者が山ほどいて、お笑い芸人もプロスポーツ選手と同じ、どれほど苦労しようと、夢として追いかけたい職業になったんだな』『本当よ、二軍三軍のような格分けもあるんだから。そんな中でも、彼ら頑張ってるの。先日初めて単独ライブしたのよ。まだ小さな劇場だけど、チケットも完売したそうなの』『そうか』『応援、してあげようね?』『変なこと聞くなよ、向野』『エッ……』『同級生が頑張ってるんだ。応援するに決まってるだろ』『アッ、そうだね。……ありがとう』『なんだ、きみ、そいつと付き合ってるのか?』『ち、違うわよ! ちょっとうれしくて言っただけ。あのね、もうずっと前の同窓会でね、そのひと言ってたの。〈おれ、玉川に認められるような芸人になりたいんだ〉って。そのときはみんなびっくりしたわ。玉川君の名前が出るなんて思いもしなかったから』『……』。

 あと一区画で住宅街を抜け、駅前通りに差しかかるというところまで来た。お互い無口になり、別れの言葉を模索する頃合いを迎えていた。長い年月を要した彼女の返礼も、ようやく終わりが近づいていた。
 背後を振り向くぼくだけが気づいていたことだが、さっきから白のセダン車が一台、道に迷ったように、動いたり止まったりを繰り返していた。
 考え込んでいた向野が口を開いた。
「あのさ、玉川君。電話が話しにくいなら、メールのアドレスを交換しない?」
「ぼくの携帯電話は、あいにく買った当初よりメール機能はついてないんだ」
「もちろん、パソコンのほうのアドレスでかまわないよ。今、わかる? わからないなら、わたしのほうをメモに書いて渡すけど」
「向野、悪いが、もうその必要は――」
 そのとき、黒板を爪でひっかくようなスキール音が、十メートルと離れてない背後から聞こえた。先ほどから言いようのない胸のざわつきを感じていたぼくは、瞬時に、向野よりも早く身体ごと振り返った。前傾姿勢でハンドルを握りしめ、噛みしめた歯を剥き出しにした運転手と、助手席で身体を横向きにし、両腕を伸ばしダッシュボードとヘッドレストをつかんでいるさまは岸和田だんじり祭りの大工方さながらの、口を大きく開けた男と目が合った。
 五十川警部の『おっしゃるとおりです。しかし――』に続く言葉が表現しかけた現実が、いま目の前に繰り広げられていた。
 ぼくは、とっさに向野の肩を建物側へと突き飛ばして、自分は道路の中央側に一歩踏み出した。車首も追尾するように迫ってきた。認識できたのはそこまでだった。ぼくはボンネットに叩きつけられ、宙を舞った。斜面を転げ落ちるように全身を打ち、太い木の幹にぶつかるように地面に叩きつけられた。最後に耳に届いたのは、怪我のないことを物語る肺活量いっぱいの向野の悲鳴だった。よかった、彼女は無事らしい――安堵とともに、ぼくは意識を喪失した。


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