見出し画像

8(回想)――『黒い猫』

〈3608文字〉

「サクちゃん、このメーカーの商品もっと仕入れられないの?」
「あ、そこは、生産力が足りなくて、それ以上は無理だと」
「そんな先方の言い逃れ信じてどうするの。電話で無理なら、カチコミかけるの。余ってるやつ、箱ごと奪ってくるくらいの気概がないとつとまらないよ、この仕事」
「は、はい。では、午後一番に行ってきます」
「午後じゃ、ダ~メ。いま行くの。ちまちま数合わせするより、売れるブランドを入荷するほうがはるかに大事なのよ。これが売れれば、他の数も動くんだから」
「じゃあ、この残り作業は……」
「戻ってから、やればいいじゃない」
「でも……」
「なに?」
「このところ、ずっとですし……」
「あのね、サクちゃん、もういい加減慣れないとダメよ。バイヤーの仕事は、売り子さんのときとは責任の度合いが違うんだから。定時に帰れるほうが珍しいの。さ、用意して! あ、そうそう、帰りでいいから、この前の件で、バシリスクのマネージャーさんにお礼言っといて。ラヴィアンローズのシュークリームをひと箱持っていけば十分だから――九個入りじゃなく六個のやつよ」
 井尻さくらは、パートで勤めていたアパレルショップに、服飾関係の短大を卒業したあと、社員として正式に入社することになり、三年目を迎えた今年から生産管理を任されていた。サービス残業の毎日で、心身ともに疲弊していたが、この女店長の『あなたは若手有望の店長候補なのよ』に励まされてか、おだてられてか、日一日どうにか乗り切るような毎日を過ごしていた。
 先日、彼氏から呼び出しを受け、久しぶりのデートに、時間を無理に都合し、新品ずくめの格好で会いに行ったところ、喫茶店で合鍵を差し出され、『別れてほしい』と切り出された――『きみのことは今でも好きだし、愛していきたいと思っていたけど、こんなにもきみと会えないなら、ぼくはもうこの気持ちを保っていられない』。付き合って半年である。彼女は黙って受け入れることにした。仮に――正当な要求ではあるが――店長に歯向かって、会える日数が月に二日増えたって、同じことだろうから。『わたしの現状を理解してくれないような人に、いくら言っても無駄な気がした』から。『疲れきって帰って、行為に及ぶ気力さえない夜も、一緒に過ごして話を聞いてくれるような人じゃなかった』から。しかし、この男性は取引先の営業員で、仕事上の関係は継続せねばならなかった。
 さくらが家に帰るのは、たいてい午後十時を過ぎてからであった。当然、食生活も乱れがちになった。夕方、お菓子を口に入れて空腹をしのぎ、夜はコンビニのパンや弁当で夕食兼夜食を済ますことも多かった。また、疲れきっていたため、食べて一時間後には寝てしまうなんてこともざらにあった。
 九時半に退社した、その夜も同様であった。ちょっとだけ違うのは、家のそばのコンビニで、いつもは翌日の朝食用にサンドイッチを買って帰るのだが、そのときは、悩んだ末、野菜ジュース一つ買うにとどめたことだった。最近野菜分が足りないのを気にかけていた。今日も昼に、いろどりとして添えられた小鉢のサラダを食べただけだった。正月に帰省したとき『顔色が良くないようだけど、バランスの取れた食事をしているんでしょうね』と母親に言われたことを思い出した。あまりお通じがこないのも気になっていた。もちろん、最近測りに乗るのを避けている、体重のことも。
 翌朝、昨夜食べたものが消化しきれてないような胃もたれを感じながら、さくらは目覚めた。ちょうど食べ物なんて口にしたくない気分だったので、野菜ジュースを飲みながら、化粧をし、着替えをして、家を出た。おかげで、十分ほど早く家を出られた。出社してまずおこなうべきことを考えながら、駅に着き、改札を通って、階段をのぼり、プラットホームに上がった。
 いつもできるだけ考えないようにしていたことがあった……。本音を明かすと、さくらは、今の仕事、それに店長のことが嫌いになりかけていた。たとえば『サクちゃん』と呼ばれることも彼女は好きになれなかった。そう呼ぶくらいなら『さくら』でいいではないか。なぜあと一字を惜しむのか? おそらく承認欲求が強い人だから、他の子が『さくらちゃん』と呼ぶのと差別化をはかりたいのかもしれないが、その言葉には『裂く』という意味や(辞書で調べて知るのだが)新月の『朔』を思い起こさせて、彼女自身は好きになれなかった。もっと言えば、そういう意味があることを承知の上で、間接的にいじめるつもりで呼んでいるように聞こえて――。
 今日は運がいいらしい。いつもの路線に向かうと、電車はすぐにやってきた。さくらが白線へと小走りで近づいたとき、ぐらりと視界がゆがんだ。『あれ?』と思う間もなく、膝が勝手に崩れ、身体を支えるべく地面についた手が空を切った。右肩をしたたかに打ちつけ、そっくりかえると、身体が宙に浮かんだ。目は開いていたので、プラットホームの屋根の隙間から見える紺碧の青空が左から右に移動し、『ああ、わたし、線路に落ちつつあるんだ』と理解したが、彼女には何もできなかった。抵抗しようにも、指一本動かすことができなかった。極度の貧血状態におちいったのである。視界が緩やかに一回転し、倒れたカメラの映像を見るように、見ている景色が突然横倒しになって止まった。一メートル強の高さから、線路上に落ちたわけだが、『ドスン』というかすかな感触と物音が認識できたけで、傷みは皆無だった。
 落ちたあとも、身体はまったく動かなかった。耳も何も聞こえない。ただ、電車が迫りくるのが、線路を伝う振動が激しくなることによって感じられるだけだった。視覚だけが無駄に生きていた。誰も助けに来なかった。当然だ。電車が目前に迫っているのは、さっき自分の目で見たではないか。『わたし、こんなふうに死ぬんだ』そう思った。だとするなら、こんな視界など必要なかった。なにも見せてくれないほうがよかった。まぶたをつぶろうと試みるも、バネ仕掛けのようにまぶたは引っ張り上げられた。
 ふいにこんなことが、さくらの頭をよぎった――『ううん、違うわ、さくら、そうじゃない。誰も助けに来ないのは、わたしなんて助ける価値もない人間だと、みんなわかってるからよ。だってそうじゃなきゃおかしいわ。もう倒れて二分近くは経ってるんですもの』――実際は三秒と経っていなかった。諦めがよぎると、涙でぼやけて、視界もままならなくなった――『わたしの人生、なんだったんだろう? わたしって流されてばかりだった、仕事も、恋愛も。今度こそ自分から切り開く人生を送りたい。でも、今この瞬間、あきらめるわたしに、そんなことができるかしら。神様が許してくれるかしら。たぶんできないし、許してくれるはずもない。わたし、やっぱり、助かりたい。まだ、死にたくないよう……』。
 その視界に、何者かが飛び込んできた。ブレザー姿の男子高校生だった。彼はすぐに視界から消えた。いや、そうじゃなかった。さくらの視界が動かされ、真上を向かされたのだ。多くの人たちが、プラットホームの縁の上で、狂わんばかりに叫んでいた。何を言っているのかわからなかったが、『誰も助けようとしない』というのが、自分の被害妄想だったことがわかった。『店長はわたしを憎んでいる』そんな感情に取りつかれたこと、あるいはそれも被害妄想ではなかったか?
 慌てることなく(何らかの)作業に没頭する、男子高校生の顔が何度か視界を横切った。イケメンというよりも、彼女好みの、幼く、可愛い顔した男子高校生だった。
 制服姿の男子学生――淡い恋の思い出が、危機迫る状況を押しのけて、さくらの脳裏に浮かんだ。日頃は無口な男子だった。授業中に降り始めた雨のせいで、校舎の軒下に立ったまま帰れずにいると、黙って傘を差し出してくれたのが、その男の子だった。『おまえんち、遠いだろ。おれんち、すぐそこだから』『ま、待って、どうしてわたしの家を知ってるの?』雨のなか立ち止まると、男子生徒は振り返り、一心に彼女を見つめ、言った『おれ、おまえのこと好きだから。じゃあな』。次の日、傘を返したときは、お互いよそよそしく、なにも言えず、それっきり関係が進展することはなかった。忙しさにかまけて同窓会を拒んできたのを後悔した。あの人は今、なにしてるんだろう?
 そのとき耳元で、男子高校生の大声で叫ぶ声が、微弱な脈を打つ鼓膜にかすかに届いた。
「いいか、動かなくても、気持ちでやるんだ。身体を棒のように固めてくれ」
 いったいなぜ、この人は知ってるんだろう? いつもできないなんて自分で決めつけ、先に心を折っていた自分がいたことを。そう、変えるんだ、わたしの人生。さぁ、わたしの身体よ、棒になれ!


前章(7-2)                          次章(9)