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2――『黒い猫』

〈7380文字〉

 その夜――。
 視聴率は低迷する一方だが、律儀に――というより、初回と二話目を見てしまったことによる忠義立てから――見続けている恋愛ドラマの第五話目を見終えた向野里美は、テレビ番組をザッピングして興味を覚えるものが見つからないと、電源を落として、座ったソファの端にリモコンを転がすように放り投げた。手足を伸ばしてソファに身をもたれながら、彼女はしばし、自分の身の上をドラマのヒロインと重ね合わせてみた。
「意味わかんない……。お金持ちかなんか知らないけど、どうしてあんな不良っぽい男が好きになるかなぁ。十代なら、まだわかるわ。わたしも、まぁ、好きだったことあったし……。でも、あの子、わたしと同じ、二十五だったはずよね。その年齢で、あの男はないわ。弁護士事務所に勤めているのならなおさらに。もっとも、わたしが男性の側だったとして、弁護士事務所に勤めてて、同じく二十五にもなって、あんな清純を気取っている女とは、絶対に付き合いたくないと思うけど。ああ、なるほど、お似合いのカップルだったのかもね――」里美はお似合いのカップルは大好きだったし、今のところ自分は望まないにしても、街中でペアルックのカップルを見たときは(なるべく目を向けないように努めながら)応援したし、テレビの中の二人も祝福したい気持ちにはなったが、やはりすでに自分の人生の五時間ばかりを奪った相手に一言くらい言わずにはいられなかった。「だからって、ドラマにしてほしくはなかったけど」
 気を取り直して、片方の足をまっすぐ宙に伸ばすや、手もつかずに身のこなしよくソファから立ち上がると、彼女は部屋の内戸を出て、浴室に入り、お湯をひねってから、浴室の引き戸を閉めた。
 さて、追いかけるのはここでやめるとして、彼女について語っておくとしよう。
 今度こそ今度こそと思って、期待外れに終わる――それがこれまでの彼女の人生でもあった。テレビドラマだけではない、実社会における恋愛も、そして仕事も。
 大学卒業後、彼女はドラッグストアに就職した。第一志望ではあったが、実のところ望む・望まないに関わらず、就職活動という波にのまれ、採用募集のある限定された企業の中から、身の丈に合わせて選定しただけの就職先だった。それでも、就職できただけ運が良いほうだった。しかも、第一志望である。内定は同期生の中でも早かった。しかし、この運の良さが、彼女を三年三ヶ月に渡る苦悩におとしいれた。
 何百万円、何千万円というチームノルマ、残業続きでやっと売り上げを達成したら、その上をゆく新たな目標の設定、休み返上の商品学習研修、売れ残りの自腹購入、無縁だった犯罪(万引き)との否応のない関わり、自分が取り仕切る母親ほどの年齢のパート従業員たちに(自分は免除された)重労働を課さねばならない現実……。もっとも恐るべきは、まれに現れる常軌を逸した客で、朝っぱらから酔った勢いで怒鳴り散らすこともあれば、買いもしないのに客の立場を利用して暴言を吐く者もいた。いや、そんな手合いは接客業に携わるのであれば、どんな店舗でも必然渡り合わねばならぬものだが、彼女が心苦しかったのは、純粋に親しみを込めて、『まちの薬屋さん』として頼りにしてくれる相手(ことに老人)をも、同じ一線を引いて対処しなければならないことだった。買えたことに感謝してくれるお客と、高飛車に買ってあげていると恩を売ってくる客も、データ上は(敬意を表す『お』の接頭語のあるなしにかかわらず)同じで、なんなら高い買い物をしてくれることの多い後者こそ大事にせねばならないのだった。さらに言うと、店が客寄せのための商品として、もうけが出ないまでに価格を下げた商品ばかりを購入し、その客からすれば売ってもらわねば困るという実情が、店側としても見え見えなのにも関わらず、そういう客ほど横柄な態度をとるのだった。彼女の勤め先はドラッグストアでありながら、六割近い売り場で食料品や雑貨も取り扱っていた。
 里美が三年三ヶ月をかけて、ここで養うことができた貴重な体験――一生引き継がれるであろう財産は、どこでものを買うにしても、『ものを売ってもらい、買わせてもらっているという意識』であった(自動販売機にさえ、そう思うようになった)。
 ひたすら目の前の仕事に追われ続けた結果、延長上にある自分の行く末が、二年半で見通すことができた。三年を終えた段階で辞める覚悟をし、実際辞めるまでにもう三ヶ月かかった。学校の成績では、わずかに背伸びした志望校に運良く受かり続け、一度も浪人生活したことのない人生が、今になってあだとなったのかもしれない。幸運が自分のためになるとはかぎらない。逆もまたしかり。彼女は自分を見つめ直す意味で、今の一人暮らし生活が続けられそうな一年間に限定して、アルバイト生活を始めた。
 顔を桜色に染め、濡れた髪をタオルに巻き付け頭上に乗せた里美が、部屋に戻ってきた。
「ふ~、気持ちよかった。なぁ~んか、見られているような気がするのは、気のせいよね……」彼女は気配を確認するように部屋に入ったところで立ち止まり、伸びをしたためへそが見えるまでにめくれ上がったTシャツのすそを引き下ろしたが、さっき自分の転がしたうつぶせのリモコンを見て、気が晴れたようにソファに身を投げた。「ばかね、誰がいるのよ? 男を連れ込んだことがあるわけでもなし。ああ、そっか、こんなことを考えるのも、髪を洗っているとき、あの人の顔が浮かんだからだわ。でも、驚いたな、同窓会にも全然出ない玉川君と、あんなところで再会するなんて。でも……不思議……なんであの人と出会えたとき、あんなにうれしかったんだろう? 助けてもらったから? うん、そうよね、たぶんそうだと思う。……でも、それだけじゃない気も……。彼と気づいたとき、わたし、なんだか、あの人に助けられたこと自体、忘れちゃってたようだったし……。クスッ、でもあの人、高校の頃と全然変わってなかったな。髪型から服装の感じまでまったく一緒。すごく頭の良い人だったから、いい会社に勤めてるのかな。研究者とかだったりして。なんにも持たず私服で帰るところから察するに、プログラマーってところかしら。思えば、同窓会で一番盛り上がるのは、いつも玉川君の話題なのよね。口の悪い男子は、『あいつがいないからこんなに盛り上がるんだ』なんて言うけど、ちゃんと誘ってるのかしら? 電話番号だけでも聞いておけばよかったな……。もっとちゃんとお礼も言いたかったし……」

 翌日――。
 里美には、アルバイト生活を始めるにあたって決意したことがあった。それは朝昼晩と欠かさず手料理を作ることだった。会社員の頃は、外食ですませたり、出来合いのものを買うことが多かった。当時の食生活は、おおよそ以下のようなものだった。帰宅する際に期日の迫った菓子パンを従業員割の半額で購入しておき、それを翌日の朝食とし、昼は店の冷凍食品もしくはカップ麺におにぎり、夜は弁当を買って帰るか、週末ならば仲間と飲みに行くといった具合である。栄養価がかたより、疲労も重なって、仕事中立ちくらみを起こすこともたまにあった。その反省と経済的理由と、ついでに嫁入り修行を兼ねて始めたのである。
 午前十時三十分、家事を終え、必要なものをメモすると、彼女は買い物に出かけた。近隣には東と西に分かれてスーパーマーケットがあり、曜日によってセールの日が違った。あいにく今日は、どちらの店も売り出しの日ではないため、彼女はちょっと足を伸ばして、距離としては一・五倍近いが、南に位置する行き慣れないスーパーまで行ってみることにした。
 店に行き着くと、通っていたスーパーより閑散としており、売り出しのノボリもなく、軽い失望感を覚えたが、カゴを持って入店すると、店舗の中にパン屋があり、焼き立てのいい香りが漂っていたことから、気分も一新した。しばらく見て回ると、やはり午前中にしては客が少なく、これまでのスーパーと客層も違って見えるのは、商品の質にこだわった店だからのようである。輸入品も多く取り扱っていた。彼女は興味深くそれらを手にとっては、値札を見て棚に戻した。しかし、あまり見かけない商品は、見て回るだけでも楽しかった。彼女には使い勝手不明のオイルサーディン、紫色したポテトチップス、一キロもののマンゴープリン、冷凍なのに千五百円するピザ等々。精肉や鮮魚も見るからに新鮮で、特に鮮魚は、値段も他店と比べてさほど高いわけではなく、今度お刺身が食べたくなったら、必ずここに買いに来ることに決めた。野菜のエリアに足を向けたとき、男の人の話し声が聞えた。辺りをはばかることのない声で、返事のようなものはなく、一方的だったので、最初は携帯電話ででも話しているのかと思ったが、近づいてみるとそうでないことがわかった。ちょうど客のいない野菜売り場の中央で、従業員同士が話しているのだった。よくしゃべっているのが、ラップを巻いた半切りのキャベツを平棚に並べるスーツにエプロン姿の正社員とおぼしき従業員で、もう一人は丸々一個のカボチャを積み上げるように盛る、全身真っ白なお仕着せを着たパート店員だった。
「じゃあさ、自分が引き起こした雪崩から直滑降で逃げるスキーヤーは? 遠景で撮影するカメラ持ったやつが『逃げろー、バカ振り向くな、逃げろー』って慌てふためいちゃってさ」
「いえ、見ていません」
「飛び込み台のやつは? これは他局の似た番組でも取り上げられたから知ってるんじゃないか? 後ろ向きに飛ぼうとした男が、飛び込み台の先で勢いづけた瞬間、足が滑って、股間と顎を台の先端に強打するってやつ。そいつさ、両手で股間を抑えたまま落ちて、そいでまた、着水がきれいなのが大受けなんだよな」
「あいにくですが」
「そんじゃあさ、これは? トリを飾ったので、ペットボトルにガソリンを入れてクリーニング店に強盗に押し入ったやつは? 密閉された室内が暖かかったもんだから、すぐにガソリンが揮発しだして、その量が減っていくさまが、真横からレジを狙った監視カメラにばっちし映っててさ、さっさと金を渡せばいいものを店員も店員で、強盗の要求に応じないものだから、ついには事務所が大爆発しちまって、クックックッ、可哀相な店員は包帯だらけになったが、さすがはアメリカ、本人も乗り気な『ミイラ男』ってことで有名人になっちまいやがった。犯人は当然死んだがね」
「いえ、言ってるように、最初から最後まで見ていませんから」
「マジかよ。じゃあ、まさかとは思うが、昨夜はあのクソつまらないドラマを見てたのかい?」
「いえ、本を読んで――」
「アッ、悪ぃ、電話だ。じゃあ、あと、やっといてくれる」
「はい」
「もしもし――ああ、そんなことより、昨夜のテレビ見ました?」
 携帯電話を両手で右耳に押し当てると、相変わらずの大声で、エプロン姿の店員は従業員用出入り口へと入っていった。
 キャベツも託された白ずくめの店員は、帽子を目深にかぶり直すと、あらためてカボチャを積み始めた。
 しばしのあいだ、ナッツ類の吊るされた柱の影で、女刑事さながら、その様子をうかがっていた里美は、生唾を飲み込むと、極力足音を消して、白ずくめの店員の背後に近づいていった。このとき、本能だけが彼女を操作し、理性は完全に封じ込まれていた。そう、あたかも自分の上司を殺してまで逃走した、時効間近の憎き凶悪犯とゆくりなくも再会したかのようであった。この無鉄砲な振る舞いは、たとえ犯人を確保できたとて、今の上司により大目玉を落とされたに違いない。実際、このときの彼女の思惑が成功したか否かに関わらず、彼女はこの軽率で意地の悪い非情なおこないを、のちに自ら深い後悔なしには思い返すことができなくなる。しかし、先走りした感がある。それに言わずもがな、彼女は刑事ではなく、相手も凶悪犯などではない。
 里美は、ある確信を抱くと、ずいとばかり白ずくめの店員の真横に身を乗り出し、カボチャにだけ目を向けながら、店員に話しかけた。
「一人暮らしのわたしには、一個は多いなぁ。ねぇ、これって、甘いの?」
 隣にいるにもかかわらず、いや隣だからこそか、聞こえるか聞こえないかの小声で、問うた客を見もせず、白ずくめの青年は答えた。
「甘いと思います……たぶん」
 売り腰が強くないのは確かだった。
 一方彼女は、その場に誰もいないのを知らしめるような声量で会話を続けた。
「そ――。ねぇ、これ、西洋カボチャ、それとも日本カボチャ?」
「栗カボチャです」
 確かに、値札の上にはそう書かれてあった。
「だからぁ、それってどっち?」
 こんなどうでもいい、薬の成分の細かなものまでいちいち問いただす客に辟易していたことも棚上げにして、彼女は問いかけた。
 それに関しては、白ずくめの青年は、心持ち見下すように答えた。
「栗カボチャは、西洋カボチャです」
 『ふ~ん、そうなんだ』と思ったが、彼女は動じなかった。
「そ――。じゃあ、いっこ買ってみようかしら」里美は置かれたばかりのものを一つ取ってカゴの中に入れた。「で――、それはそうと、玉川君はここで何してるの?」
 途中で放り投げられた形の、そのとき移し替えようとしたカボチャが、台からこぼれ落ちなかったのが奇跡であった。
 身をのけ反り、振り向き、絶句した彼の驚き顔は、一瞬後には悲劇そのものに変わった。彼は顔を隠すように、帽子のつばに手をやり、そっぽを向いた。偶然にも置き去りにされたキャベツのカゴが目に入ると、彼はそれに飛びついた。里美に背中を見せた玉川は、貼られたラベルの向きを無視して、やたらめったらキャベツを平棚に乗せ始めた。
 里美はその背中に向けて、ひとり打ち明けるように語りかけた。
「わたしね、今日偶然この店に来たの。びっくりしちゃった、昨日会ったばかりの玉川君にまた再会できるなんて。昨日は、その、本当にありがとう」
 本来の彼女であれば、こんな場面で前回のことを持ち出し、感謝の言葉を述べるようなまねは“絶対に”しなかったろう。しかし、このときにかぎって、彼女の深層に潜んでいたあまのじゃく的要素を持つ、もう一人の彼女は、意識の座に居座り続け『こんな千載一遇の仕返しの場で、お礼参りせぬものがあるものか』と微笑むことをやめなかった。実際の彼女の顔にも、『この前、あんなこと言ったくせに』という表情がありありとしていた。
 しかし、次の彼からの一言で、彼女の理性はすっかり目覚め、乗っ取られた意識の座から、無意識の悪女を突き飛ばした。
「神様を恨むとしたら、昨日と今日、どっちなんだろうな?」
「エッ……、ア、違うの! ごめんなさい、そんな意地悪なつもりで言ったんじゃないの……」
 『昨日助けてもらったことは、本当に、心から……』しかし、言えば言うほど彼を傷つけかねないことに気づいた彼女は、出かかった続きの言葉を言えなくなってしまった。
 話の接ぎ穂を失い、重い沈黙になりかけたとき、にわかに彼が会話を引き継いだ。
「いや、わかってるさ。きみ●●にそんな気がなかったことくらい」
 この何気なく流した『きみ』という言葉に込められた意味に気づけたのは、世界広しといえど彼女だけであった。彼の言った『きみ』はさっきまでの彼女ではなく、間違いなく今の(生来の)彼女を指した言葉だった。そして、里美はなにゆえ昨日、彼と再会できたことにあんなにも喜びを感じたのか、やっと満足いく答えを得ることができた。高校二年時の彼との思い出があったからである。それもやはり彼への申し訳なさから、思い出を記憶の奥底に閉じ込めたようなものだった。もとより彼女は、高校当時、優秀というよりも他の生徒とは頭の出来が違った彼にとって、自分など歯牙にもかけない存在だろうと思い込んでいたのだ。
 『あの頃の自分は、目立たなくて大人しい地味な子だったから。それより何より、彼は昨日、わたしの名前を口にすることはなかったけれど、わたしのことを一同級生である以上に覚えていてくれたのね』――そのことに里美は喜びを感じた。
 彼女が思い出の回想を入口で留め、われに返ったとき、玉川は野菜を置き去りにしたまま、従業員出入り口へと引き下がるところだった。
 もどかしそうに足を踏み出したが、里美は結局何も言えないまま、その場に立ちつくした。

 自分が店舗内にいるかぎり、おそらく彼は出てこないだろうと察した彼女は、彼の仕事を邪魔したくなかったので、カボチャとキャベツだけを買って、早々に店を出た。声をかけるわけではなく、ただ帰る姿を見せたくて、何度も振り返ったが、やはり彼は二度と姿を見せなかった。店の裏側に出る道を一周回ったが、玉川の姿はなく、さっきのエプロン姿の社員がタバコで一服しながら、今度はメールに勤しんでいた。このときの彼女には、玉川が仕事を一時放棄していることがばれぬよう、この男がもっとその場に居残ってくれることを願うばかりだった。
 メモしたものは何ひとつ買えないままに、彼女は帰宅することとなった。ひどい後悔の念にさいなまれる一方、新たな疑問が次第に膨らみを増しつつあった――『彼は、自分とは違い、成績優秀な生徒だった。大学だって国立に受かっていたはず。それなのに、どうしてアルバイトなんかしてるんだろう?』。
 罪の意識から、悪夢にうなされた次の朝――実際彼女にどんな罪あるのだと言われる方もいるだろうが、会話という表層に留まらぬ心理的な部分で二人はしっかりとわかり合えていたのである――、彼女は同じ時間に彼のいたスーパーを訪ねてみたが、野菜売り場のほか、どこにも彼の姿はなかった。店の人に聞いたところ、彼はその日『休み』を願い出たという。その次の日も同時刻、彼女はその店を訪ねた。やはり姿は見えず、店の人に尋ねたところ、彼は前日の夜に『退職』を申し出たとのことだった。

 彼女はその後、自分のアルバイトの行き帰りを含め、事あるごとに近郊のスーパーを巡ってみたが、彼の姿を見つけることはできなかった。


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