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1――『黒い猫』

〈14177文字〉

 まずはこのことに触れておこう。
 ひどく打ちひしがれた人間は――遠い空はあるものの、行先すべてを高い壁にふさがれた人間は、その者がいくら腕力のない、いじめられた経験を持つ若者であっても(そういう傾向があるのは、男であり、比較的若い人にかぎられる。この『若さ』には精神年齢も含まれる)、ある日突然、全人類に対して、ケンカをふっかけたくなる瞬間が訪れるものだ。これはともすると、女性にはまったく理解できないことかもしれない。あなたがもし、気心の知れた社員同士の会社にあって、その輪に入りたがる煩わしい上司をお持ちの境遇にあるなら、その者の酔いつぶれた姿を思い浮かべてもらえば、多少なりとも近いものが思い描けるかもしれない。これが完全なシラフの状態で起こるのである。
 間違えないでいただきたいのは、中学生や高校生が、他校の生徒にケンカをふっかけるのとは性質を異にする点である。彼らは単に、相手になめられまいとして、かぶいて見せるだけで相手は限定的である。それに大体において、集団性をともなうものだ。
 その点、彼はまったく違う。恐れを完全に断ち切った状態で、たった一人で全人類を相手に『かかってこいよ。やってやるぜ』という気になるのだ。加えて、はたから見て恐ろしいのが、それ●●にこれといったきっかけがないことである。確かに、まったく何のきっかけもなくそんな行為におよべば、それは常軌を逸した、もはや病気としか言えぬものだから、細かく言うとちゃんと理由はある。しかし、よくよく注視せねばならないものだ。それが起こるのは、積り積もった憤りが、ごくわずかでも限界の一線を越えたときである。二五〇グラムと二五一グラムの定型外郵便を手に持って比べて――いや、気象庁が発表する桜の開花宣言を思い出してほしい。標本木に咲いた花が四輪までなら未開花で、五輪目が咲いた時点で開花と発表する、あれに似ている。一般人からすれば、どう違うのかわかりかねるものだ。
 ある女性は、頬杖つきながらこう言い返すかもしれない。
「わたしだってやけになることはあるわ」
 おっしゃるとおり。この現象は『やけになった』状態にも似ているが、製造工程が違うのだから、やはり別モノと言わざるを得ない。繰り返しになるが、きっかけだとするものが、一部ではなく全体にあるから、曖昧になってしまう。この現象は、当人にとっても予測のできない突発的なもので、慣れた人間には『そろそろ……』と感じることはあっても、起こるまではそれがいつかはわからない。明日だったり、一ヶ月後だったり、今日だったりする。思い通りにならず、自暴自棄になるのを『やけになる』とするなら、不本意ながらも自分の意志で、かすかな希望を抱きながら、一歩ずつ地下への階段を下りる。長らく降りたその途中で突然起こりえるのである――『違う! これはおれが考えていたのと、まったく違う!』。もちろん、その過程にもやはり個人差はある。
 そういうことから、爆薬を抱えたような心理状態にはなるものの、劇的な感情変化がともなうわけではないので、彼自身はなんら平素に近い精神状態を保っている。自らケンカを売るなどは反社会的行為であるとも当然認識しており、通りすがりの者が不審な目で見る等、有名芸術家の小品なみに割り高ではあるが、売られたケンカには即手付を打つといった手法が用いられる。
 つまり、ぼくは今、そういう状態で散歩をしている。
 ところで、現実に沿って話を進める前に、今度はここで、かいつまんででも、ぼくという人間を説明しておいたほうがよいように思う。いつからどれほどの憤りを蓄積し、どのようにして鼻息で床ボコリを舞い上げる、一敗地に塗れた人間になったかを理解してもらうためにも。
 学生時代、いいことなんて一つもなかった……。こう切り出しておいてなんだが、ぼくは小学生の頃までは、結構な人気者だった。自分で言うのもなんなんだが、純真を絵に描いたような少年で、成績は常に上位、今じゃあ信じられないが、割に運動もできた。女子の誕生日会にも、何度かお呼ばれしたほどだった。変わったのは六年生の中頃、教室移動の授業の前に忘れ物を取りに、教室に戻ったときのことだ。開いたドア越しに、当時ひそかに好意を寄せていた女子生徒が、クラスいち背が高く、口の悪い女子生徒に、一対一で何事か責められている現場を目撃したのである。理は、好意を持っていた女子にあろうことは、当時のぼくにも瞬時にさとることができた。彼女は頭が良いうえに、性格は奥ゆかしく、ほぼ全員の女子と仲が良く、年頃のため友人にさえ明かすのをためらっている男子にも、意中とする子が大勢いた。相対する女子は過剰な目立ちたがり屋で、誇れるものといえば肩下で切りそろえられた直毛の黒髪くらいで、男子からはあからさまに鬱陶しがられていた。日ごろの妬みから難癖をふっかけていたに違いない。ぼくは、好意を持った女子生徒とだけ目が合った。にもかかわらず、助けに入ることなく、忘れ物を取ることもなく、その場を離れ、理科室へと戻っていった。三角定規は隣の子が使ったあとに借りた。そこから、人生の転落が始まったといって過言じゃない。
 中学に入り、三つの小学校の卒業生が寄せ集められると、ぼくは出来る子と出来ない子との截然たる格差を知り、自分に何ができるか、学級から外向きに社会を観察するようになった。本当に尊敬できる人間、こうありたいと思う人間が、一人も見つからぬ現実……。うざったい同級生ども……。そんなガキたちが成長しただけの世の中……。ある日ぼくは、しつこくちょっかいをかけてくる同級生の男子らに向かって『おまえら全員敵だ』発言をしてしまう。『ほ~う、おまえら全員ってことは、おれらだけじゃなく、このクラス全員が敵だってことだな』『……ああ、そうだ』『ふ~ん、わかったぜ。おい、みんなァ、こいつは今からおれらが全員敵だとよ。早速今日から、挨拶するのをやめよ~ぜ』。この男子との訣別は屁とも思わなかったが、その後ぼくは、異常なまでの自責の念にさいなまれ、同世代の中学生や高校生による自殺記事を読みあさるようになった。
 高校に進むと、もはや誰からも相手にされなかった。そこでも成績だけは優秀だったので、高校が進学校ということもあり、いじめられこそしなかったが、生徒同士の催し物に呼ばれることは、ついぞなかった。大学では、本当に一人の友人もできなかった。そんなものができずに済む一方で、満たされるものも何ひとつなかった。思い出といえば、愚かしい就職活動に奔走する同輩を横目で蔑視し続けたことくらいである。
 ぼくは今も実家に暮らしている。散歩に出かけるのは、気晴らしというより、家に居たたまれなくなるからである。散歩は主に夕方であるが、夜のときもある。夕方どきは帰宅の混雑と重なることもあり、人目を気にしないで済むのは夜だが、そのぶん行く道から危ない目に遭うのが難点だ。無灯火の自転車が突っ込んでくることがある。また、無理やり衆目を集めたくて、わめくように会話する若者もいる。つい先日、これは帰り道で暗くなったときのことだが、公園脇に停めてあった車に男が乗り込むや、急発進して、ハンドルを切り損ねた運転手に、あやうく轢かれそうになったことがあった。
 しかし……しかし、なんで、この胸クソ悪い議員が微笑んだポスターが道路のあちらこちらに貼られているんだろう? 顔がアップのバカでかい写真、しみを隠したドーランがバレバレの顔、漠としたことが書かれただけの、なんら政策も提言も記されてない政治ポスター。なぜこれを、見るものも見られるものも恥じ知らずと思わないのだろう? 最初はもっと、ポスター自体も、その中の顔写真の割合も小さかった。選挙ごと、相手がやったらやり返すように、次々に大きくなり、今では電柱に張りきれないほどのサイズになっている。しかも選挙の期間でもないにも関わらずである。どうしてこんなことがまかり通るのだろう? これを傷つけたり破ったりすると、厳しい罰が科せられるくせに、なぜこれそのものが取り締まられないのだろう? 外国人がこれを見て何と思うか、どうして想像できないのだろう? 『こいつだけは絶対に投票しないぞ!』見るたび、そう思ってくれている市民が、数多くいることを願いたいものだ。
 申し訳ない。思いがけず現実に引き戻されたので、このまま話を進めたいと思う。
 そう――夕刻の今、ぼくは散歩をしている。
 ぼくは歩く際、人の顔を見ないよう努めている。見てどうなるという? たまに目が合って、気まずくなるだけじゃないか。男ならまだしも、若い女と目が合って、鼻息まじりの気安い笑みでも投げかけられたら、ぼくは散歩の行き帰りを、その意味を推し量ることだけで頭を悩ませなければならなくなる。とはいえ、通りすがりの人間なら誰しも、無意識に近い状態で相手の顔を一瞥するものである。一瞥ならまだ許そう。しかし、それが『見る』ひいては『眺める』にまでいたろうものなら許す気にはなれない。普段の状態なら『意味もなく相手の顔を見ることが、どれほどぶしつけか考えて歩けよ』と顔をそむけて相手とすれ違う。それが、今日のような日だと、こうだ。その視線を感じたぼくは、にわかに落とした視線を引き上げ、真っ向から視線をぶつける――というより鎌でも振り上げるように眼差しで襲いかかる。すると大方の人間が、反射的であれ意識的であれ、あわてて目を逸らすものだ。なかにはそれでも、まるでぼくがその人と前世において、現世でのお互いの性別や年齢とは関係なしに、シェイクスピアばりの悲劇を演じたかのような目で見つめ返してくる者もいるが、そういう相手には、唇を薄く引き延ばしてやりさえすれば、あわててわれに返り、逃げるようにぼくから距離を取るようになる。
 そうだ、この場を借りて、みなさんに一つお聞きしたい。
 ――歩道はどこを歩くのが正しいか?――。
 こう言うと、すぐ道路交通法第十条を持ち出すやつがいるが、一切の条件無しに、自ら知り得た情報で、自らの判断のみで答えを導いてほしい。たとえば、横を通る車と同じ向き――順行するように歩道を歩く場合(車道が右側にくる場合)、歩道の右側か左側のどっちを歩くのが正しいかを。
 『どっちもよい』? 『歩道は車道と違って向きが定められているわけではないから』――いや、そういうことを聞いているのではない。自由というものを軽々しく甘受してはならない。車道が規制されるのは、さもないと事故が起き、それがいたる場所で多発しかねないからで、そのため運転手には遵守すべき交通規則が定められている。歩道にそれがないのは(ないし曖昧なのは)、決して安全だからではない。気づかずに、よそを向いたまま、対向する歩行者とぶつかった場合、怪我をしかねないし、特に年寄りの場合、転び方次第では命の危険がともなうことだってある。最近ではジョギングする者も増えた。にもかかわらず、歩道に規制がない――つまり自由が許されているのは、われわれ一般市民が自己の判断で、怪我などすることなく無事に通行できると、その裁量を市民個人にゆだねられているからである。ぼくはそう思っている。だからこそ、勝手気ままに歩道を闊歩する人たちが許せないのだ。せっかく与えられた自由を自ら放擲する行為に他ならないから。
 ん、ちょっと待ってほしい――『おい、そこの教室の隅っこのやつ、聞こえたぜ、『青臭いこと言うな』ってかい。青臭くてなにが悪い? そういうきみだって十分青臭いんだぜ。あとで肩を組んでトイレに行こう。理屈仕込みの香料たっぷりな正義なんてくだらない。そっちのほうがえずいちまうよ。政治家のあいだには腐乱した正義ってのが跋扈しているが、それは正義の死骸であって、生きた正義じゃない。生きた正義ってやつはいつだって青臭い。青臭ければ青臭いほど、強い正義の証明なんだ。たとえば、テーブルの上に光を通さぬ同型同色のコップが三つあるとする。その一つに玉(正義)が入れられ、すべてのコップを逆さにして伏せた状態のまま、どれがどれかわからぬよう振り回される。これがいわゆるややこしい事件というやつ――犯罪と正義は対のようなものだからね。で、この状態で玉がどこにあるかの話し合い(裁判)が始まる。動体視力の良いもの同士が『こっちだ。あっちだ』『ああだ、こうだ』と言ってるが、結局のところ、素人一人近づけて、臭いをかがせてみるといい。抑えきれない、青臭さを放っていれば、それが正義の入ったコップさ。だからこその裁判員制度ってわけ……チェッ、脱線しちまった。申し訳ない。じゃあ、授業を続けるとしよう』。
 頭の中では、様々な状況下で、同時進行的に話しているので、あしからずご了承願いたい。
 オホン――さて、あなたはどっちだと思う? 歩道を安全に(危険を最大限回避して)歩くには、右側を歩くべきか、それとも左側か。しばしでも視線を宙に浮かせて、お考えいただければ幸いである。
 ぼくは、左側だと思う。横を走る車に対して、順行であろうと逆行であろうと、『歩道の左側』を歩くのがもっとも安全だと思う。これは日本の車道が左側通行だからで、右側通行の国であれば、歩道の右側を歩くのが正しいということになる。そうすることで、まずは歩行者同士が歩道をスムーズに往来や追い越しができるようになり、自動車に対しては、自分が車道と順行する場合、後方から来る車と距離を置くことができ、逆行の場合は車に近い側を対面通行することになるが、自ら距離を取ってすれ違うことが可能になる。もっとも、人通りがない場合、歩行者はいつでも壁沿いを歩けばよい(これぞ自由の恩恵である。車道はたとえ対向車がなくとも中央は走れないのだから)。しかし、そちらは特殊なケースで、ここでは一般的な、いかなる場合にも通用するケースについて考える。
 と、ここで、この話題には避けられぬ存在である自転車に関しても一言しておきたい。
 自転車は車両であり、車道の左端を走ることが法律で規定されている。許可する標識がある場合は、歩道を通行してもよいことになっているが、歩行者の妨げにならぬよう走ることが義務付けられている。歩道を借用するのだから、最低限に留めるのが道理というもので、車道側――つまり歩道の右側を走るのが常識だろう。ぼくはよく自転車にも乗る(たまに車も運転する)が、今の日本ではこれらルールがまったく守られていない。特に、厳守すべきもので一番守られていないのは、『逆走』である。車道を逆走するのは危険だから、結果として歩道を逆走するようになる。罪としては当たり前のことだが、自動車が一方通行を逆走する行為と同等と言える――事故が起きた場合、全責任は逆走した側に課せられるであろう――。加えて、その場合、自転車の逆走者は何を思ったか、大抵の者が自分から見て左側を走ろうとする。つまり、車が順行する側から見て、歩道の右側を逆走しようとする。これは車が左通行だから歩道上でも同じ認識ではないかと推測するが、危険極まりないことである。ぼくはよく、逆走する自転車と、歩道の右側を奪い合うはめになっている。恐ろしいのが、彼らは『こっちが正しい』と思っていることだ。一向スピードを落とさず、『なんでこっちに来るの?』という目で睨んでくる者もいる。一方通行を逆走しているという自覚が皆無なのだ。もっとも、ぼくだって、たまに自転車で逆走する罪を認める。ある場所に行きたいとき、順行する側だけ走ると、だいぶ遠回りになってしまうときには、『申し訳ない』と思いつつ、一部区間を逆走することがある。そういう場合、ぼくはすぐにも停まれるスピードで、歩道の中央を走ることにしている(もちろん人通りがない、もしくは少ない場合で、混んでいれば降りる)。歩行者がどこを歩こうと、自転車がどこを走ろうと、いの一番に避けられるよう準備しておくためである(誰かがいれば一番遠い場所に避けて通る)。もちろん、だからといって犯した違反をまぬかれるわけではない。また、通行を許可する標識が見つからずとも、路側帯の狭さや歩道の広さを考慮して、自転車で歩道に乗り入れることもある。しかし、みんなやっているから自分もいいだろうといった責任転嫁はおこなわない。すべては自己の判断と責任でおこなっているし、わずかながら現状に対するアンチテーゼの意味も込めている(つまりはたとえ警察にこの行為を問責されても言うべき言葉はある)。自転車のルールが守られていないのは、利用者側の問題だけではなく、規則の周知徹底がなされていない上に、法規そのものがヨーロッパなどに比べまだまだ曖昧だからである。今の日本の、最もしわ寄せを受けている自転車の交通規制のあり方からして、今後絶対にこれをやらないと言い切れないことも、ここに付言しておく……。
 ともかく、歩行者はこういう(逆走を含めた)自転車も相手にしなければならないのだから、歩行者自身がより安全に歩く場所を心得ておく必要がある。ぼくはその点でも、やはり歩道の左側を通行するのが正しい歩行のあり方だと思うわけだ。さて、ここでさっき触れた道路交通法第十条について述べておくと、その一項にはこう表現されて箇所がある――『歩行者は道路の右側に寄って通行しなければならない』と。ネットなんかでは、これを笠に『歩道は右側通行だ』と決めてかかる人間がいるようだが、『じゃあ、実際に歩いてみろ』、もしくは『ちゃんと但し書きも読め』と言いたい。この法律はおそらく相当古いものと思われ、その法律の制定にいたる過程や時代背景を知らないので、これ以上は語らないことにする。
 実は、こうしてくだくだしく論じるまでもなく、大多数――いや、歩行者の七割程度が、歩道は左側を歩くのが正しいという自然な理解があると、ぼくは実感している。それは、ぼくみたいにほぼ毎日、夕方一時間程度、街を散歩してみるとよくわかる。ぼくは必ず歩道の左端を歩くのだが、向かってくる人は、同じ側を歩いていても、その多くが事前にこちらに道を譲ってくれる。だいぶ離れた段階から譲ってくれるので、ぼくの表情や態度に問題があるというのではない(と信じたい)。しかし、たまに、自転車のときと同様、歩道を歩いているときも、特に車と順行――左が建物側になる場合、前から来る歩行者と、左端を取り合うことがある。ぼくがこうまで長く説いてきたのは、ひとえにこの人達について語りたかったからである。
 この人たちにも歩道の右側を歩く理由があるのだろう――『この次の角を右に曲がるんだ』『車道側は歩きたくないから』『歩道なんだから別にどこでもいいでしょ』等々。真っ向から睨み返してくる人間がいないことから、おそらく道路交通法第十条を持ち出す人はいないと思って間違いないだろう。その中でも、ぼくがすれ違う際に感じた最も多い理由は、『避けている』『道を譲っている』という認識で、建物側に身を寄せて歩いている人がいるということだ(ここでは成人に対してのみ言及するが、小学生や中学生はそれが顕著に見てとれる)。『わたし避けてるから、あんた道の真ん中を歩けば』――そう歩き姿だけで表明してくるのである。たとえ犬を散歩させていようと、手引き車を持っていようと、自転車を押していようと、二人連れであろうと、集団で向かって来ようと、親が子どもを連れていたとしても(杖をついている人や視覚障害と見受けられる人であれば別だが)優位性は変わらないのだから、ぼくは避けない。それが坂道だろうと変わりはしない。ぼくはこの道が正しいと信じるし、わかりやすい例として、車を運転する場合、信号のない交差点などで優先にある側が道を譲っては、かえって危険を招くことになりかねないと知るから。いや……これはうそだ。ごまかすのはよそう。ぼくはただ単に、そのような、他人の身は犠牲にしても自分の身の安全だけは守りたいという身勝手に屈したくないからで、ただそれだけのために妥協しないのだ。しかし、相手も『避けているのだからいいだろう』と譲らない。遠慮したふりして強情を通す。ついには『わたしにはこの道しかない』という態度である。一歩左に避けさえすれば済むという考えは、頭からないらしい。したがって、ぼくが避けるはめになる。ぼくは相手を傲然と睨みつけ、相手は決して目を合わせることなく、顔を伏せるか、もしくは何もない正面を凝視しながらすれ違う。そして、すぐさまぼくは自己嫌悪におちいる……。
 今だって、こんなことを語ってしまったことに対して、ぼくは深い後悔の念にかられている。それでも、なぜわざわざこんなことを恨みがましく言い連ねたかといえば、誰かを非難するとかそういうことではなく、道を正しく歩くことさえできないのならば――言い換えよう、道を正しく歩こうとする者がその道を歩けないなら、正しく生きることなんて土台無理な話だからだ。
 そして最後に、このことを言い残しておこう。ぼくは、夕方ないし夜に、一時間程度の散歩をほぼ毎日するようになって三年近くになるが、悲しいかな、これまで一度だって自分が正しいと思える道を譲ることなく歩き通せたためしはない。
 いつの間にか、ぼくは駅前通りと呼ばれる場所まで来ていた。ここから二百メートルほど先にある航空会社系列のホテルの玄関前にあるサモトラケのニケ像が、この散歩道の折り返し地点だった。
 乗客の多いバスが二台並んでバス停に停車したこともあり、広い歩道が窮屈に感じられるほど、行き交う人の数が増え始め、それでも無理を押して左端を歩いているとき、乱れ動く人影の先に、集団が避けて通る、空間を持ったエリアがあることに気がついた。それは歩道の真ん中で、そのために人波が左右に立ち別れ、通行人同士が鉢合わせになり、流れが滞っていた。そのせいで、ぼくも足止めを食いながら、身体をひねりつつ何人かの対向者に道を譲らねばならなかった。最初はマンホールの工事かと思った。『こんなときこそ、場所を決めて歩けば、人波ごとスムーズにすれ違えたはずなのに』そんなことを、そのときぼくは思ったものである。しかし、歩行者が迷惑そうな顔をするどころか、まったく無関心そうにしているのが不思議だった。バスのドアが閉まり、動き出すと、靄が晴れるように通行人はまばらになった。なるほどこれから帰ろうとする人たちが、目を向けたくない光景がそこにはあった。見るからにガラの悪そうな男二人組が、ティッシュ配りの若い女性に、冷やかし半分からんでいた。
「じゃあさ、ネェちゃん。おれらとカラオケ行かない? おごるからさ」
「ご、ごめんなさい。わたし、仕事中ですので……」
 若い女は助けを求めるように周囲を見回したが、立ち止まる者も、視線を合わせる者さえいなかった。別に彼らを擁護するわけではないが、その見て見ぬふりは薄情や冷淡さというより、男たちがちょっかいをかけるにしても、こんな人通りのある場所ではやれることの限界があるのをわかっているからだろう。仮に、これが裏通りでおこなわれているものであれば、通行人の対処も違ったはずである。もう少し掘り下げるなら、常日頃チラシ配りなどの引き止め行為にうんざりしており、それに比べればつつましいティッシュ配りであれ、そんな人目を引く格好をしていれば、そういうリスクをともなうだろうという自業自得との認識も、自覚こそしていないが通行人にはあったのかもしれない。
 ちょっと思い出したが、とある女性アイドルのひき逃げ事件(過失傷害)で、その様子がまるまる映った別の車のドライブレコーダーが公開されたときのこと、自転車と歩行者が女性アイドルの運転するワンボックスカーにはねられたが(はね飛ばされ骨折を負った)、その場に居合わせて被害をまぬかれた数名の女子高生らが、特に気に留める素振りもなく歩き去ったことに対して、テレビ番組のコメンテーターがひき逃げ事件以上に問題視し、その不親切と非人情に警鐘を鳴らしていたが、非難されるほど、彼女らが無慈悲で冷酷だったかというと、ぼくはそうは思わない。実際その場には、他にも被害をまぬかれた数名の大人がいて、彼女たちより近くにいたその人らがすかさず救護にあたったので、被害の程度も勘案し、若い自分たちの出る幕ではないとの判断で、その場を移動したのだから。惜しむらくは、その判断が瞬間的過ぎたことだ。世の中にはこうなるとわかっていても、一応やる振りをせねばならぬことだってあるのだ。蛇足ついでに、卑近な例を一つ挙げれば、あなたが散歩中、通ったことのない細道を曲がろうとしたとき、周囲に誰も人がいないのに、わざと立ち止まり、『この道大丈夫かな?』という独り言を発したり、無意味な独り芝居をしないだろうか。それはその先が明らかに違う方向に曲がっていたり、行き止まりだったときの羞恥に対する自らの保険なのである。まぁ今の少女らからすれば、そっちのほうが愚かしく恥ずかしいことだろうが。余談ついでに、これと似たもので――無自覚に自己保身を図るケースで、もう一つ、遅れて自分に言い聞かせるパターンもある。車を運転する人であれば、経験はあると思うが、割り込み等つい無理な運転をしてしまったときに、誰もいない車内で思わず口から出る言い訳なんかがそうだ――閑話休題。
 男の一人が、両手を尻のポケットに突っ込んで、前かがみになった。せっかく無意識が殊勝ぶった態度をとらせても、地のはしたなさが出ては意味がなかった。
「その手に下げたカゴと、あっちの紙袋の中にある分を配ればいいんだろ。なぁんだ、あとちょっとじゃん。おれらが全部もらってやるからさ。なんならあとで知り合いに配っといてやるよ。だから行こうぜ」
「そういうわけにもいきませんので……、ちゃんと報告しなければいけませんし……」
 彼女としては『報告』という言葉を用いて、予防線を張ったつもりのようだったが、相手はニヤつくばかりで歯牙にもかけなかった。
「ほら、おれにもティッシュ頂戴よ。なになに、銀行……ローン……つまり、おれたちにこの銀行でお金を借りてほしいわけ?」
 プライベートなことなら拒絶できるが、仕事のこととなるとそうはいかない――若い女はそう思ったのか、ひそかに後ずさる足を止めた。
「わたしは、その、これを配るよう命じられているだけですので……でも、借りていただけるのでしたら、その、お願いします……」
 彼女の挙措からして、仕事として言いつかっているわけではないが、立場上言っておかねばならない気がしたらしかった。仕事をぞんざいにこなしたくない女性らしい。
「じゃあ、今からその銀行におれらを連れてってよ。さぁ、ほら」
「い、今はもう、営業時間は終えていますし……。それに、それはわたしの仕事ではありませんので……」
 もとより期待などしていなかったらしく、話し半分に返事を聞いて、男たちは女の格好をまじまじと眺め始めた。一人など見上げられるように、わざわざその場にしゃがみこんだ。
「へ~、かわいい格好してるじゃん。ちょっと、背後失礼。いい足してると思ったら、ヒュー、生足なんだ」
 彼女は視線から逃れるため、その場で一回転するはめになった。
「なんならよ、おれらがもっとティッシュが必要な場所に連れてってやろうか?」
 ぼくが歩道の左端からずれ、彼らに照準を合わせて、目の前に立ったのはそのときだった。周囲などおかまいなしでいた男の一人が、たじろいだように後ずさって、凝然とぼくを見つめた。
「な、なんだよ、おまえ」
 ぼくは言った――言ってやった。
「こんなところで話し合いを持つなよ。邪魔だろ」
 ぼくの言い分に、二人はおろか女も驚いたようだった。ひるんだ様子の手前の男は、どもり気味に応じた。
「ど、どこで話そうと、おれらの勝手だろ。そ、それに全然、避けて通れるじゃねぇか」
 許されるという意見もあるようだが、ぼくは『全然』という副詞を、肯定に使う人間を好まなかった。
「なんでこっちが避けて通らねばならない。通行を邪魔しているのは、あんたら二人なのに」
 この『二人』という言葉が意味するところを理解したもう一人が、本性あらわに威勢を張って割り込んできた。
「ああ、てめぇよぉ、おれらにケンカ売ってんのか?」
 ぼくはそいつに、首だけ回して視線を振り、ケンカ腰で言い返した。
「売ってない! 単に、『邪魔だ』と言ってるだけだ」
 このときの心境を述懐しておくなら、ぼくはこの公衆の面前で彼らに殴ってもらえることを期待したほどだった。殴った彼らが立ち去ったら、ぼくも遅れて立ちあがり、何事もなかったかのように、なんなら勝ち誇った顔で、その場を離れたに違いない。一つ触れておきたいのは、女がそばにいるから、そんなことを望んだのでは断じてない。すでにぼくの中で、からまれていた女の存在は頭から消え去っていた。
 ところで、一人の切り込み役が現れたことで、周囲の目の色が変わった。状況が変化したからである。『ヒーロー誕生』? そんな場面じゃまったくなく、暴挙が生じる可能性が出てきたからにすぎない。歩行を緩めて事態を見守るサラリーマンが増えてきた。OLの中には携帯電話を耳に当てたまま、話すのを止めて見入っている者もいた――『なんならこの電話を切って、警察にかけようかしら』そんな目つきでもあった。
 最初に声をかけてきた男が仲間につぶやいた。
「おい……行こうぜ。コイツ、頭おかしいんだよ」
 えへん、『コイツ』とはぼくのことだ。
「頭のいかれた××××め」
 表記しかねるあざけりの言葉を吐き捨てると、彼らはぼくの来たほうへ、周囲を睥睨しながら、肩で風を切って歩き去っていった。
 すると、ゆっくりだった時計の振子が、ふいに通常の早さに戻ったかのように、周囲の人たちが前後に動き出した。しばし視線の集中砲火が浴びせられたが、人々の足を止めるまでにはいたらず、長くは続かなかった。
 数秒間、二人の背中を見送ったぼくも前へと歩き出した。と、そこに横から声がかかった。
「あ、あの、ありがとうございます」
 そう言われて、ようやく彼女の存在を思い起こしたほどだった。ぼくは足を止め、直立した姿勢で、相手を見ることなく、顔だけを向けて答えた。目のやり場に困るというほどでもなかったが、彼女のコスチュームを見ないように努めた。
「別に、きみを助けたわけじゃない」
 ほがらかに微笑みかけるとでも思っていたのか、やつらを相手にするのと変わらぬ、ぼくの態度に、女性は幾分たじろいだようだった。
 ぼくが再度歩き出すと、またも彼女に呼び止められた。
「あの――ちょ、ちょっと待ってくださいっ」
「なんだ? こんなときにもティッシュを配ろうっていうのか。大した度胸だな」
 彼女は真っ赤になって否定した。
「ち、違います。その……靴ひもが緩んでますけど」
 本当だった。しかし、まだ完全にほどけたわけではなく、歩くことはできた。今この場では結び直したくなかったので、ぼくは歩き出した。
「……かまわない」
 すると、これまでの受動的な姿勢から一変、すばやく彼女がぼくの前に立ちはだかった。真剣なまなざしで、ぼくを引き止めた。
「いえ、本当に危険ですから。つまずくくらいでは済まないこともありますし」
 彼女はその目で、靴ひもを踏んで足がもつれ、受け身も取れず無様に転んだサラリーマンを見たことがあったのかもしれない。あるいは彼女自身が――とも考えられたが、不思議なことに、ぼくは女性の靴というものに、靴ひもがあるという印象がかぎりなく薄かった。ともかく、ぼくはせめてそこの角を曲がってから結ぼうと思っていたので――それにもう終わった話を蒸し返されたような気にもなり――、内心ムッとしながら、その場にしゃがみこんで、じゃけんに靴ひもを結び直した。ぼくは何ひとつ彼女に貸しなどないと、てんから思っていたので、借りを作ったような気持ちになって腹を立てていたのである。最初はこの女のほうが無い借りを返すために、あえて親切心をひけらかしているのかとも疑ったが、そのしら真剣な態度がそうでないことを物語っていた。結び直すあいだ、なぜか彼女も隣にしゃがみこんでいた。両手を両膝の上に置いた様は、まるでわが子が上手に靴ひもを結べるか確かめるような姿である。しかし、ぼくの想像とは裏腹に、彼女は靴ひもとは別のものを至近距離で確認していたらしかった。
 結び終えたぼくは、立ち上がった勢いのまま振り向くことなく、その場を歩き去ろうとした。と次の瞬間、すぐ斜め後ろから、これまでと明らかに違う、親しみのこもった声が投げかけられた。
「あの、もしかして、玉川君じゃない?」
 右腕右足がそろって前――足が止まるのが早く、腕は遅れた――の状態のまま、一瞬にしてぼくの全身は凍りついた。前を見据えたまま苦しいまでに目を細めた理由は、のちに明らかになるだろう。ぼくはホラー映画で五番目あたりに死ぬ、正体に気づいたさかしらな中年女のように、可能なかぎりゆっくりと振り返った。そうやってホッケーマスクを被った殺人鬼――いや、小首をかしげたまま無邪気に微笑む若い女の顔を見た。初めて視線が交わった。
「ほら、やっぱりそうだ。玉川君でしょう! わたしのこと、覚えてない? 高校で一緒だった……」
 みなまで言われずとも、こちらもすぐに思い当たった。『すぐに』といったが、他意はない。顔見知りが少ないから一瞬で思い出せたのだ。『一瞬で』といったって、ぼくが記憶力がいいからで……もうよそう。しかし、女というものはこんなにも変わるものだろうか。当時の彼女は勤勉な子にありがちな、地味で控え目な女子高生のはずだった。
 なにはともあれ、同窓会にも出席したことのないぼくが、こんなところで久闊を叙するつもりはなかった。ぼくは即座に顔をそむけた。そして、驚きに顔を輝かせる相手に、もう少し現実を思い知らせてやる必要があるように思えた。
「ああ、覚えてるよ。それで、きみはこんなところで何してるんだい?」
 彼女は伏し目がちにうつむいた。今更だが、彼女は薄地のジャンパーこそ羽織っていたが、タイトなワンピースのミニスカート姿だった。
「エッ、うん……」格好の気恥ずかしさもあったようだが、彼女にとっては、その次の発言のほうがもっと羞恥を感じるものだったに違いない。「アルバイト、してるの……」
「ふ~ん。そう……。こんなところでね……。御苦労さま。頑張るんだね」
 ぼくはわざともったいぶって言い、『もういいだろう』と歩き出した。
 だいぶ離れて、三度、彼女が声を張って呼びかけた。
「あのっ、さっきは本当にありがとう」
 ぼくは自分の意志とは無関係に立ち止まった足を無理やり引き上げて、歩みを強行させた。二度は同じことを言わない主義だった。


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