ハル

「違う違う!恋愛関係とかじゃなくってあいつは妹みたいなもんだから!」
「歳は上かもしれないけど、精神的には私が姉であんたが弟でしょ!」

そういうこと言い合ってる男女ってなんだか淫靡な気がする。
そしてちょっとだけズルい気もする。

私は、ハルとの関係を「姉弟みたいな」であやふやにする気はない。
私はハルより9歳も年上だけど、ハルへ抱いていたこの愛情に似た気持ちをそういう言葉で濁すことはしないでおこうと思う。

あの時期ハルのことがとても好きだった。
愛に近い何か。
多分それは愛だったのだろうけど、付き合いたいとか結婚したいとかそういう、次に、未来に繋いでいく類の気持ではなかった。
動きの無い、状態としての愛。

ハルからも同じような気持ちを感じていた。
多分勘違いではない。
短い期間だったけど、私とハルがお互いに向けていたあの気持ちは同質のものだった。
空は青い。ポストは赤い。
信じるとかじゃなく。
ただそうだった。

ハルと初めて会ったのは私が28歳の頃。
ハルはまだ19歳だった。
どちらかといえば童顔で身長もそう高くないハルが巨大なキャリ―バッグを引いて現れた時、全然子供じゃないか!とちょっと困惑した。

外国で育った帰国子女が大学入学のために帰国し、この家で一緒に暮らすことになる。
そう聞いていた私は、どんな子が来るのだろうかと内心緊張して彼の到着を待っていた。

お金持ちの家のご子息で、めちゃくちゃに頭が良い、異国の文化圏で育った男の子。
上手くやれるだろうかと心配していた私にハルは思いのほか人懐っこい笑顔を向け、礼儀正しく会釈をした。

彼は荷ほどきをしながら、出会ったばかりの同居人である私にこう尋ねた。
「ねえ、お茶好き?飲みたい?」
フランクな口調に戸惑うが、そうか彼は外国育ちなんだと納得する。
ハルは大量の荷物の中から大切そうに小さな茶器を取り出して見せた。
19歳の少年の荷物の中に茶器が?
困惑しつつ私は曖昧に頷いた。
「荷物片付いたら淹れてあげる」

その日の夕方、あらかた荷ほどきを終えたハルは約束通り、かぐわしい香りがする中国茶を淹れてくれた。
最初に茶杯に湯を注ぎ温めた後、茶葉にお湯を注ぎ、一度お湯を捨て再び熱湯を注ぐ。
その後蓋をして茶器の上からお湯をかけるという一連の所作は私が初めて目にするもので、思わず身を乗り出してハルの手元を見ていたことを覚えている。

「はい」
にっこり笑って手渡された小さなカップをぎこちなくハルと並んで飲んだ時、ああ、欠けるところのない幸福って、きっとこのことなんだと思った。
そして、ついさっき出会ったばかりの少年に、私は何を思っているんだと可笑しくて仕方なかった。

ハルと暮らしたのは半年ほどに過ぎない。

その間の数多の夜更かし。
カードゲームとお酒。
幾度かの口げんかとチョコバナナクレープ。
微分積分と円周率。
そして数えきれないティータイム。

あの時期私達は小さなお家の中で、幼い子どもみたいに無邪気に笑い転げていた。
外の世界がたとえどんなに過酷でもお家の中は限りなく自由で、限りなく安全だった。

あの別れの日以降、私たちは一度も再会していない。

風の噂でハルは今、日本で官僚として働いていることを知った。

あの夜、いつもの夜更けにハルはこんなことを言っていた。
「将来は海の生物や植物から取れる未知の成分で化粧品を開発して大儲けしてやる」

海を愛するハルの口から出る生々しい言葉に私は笑った。
「ハルの素晴らしい頭脳を個人や一企業の儲けのために使うなんてもったいないよ。素晴らしい頭脳やとびぬけた才能は全体の利益のために使ってほしいわ」
ハルはくすぐったそうに笑って言った。
「全体の利益ねぇ」
「そうだよ!例えばさ、その頭脳で日本の国に貢献してよ!そしたら私すごく安心して暮らせる気がするよ」

もちろんあの他愛のない冗談をハルが真に受けたなんて思っちゃいない。
それでも、なんだか嬉しいのだ。
ハルに任せておけばきっと大丈夫。
そんな風に根拠のない安心感に満たされ、ちょっとだけ肩の力が抜ける気がする。

ハルはきっと今、ハルの愛する人と幸せに暮らしている。
私も私の愛する家族と幸せに暮らしていく。

だけど、いつかやってくる人生の終焉の瞬間。
私はきっと、ハルと暮らしたあの半年間のことを思い浮かべるだろう。
それは多分ほんの一瞬。
ハルという名前も、彼との具体的なエピソードも、それどころかハルという男の子が存在していたことすら忘れていても。

思い出ではなく美しく輝く幸福の概念として私の脳裏によぎり、ほんの一瞬私のこわばった身体を温め私の口元を微笑みの形に変えてくれるはずだ。

そんなキラキラ輝く美しいものを胸に抱えて私は旅立つ。
先に行ってしまった愛する人たちの元へ。



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