川の流れのように
子供は親に恩返しなどしなくてもいい。
それどころか、誤解を恐れずに言うならば、すべての子供は生まれながらに親を怨む権利を持っている。
私の友人は幼いころ母親から、誕生日は祝ってもらうものではないと教わったという。
誕生日は親に祝ってもらうのではない。
親に、生んでくれてありがとうとお礼を言う日だと。
それを聞いた時の違和感は忘れられない。
私はその場で棒立ちになり、どこから湧いてくるかも良く分からない戸惑いとかすかな怒りの気配を自分の胸の内側に感じていた。
お誕生日に、子供が自発的に親にお礼を言うのであれば構わない。
普段から親の愛情を目いっぱい受け取り、自分が幸せであることを自覚している子供が、自分を慈しみ育ててくれる親に感謝をするのであれば、それはそれで美しい姿なのだろう。
…うん?
それって本当に美しい姿なのだろうか?
本当に幸せな子供は、自分が幸せであることなどおそらく自覚していない。
親からの愛情も、慈しみも、きめ細やかな生活全般のサポートも、それは空気のように、蛇口をひねると無限に出てくる水道水のように、存在して当たり前のものなのだ。
親の悩みも苦労もしんどさも、何一つとして知らない。
知らないということは、幼い子供にとっては存在しないということだ。
親は、自分が生まれた時からずっと「親」という生き物で、自分の命よりも子供である自分が大切だという、そういう生態なのだと信じている。
当然、自分の誕生日は祝ってもらうのが当たり前だ。
本来、幸せな子供というのはこういうものだと私は思う。
自分が守られていること、愛されていること、それが実は得難いもので、親の様々な犠牲の上に成り立っていることを知るのはもっと先のことある。
そして、私はそれでいいと思っているし、なんなら一生気づかなくたっていいとすら思っている。
幼い子供が自分の誕生日に「生んでくれてありがとう」とお礼を言う姿はは果たして本当に美しい姿なのだろうか。
子供は無垢に、そして貪欲に親からの愛情をただひたすら受け取るだけでいい。
子供たちは皆、親の勝手によってこの世に生み出された。
「生んでください」と頼んで生まれてきた子は存在しない。
それゆえ、すべての子供は親からの愛情を受ける権利をもっている。
そして親はそれに応えなければならない。
もちろんそれは理想論でしかない。
子供の惨い事件は昔も今も、そして間違いなくこれからも永遠になくなることはない。
子供は親を怨む権利を持っている。
子供だけは、その権利をなんの躊躇も罪悪感もなしに行使してよい。
私は息子を一人生んで育てている。
大切に愛して育てているつもりだ。
私は稀にみる自分大好き人間で、子供より自分を優先することだって多々あるし、そのことに特段後ろめたさも感じていないのだが、それでも有事の際は自分の命よりも息子の命を守ろうとするだろうと確信している。
そうやって、大げさに言えば命がけで愛しているつもりだが、将来息子から恨まれたり、愛情を否定されたりしたとしても、受け入れるつもりだ。
たとえば、うちの息子はダウン症なのだが、物事がもう少し理解できるようになったときに「どうして僕をダウン症なんかで生んだの!?」と言われる日が来るかもしれない(し、来ないかもしれない)。
息子がダウン症をもって生まれたことはもちろん息子のせいではない。
おそらく厳密にいえば私の受精卵が分裂した際のエラーだろうから、私が悪いと言えるかもしれないが、私は自分に否があるなんて露ほども考えちゃいない。
だって私が望んで起こしたエラーじゃないし。
誰のせいでもないこと、というものはこの世に腐るほどあるものだ。
それでも、息子がもしそのことや、全く別の理不尽な理由で私を怨んでも私はそれを丸ごと受け入れたいと思っている。
そして、息子の誕生日には毎年欠かさずおめでとうの言葉で寿ぎ、生まれてきてくれてありがとうを伝え続ける。
それは、今まさに私の両親が私にしてくれていること。
私は幸せな子供時代を過ごした。
それは実はとても幸運なことであったことに、息子を生んで初めて気づいた。
両親はこれまでも現在も、そしておそらくこれからも私を愛し続け、守り続け、心配し続けてくれるはずだ。
私は幸運な子供としてそれをこれからも無垢に貪欲に享受し続ける。
(※まだ両親ともに60代で元気だから言えることなんだけどね。あくまで精神的な話です)
そして、私は私の子供に愛を注ぎ続ける。
見返りなど一つも求めずに、一心不乱にただただ注ぎ続ける。
それは自己犠牲などという類の話ではない。
ただ愛したくて、勝手に愛してるだけだというシンプルな話だ。
そこにギブアンドテイクなんて概念は存在しない。
川が上流から下流に流れ続けるように、一生その流れは変わることはない。
変わらなくていい。
ま、そんなこんな言ってても、親の有難みをひしひしと感じるようになった昨今、子供の頃は照れて言えなかった「ありがとう」の言葉を出すことに躊躇はなくなった。
実家帰省時に、おいしいご飯を用意してもらって「ありがとう。」
時々送ってくれる実家からの定期便(食料や私の好きなお菓子の詰め合わせ)に「ありがとう。」
たったその一言だけで、両親の顔はぱっと明るくなる。
「ありがとうって言ってもらえると嬉しいねぇ」
母が以前そんなことを言って喜んでくれていた。
子供からの、こんな他愛のない一言で親というものは苦労や面倒を忘れ喜べるものなのか。
「恩返し」なんて肩肘張るつもりなんてないが、ありがとうと大好きだよは伝えていきたいなと思っている。
子供なんてそのくらいでいいのだ。
だから、まだ何も話せない福太郎(息子)君。
親孝行とか、そんなこと考えなくていいから。
その代わりいつか「ママとパパ好きー!」って、一度でいいから言ってちょうだいね。
それだけで、確かに苦労も面倒も忘れ、天にも昇る気持ちになれそうである。
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