『眠れる海の乙女』第2話
「へぇ、思った以上に綺麗だね」
室内を見渡しながら、感心している様子の架純。確かに俺が入居する状態の時より壁紙は貼替されていて綺麗になっている。六畳のリビングの一面だけ水色の水玉模様の壁紙がアクセントになっていた。
「……これは、俺の時より綺麗だわ」
「何か言った?」キッチン下の収納を覗いている架純が顔を上げた。
「いや……社長の考えが解らないなってさ」
「……あぁ、おじいちゃん?」
「あれだけ貸さないって言っていたのに、どうして急に貸し出したのかって思ってさ」
リビングの窓ガラスを開けると、昼間の暖かい日差しと風が吹き込んできた。室内の淀んだ空気が一気に外へ逃げていくように感じる。眺望を遮るような高い建物は視界に入らない。この辺りは三階建以上の建物、高さで言うと十メートル以上高い建物は建てられない地域に属しているからだ。
「まぁ、私にとっては都合が良いけどね」室内を一通り見尽くした架純が俺に近づいてきた。
「お前、本当にここに住むつもりか?」
「うん、もう決めた」架純の顔からは迷いを一切感じなかった。
「……そうか」
「ねぇ……どうして、そんなに聞くの?」
「ほら、ここ見てみろよ? バルコニーから顔出せば隣のバルコニーから丸見えだぞ? 防犯上、危ないだろ?」
バルコニーに出て顔を柵の外に出す。左隣の俺が住む部屋のバルコニーが見えた。無茶をすれば簡単に隣のバルコニーに渡れそうだ。
「別に大丈夫でしょ? 隣は隼人君だし。こっちは空き部屋なんだから」
そんな俺の心配も空しく、架純は全く気にも留めていない様子だった。以前からどこか肝が据わっているというか、男勝りな所がある。
「……うーん」
「そんなに隣に住んで欲しくないの?」
「いや……そういう訳じゃ――」本心を突かれた。
「昔の恋人が隣に住むから、気不味いんでしょ?」
いたずらっぽく俺の顔を覗きこんでくる。
「……お前は平気なのか?」努めて冷静に尋ねた。
「別に……隼人君、気にしすぎ。それに私達別れたくて別れた訳じゃないじゃん?」
「……まぁな」
確かにそうなのだが、それだけじゃない男の倫理や道徳に似た考えが、それを拒んでいるように思えた。かつて恋人関係だった女性が突然目の前に現れて、何だかんだあって、ひょんな事から俺が住んでいるアパートの隣に住む事になる。どう考えても、おかしな展開だ。
「ねぇ、これ見て」腑に落ちない俺に架純が手に持っている物を見せた。それは二人にとって懐かしい物だった。
「……まだ、持っていたのか?」色褪せた、鯱のキーホルダーだった。
「思い出だからね……隼人君は持ってる?」
「もっ、もちろん」不意の質問に胸の鼓動が脈打った。
「じゃあ、見せて」
「……えっ? どうして?」
「いいじゃん。ねぇ、見せてよ?」
「……今は持っていない」
「じゃあ、家にあるの?」
「多分な……多分、家にあると思う」
「じゃあ、取ってきて」
「……今?」
「そう、今。隣でしょ? 直ぐじゃん」
「別に良いだろう? 今じゃなくても……」家の室内の光景を頭の中に思い浮かべた。
「もしかして……失くした?」目を細め怪しむ視線を送ってくる。
「そっ、そんな訳あるかよ」発した声が明らかに裏返っていた。今の言葉で余計に不信感を与えてしまいかねない。
「わっ、わかったよ。取って来るから、ちょっと待ってろ」
慌てる様に二○二号室を飛び出し、隣の二○一号室である自分の部屋の扉を開けた。扉が閉まる無機質な音を背に聞こえた後に一息ついた。
わかっている。最初から、どこかにあるか把握している。あんなに大切な物を失くす訳がないじゃないか。
革靴を脱ぎ、目的場所までゆっくりと足を進める。リビングを抜けて、寝室に入り机の上から二番目の引き出しを開けると、すぐに見つかった。架純が見せた鯱のキーホルダーより色褪せる事もなく、色濃く保たれている。恥ずかしさから来る言動だった。
別れた女との思い出の物を、未練がましく捨てられずに持ち続けている。そんな風に思われたくなかった。架純が今でも持ち続けている事は、素直に嬉しかった。あの時の思い出を大切にしている事に。
架純が尋ねてきた時、素直に持っていると直ぐに言える程、器用でもなければ素直になれる程、冷静ではなかった。気分は高揚して架純と店で会ってからこれまで、どれほど興奮していただろう。
会いたい……いつか会いたい。
そんな事を常に胸に抱き続けていた。それがこんな形の展開になるなんて、誰が予想できただろう。本音を言えば、隣に住んで欲しいに決まっている。だがそれを、欲望のまま肯定し続ける事が結衣達に好奇な目で見られる事を避ける為、敢えてあんな言動をした。
キーホルダーを手に取った。そろそろ探し続けた結果、ようやく見つかったと演出する時間にはちょうど良いだろう。短すぎず、長すぎずの時間。
革靴を履き直して玄関扉を開けると、目の前の廊下に架純が立っていた。
「どう? 見つかった?」
「……ほら、ちゃんと失くしていなかっただろ?」少し芝居じみただろうか。若干の息を切らし、呼吸を整えるフリをした。架純の顔の前にキーホルダーを掲げる。
「……良かった」俺が持つ思い出のキーホルダーを目にして、感慨深げに吐露する架純。それを見た俺は、妙に芝居じみた対応をした事に胸が締め付けられる想いになった。もっと素直に大切に持っていた事を架純に伝えていれば、また違った表情を架純が見せたのではないか。
「あっ、当たり前だろう? 俺だって大切な思い出だったんだから……」
そうは言ったものの、照れ臭さが勝って正面に立つ架純の顔を見る事が出来なかった。
「隼人君さぁ……」
突然架純が一歩後退して俺の全身を品定めするように、まじまじと見つめだした。
「なっ、なんだよ?」
高揚した感情が静かに冷めていく事を感じて白け始めた。
「スーツ、似合うね」
「……それ、今言う事?」
「いいじゃん。思った事を思った時に言う事って、大事だと思うけど」特に悪びれた様子を見せず、架純は踵を返した。
「おいおい、どこ行くんだよ?」
「えっ? 店に帰るんじゃないの?」
そうだよな。物件の案内一件だけで時間をかけると怪しまれるし、今は仕事中の身。しかも店から近い場所。
「早く戻ろう? 結衣さん達が心配するから」架純は足早に階段を下って行った。
店に戻ると、架純は結衣と正和に賃貸借契約を結ぶ旨の意志表示をした。これから先の話は賃貸を担当する結衣に任せる事になる、俺はお役目ごめんだ。商談テーブルでは架純と結衣が契約日の日程調整や必要書類の案内と、引っ越し日はいつ頃にするのか等、具体的な話をしている。俺はデスクワークを勤しみながら、聞き耳を立てていた。
「そんなに気になるの?」
背後から突然声をかけられて驚いた。振り返ると小百合が、にやにやと俺を見下ろしている。
「お友達がお隣に住むなんて、楽しくなりそうね。ふっふっふっ」
「どっ、どうかな? いろいろ大変そうだけど……」努めて平常心で返したつもりだった。
「二人が単純なお友達の関係に、私には見えないのよね」
小百合が見下ろす目には全て御見通しよと言わんばかりの圧を感じた。高圧的なものではなく、人生経験から得た力や優しく人間としての器の広さを感じる暖かいもの。
「まぁ、仲良くやりなさい……ねぇ?」俺の肩を軽く叩き、小百合が去っていった。御見通しかと自嘲していると、どうやら商談スペースにいた二人が打合せを終えたようで席を立っていた。俺も立ち上がり、二人の元へ歩み寄る。
「引っ越しは今月中にやりたいって」結衣が俺に報告した。
「そんなに早く? 随分、急だな」驚いて架純に尋ねると「善は急げって言うでしょ?」と得意気に答えた。
「とりあえずお隣さんになるから……宜しくね」架純が右手を差し出した。あの時もこうして別れる際に互いに握手を交わした。それからまたこうして再会をし、今度は住まいが隣の部屋同士になる。人生何があるかわからない。
「引っ越し日決まったら、教えてくれ。手伝うよ」差し出された右手を握り返した。
「本当? 助かる……あっ、そういえば隼人君。番号変えた?」架純がスマートフォンを取出して尋ねてきた。
「……あぁ、高校卒業してから変えたな」
「そっか、だからか……」俯きながら架純が呟き「ねぇ、新しいの教えてよ?」と架純がスマートフォンを振って見せた。連絡先を架純と交換し合い「引っ越し日決まったら、連絡するね」と言い残して架純は店を後にした。
架純を結衣と並んで見送り、駅に向かう架純が遠くに見えなくなると隣に立つ結衣が呟いた。
「ねぇ、隼人君?」
「……はい」
「タピオカ……忘れてないよね?」
「……忘れました」
完全に失念していた。息を飲み、結衣の顔を見ると口角が上がり、目尻は吊り上がっている。俺に尋ねた優しい語気と顔の表情が噛み合っていない。
「ごっ、ごめんなさい」
こんな事は初めてだった。今まで架純に意識が向かっていて等の言い訳は、結衣の前では無意味。かといって今更買いに行った所で無意味だ。結衣は気分屋だから催促された時点で、すでにそれを欲していない。
こんな時の対応は――。
「今度もっと良い物、買ってきます」
僅か数秒の間、考え得る精一杯の返しだった。
「……なら、良いわ」
渋々納得したような表情を浮かべて店内に戻る結衣。なんとかこれ以上、結衣の機嫌を損ねる事はなかった。結衣に目を付けられたら、何かと面倒だし、ましてや事務員を敵に回したらここで働く事に支障をきたす。
そして、ふと気づいた。結衣に弁解した言葉は、自分の首を絞めた事になる事を……。
「……タピオカドリンクより良いやつって、何だよ」
俺は再び悩む事になった。
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