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親に内緒だった受験の話

子どもの頃の夢は「保母さん」だった。
(「音楽の先生」や「お母さん」と、答えていた時期もあったけど。)

歳の離れた弟や近所の小さな子ども達の子守りをする機会が多かった(遊んでもらっているだけとも言う)ことと。
「ねむの木学園」の宮城まり子さんの著書をきっかけに、障害のある子どもの療護施設で働く保母さんになりたいと、漠然とだけど思っていた。

大学入学資格検定(今の高等学校卒業程度認定試験)を受けた後、進学先を調べるため、図書館に行って。保育や福祉を学べる短大や大学を調べてみた。

まず学費の高さに驚愕した。とても自分でなんとかできそうな金額ではなかった。奨学金のことも調べてみたけれど、ほとんどは入学後の申請で、成績要件などもあったので、その時点で使えるかどうかわからなかった。入学後の生活費の問題もあった。

新聞奨学生についても調べたけれど。実習のある学科で、学業との両立はとても無理そうだった。
小学高学年くらいの時期に、新聞配達の仕事がしたくて(小学生のできる仕事=新聞配達の時代だった)させてもらった(親の会社の新聞配達についてまわった)ことがあったけど、毎日の早起きは大変で、1ヶ月も続かずに挫折したのを思い出した。
わたしには無理だと思った。

それ以前に、受験して合格することが、無理なんじゃないかと思った。
通信制高校に在学していたとはいえ、最低限の条件をクリアして単位をとっているだけで、実質的な勉強を何もしていないのは、自分が一番よくわかっていた。

周囲に准看護学生の知人が多く、情報も多かったこともあり、働きながら学べる看護学校への進学に心が傾いていた。

保育の資格取得は、半分あきらめかけていたある日。
県内に新設される、保育福祉系の通信の専門学校の案内を見つけた。通信制の大学と併せて通うことで保母資格取得が可能らしい。
資料請求し、あとは願書申し込みだけとなった時、親の承諾が必要ということがわかった。

親とは別生活だったので、進学の相談をしたことはなかった。
そもそも、大検を受検したことすらろくに伝えていなかったので、親はわたしが進学を考えていることすら知らなかったと思う。
まずは、観測気球をあげることにした。

「○○の専門学校への進学を考えている」と父親に話すと、「そこはダメ」と、猛反対される。
せっかく自分で進学先を探したのに。何で反対するんや…と怒り半分。じゃぁ「大学か短大に受かったら、学費出してくれるの?」ときくと。
絶対に受からないと思ったのだろう。
「それなら出してやる。」と、ふたつ返事で言われたので。
それなら受験してやる。(心の声)と、短大受験を勝手に決める。(ぉぃ)

勝手に決めてはみたものの。
リサーチした短大(大学)の受験料はどれも高かった。当時のわたしの1か月の生活費と変わらない。
落ちてそれほらと言われるのが嫌だったので、受験することは誰にも内緒にしていたから、親に頼ることはできなかった。
熟考に熟考を重ねて、受験校を1校に絞った。

そんなこんなで、わたしはにわか受験生となった。受験はもう目前だった。わずか1週間の受験勉強。何を勉強したらよいのか皆目見当がつかなかったわたしは、知人に頼ることにした。
ほんの少額の謝礼を持って、知人(塾の先生)に、これだけしか出せないけど、教えてもらえませんかと頼みに行った。受験直前は、受験校の近くに住む知人(高校の先生)宅に泊めてもらって、受験に臨んだ。(今考えたら、なんて無茶な…。協力して下さった皆様。すみません。ありがとう。)

受験科目は、国語が必修で。選択科目には数学を選んだ。(覚えることが多すぎる他の科目は、到底間に合わないと諦めた。)
小学の時、一番好きだった算数なら、なんとかなるかもしれないと甘くみていたわたしは、過去問を見て、激しく後悔する。
学校できちんと数学を学んだのは中1まで。
そういえば三角関数がどっちを向いているのかも知らなかった。

受験当日、まわりはみんな制服で、私服だったのは、わたしひとり。
めちゃくちゃ浮いているような気がした。
もう絶対、不合格だと思って、ひとりで勝手に落ち込んで、看護学校受験の準備をはじめていたところに、合格通知が届いて。

そしてわたしは短大生になった。

2年後、短大を卒業して、大学に編入するのだけれど。
これまた誰にも相談せず。親にも合格したあとの事後報告だったから…。
イヤすみません。申し訳ない。(^^;;

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