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成績にとらわれないという生き方ってことを語ってみたりする。

Twitter見ていて、
ですよねーと思うこと。
でもって、
ま、それでも人は
なんとかなるから
そっちの方向見ませんか?
と思うことを
ちょっと書きます。

支援級に在籍すると
成績がつかない。

・・・って、
私が知ったのは
美沙が中学から
支援級に入級してからのこと。

いや、
おそらく、入級前に
先生からきちんと
説明があったはず。

というか、
薄々知ってたのが正解かな。

でも、いざその成績を
もらってみると
当たり前っちゃ当たり前
・・・なんだけども。
納得いかないっちゃいかない。

美沙は主要5教科は
支援級で受けて
専科教科は
交流級で受けていたので
5教科の成績は
斜線だった。

受けてないからね。

でも。

人の話はきちんと聞けるし
やることだって
説明を丁寧にしてもらえたら
みんなと同じように、
できることはあっただろう。

最初はみんなと一緒に
理科や社会は
やる予定だったけど、
早々にギブだとなり。

ただみんながわかることが
理解できないという理由。

でもそれが
我が子をなんだか否定されてる気分
になる。

授業受けてないから
当たり前だけど。

そうなるんだよね。

そりゃ、しょうがない。

でも、なる。

親だからねえ。

っていうより、親である私自身が
がっつりそんな世界で育ってきたから。

評価されてなんぼな世界で
育ってきたからね。

とはいえ、
支援級には
いろんな先生が教えに
来てくださっていた。

帰ってくれば
交流級での話だったり
いろんな先生の話だったり
部活も普通にやっていたので
部活の話だったり。

まぁそりゃいろいろあったけど
楽しそうでね。

とはいえ、
頑張ってもできないことを
評価されても
本人はしんどいだろう。

でもって、
そんな評価される生活を早々に
手放して正解だった。

先に手放していたのは
美沙だったけどね笑

本人は帰ってくると
やりたいことを
あれこれやっていた。

布で小物を作ったり
絵を描いたり
貼り絵したり
切り絵したり。

あはっ
今の仕事にきちんとそれ
繋がってるわぁ。

ってほどに
机の上に
いろんな材料が
乗っかってあります笑笑

(現在美沙は美術教室の先生として
 絵だったり工作を
 子どもたちに教えています)


途中みんなと一緒の
高校に行きたいとなったけど、
やっぱりギブだったし。

学習面で評価されないことが
こんなにも楽なんだなぁと。

でも。
楽しそうに学校での出来事を
話しているのを聞いていると、
おそらくこの人は
あの中学校の誰よりも
学校というものを
楽しんでいるんだなぁと。

なのに成績つかないからって
みんなと同じ学校に行けないって
なんだかなぁ・・・とは思った。

今のような形の
公立の高校
=支援級もあって
勉強したい場所を選べる、
だったらいいのにね

なーんてよく思ったけど。

ま、当時はそういうわけには
いかなかった。

で、通信制の高校へ。
で、普通に成績がついていて
びっくりしたのよ。

それも決して悪くない。

きちんと通えていたし、
授業はまじめに受けていた、
というのも大きいかな。

そこから絵を極めたいと
横浜美術大学へ。

AO入試で見事合格。

ほんと、びっくりしたけど。

で。
合格した後に
療育先の先生に
私は何度も
「美沙は大丈夫でしょうか?」と
確認していた。

先生はその度に
「大丈夫ですよ。
美大だから絵がメインの
生活になるから」

そう言われるたびに、
そっかぁ。
そうなのかぁ。
と思うけど、
美大の生活なんて
よくわかってなかったから
そりゃもう
不安でしたのよ。

で、いざ入学して
授業が始まるとね。

確かに西洋美術史だったり
コンピューターの
プログラミングだったり
覚えなきゃいけないもの、
それもカタカナメインだったりすると
まぁ結構な確率で
とんでもない単語の羅列が
並んでいたりしたけど。
(カタカナを書き写すのは至難の業)

それすらも乗り越え、
3年、4年生ともなれば
全ては絵の時間となるため
あの不安も稀有でした。

そして何より・・・
あの評価ってなんだったんだろう。

そんな私の小さな世界を
大きく覆すほどに
大好きな絵画という時間で
先生にはなかなか取れないよ、と
言われていたAAを取ってるわけで。

評価されなくても問題ない。
そんな美沙を見てきたからこそ
思うこと。

ふつうの学校生活で
もっともっと
自分の好きを、
自分のわかる方法を、
先生の評価に左右されることなく
その子のやり方で
貫いちゃっていいんじゃないかな。

それじゃいい成績取れないよ。
いい成績取れなかったら
行きたい進路には行けないよ。
って、そのスタイルを見た
誰もがいうかもしれないけど。
特に大人がね。

子どもは自分のやり方を
きちんと確立できると
本当に好きなものが見つかったら
自分の好きなやり方で
それを学んで表現する。

という絶対的な証拠は
美沙の中学での斜線の成績から
大学のAAという成績が物語っている。

学校という世界は
評価というものがある。

でも、本当にそれを
信じて、
この成績をとってるから
こういう方向で、
となることで
見失うことも
結構あったりするよね。

でも、私は
学習面の獲得方法は
個々それぞれに
いろんな方法があって
みんながみんなそれをやってると
信じていたから
それをできない自分は
どうなんだと
勝手にずーっと思っていたけど。

そんなことなかったんだなと
気づくことも
やっぱり自分で
獲得していくしかないことだと
思ったりするの。

ええ。
大人の方が
めちゃくちゃ縛られていた分
結構そんな伸び代
あったりするのよ。

私、文章書く時って
頭で考えることなく
感覚でバーっと
書くので
あまり困ることって
なかったんだけど。

こういうnoteだったり
インスタだったり


Twitterだったり


facebookだったりは


本当に自由にのびのび
つらつら
さほど時間もかからず
出てくるままに任せて
書けるんだけど。

ところが
仕事で上司に
何かを口で説明しなきゃ
いけない時って
頭で文章考えちゃうので
言葉が出てこないんだわね。

出てきても
トンチンカンな説明。

忙しい時
本当に困るんだな。

それを伝え聞いている
上司はもちろん、
あゞと思いながら
一生懸命言葉を探してる私も。

それもめっちゃ忙しい
お客さんが
ズラーっと並んでる
レジという仕事の最中に発動する
ってことがさらに
ややこしくしてるわけ。

というか、
脳の使い方が
明らかに違う。

同じ言葉を
発することでも
こうも違うことなんだな。

なーんだ。
そういうことか!

という、
小さな謎が解けるだけでも
スッキリ。

けど、それすらもまた
味方を変えると
クリアにできるもの
だったりするかもね。

なんでそれができないの?

には必ず理由があるし、
それを簡単に説明できないものを
各自持って生まれてるわけで。

人ってそれだけ精密に
作り上がっているもの
なんだと思うの。

そりゃ、神秘なんだよ。
神様から託された
そう簡単には解けない秘密。

それがたまたま
聞かれてる正解に
当てはまらないだけであって
こちらの答え方に
照準を合わせれば
ちゃんとできることもある。

だから
やっぱり大人が
学習面の成果に関して
価値観変えることが
これからますます
本当に大事なことだと思うの。

ってなこと
このnoteに書いてみた笑

でね。
先生が求める
ノートテイクの方法に
合わせるのではなく
その教室にいる
我が子が求める
ノートテイクの方法に
ぜひとも合わせてあげてほしいな。

“「長文を書いて、がんばって理解する」ではなく、
「楽しく、パッと見て理解できる
ノート」を。”

ノートテイクはこれでいい。

先生に見せて評価を
もらうためじゃない。
自分のためのもの
だと思うのです。

自分の評価は自分でつけたらいいよ。

お友達のタノ先生が書いてるnote、
よかったら読んでみてください。
そしてそこにある動画も
見てみてください。

美沙が現役の頃に
知りたかったなぁ。
いや、私が現役の頃に
知りたかった価値観だな。

そういえば、
美沙は自分の好きに
こうやる方が
覚えられるっていう方法で
ノートテイクしていた記憶。

それが見えやすいか
見えにくいか。
決めるのは書いた本人であって
それを読む人なんかじゃない。

親がそうでも
子はそうならない。

斜線の成績を取る人でも
ちゃんと自分の方法を
得ているからね。

よろしくお願いいたします。

今日もここまでお付き合いくださり
本当にありがとうございます。

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