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「わかり合える」の前提はなくてもいい

わたしはコミュニケーションじゃなくて通達しかしてなかった。

聴者の奥さんと、ろう者のだんなさんのYouTubeをみていて気付いた。
https://youtu.be/5dWh989cWm4

ふたりを見ていると目を合わせて、身体もなるべく向き合ってコミュニケーションを取っている。



わたしは、こどもたち、夫と、
どんな風に話してるだろう‥‥


目も見ないで、その人がどんな状態かも認識しないままにこちらの言いたいことをただ「放っている」時が多いかもしれない。 そこには「家族だから」という“甘え”がまずあって。 耳が聞こえる、目が見える。という“甘え”もある。 それぐらいわかるでしょ!察してよ!という自分本位な考えもある。


これは少しショックだった。


コミュニケーションはいつだって私たちを悩ませる

・わかってくれない
・聞いてくれない
・伝わらない

そんな風に感じてしまうことは多い。
そしてそれに憤りだったり、悲しさ、苦しさを感じることもある。

でも相手に求める前に
「わたしは伝わるように伝えていたのかな?」という大前提を疑ってみる。

今まで出来ていなかったという自覚がある。そのせいで誰かを傷つけてしまっていたかもしれないな~と思う。「誰か」というのは子どもたちや夫、両親、兄弟、友人。

そして自分自身。

今朝は試しに、しっかり目と身体を向けた。

こどもたちと夫の目を見た。身体も向けた。
なんと!それだけでうれしそうなこと!

末っ子娘6才は幼い分だけ、わかりやすくご機嫌になった。
その後も「かーちゃんみてみて!」とうれしそうに、いつもは残す野菜スープをきれいに食べきったことを報告してくれた。

その時わたしは2階に居たのだけど、2階まで来てくれた。空っぽのお皿を持って。
よっぽど嬉しかったんだと思う。
よっぽどこれまで聴いてあげられてなかったんだと思う。


これがコミュニケーションだよね。
投げて、受け取って、また投げて。


一方通行に投げるのはコミュニケーションじゃない。なんだろ、ただの通達?わたしは通達じゃなくて、コミュニケーションを取れる人間でありたい。

相手が受け取れるボールを投げたい。
できれば、心地よく。受け取りたいと思うボールを投げたい。

想像力が気づきをくれる

わたしは目が見えます。
わたしは耳が聞こえます。

当たり前と思い過ぎているこの事実。
だからこそ全部が散漫になっている感覚がある。

耳が聞こえるから、目を見て話さない。
目が見えるから、適当に聴く。

目が見えること、耳が聞こえること。もちろんそれは有難いし手放したくない。そして本当の意味で目の見えない感覚・耳の聴こえない感覚を自分のものにするのはわたしには難しい。どうしたって見えてしまうし、聞こえてしまうから。


でも想像することはできる。もし耳が聞こえなかったらどんな風にわたしは話すだろう。もし目が見えなかったらどんな風に聴くだろう。


「わかり合える」の前提はなくてもいい

わかり合えない。それでいいと思う。

わかり合える!と思い過ぎるとわかり合えないことに苦しくなってしまうから。そしていつの間にか相手を嫌いになったり拒絶したりしてしまうから。

分からない部分もあるけど、わかりたいと思っているよ。
分からない部分もあるけど、それでいい。
分からないけれど、何も変えなくてもいいよ。

自分と「違う」というのはちょっと怖さを感じるし自分からはなかなか近づけない。人間は本能的にそういうものなのかもしれない。自分と違うものはキケン!そんな信号が脳内で何かの物質としてでているのかもしれない。


だから、自分の意見を肯定されるとうれしいし、否定されると悲しい。


それでも、なぜそう思うの?そうか~そう思うんだね。


みんなが自分の気持ちや想いをふわっと包むように大切にする。
相手の気持ちや想いもふわっと大切に受け取る。


そんな世界になればいいなと思う。
どうでもいい気持ちや想いなんてないから。

というわけで、わたしはきょうもせっせと目を見て、身体を向けて家族とたくさんコミュニケーションを取るのでした。

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