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ハンプティ・ダンプティを戻せない

僕は君に送る最後の手紙の中に、
はつきりこの心理を伝へたいと思つてゐる。

尤も僕の自殺する動機は特に君に伝へずとも善い。

レニエは彼の短篇の中に或自殺者を描いてゐる。
この短篇の主人公は何の為に自殺するかを彼自身も知つてゐない。

君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであらう。

しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示してゐるだけである。

自殺者は大抵レニエの描いたやうに何の為に自殺するかを知らないであらう。それは我々の行為するやうに複雑な動機を含んでゐる。

が、少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。
何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。

君は或は僕の言葉を信用することは出来ないであらう。

しかし十年間の僕の経験は僕に近い人々の僕に近い境遇にゐない限り、僕の言葉は風の中の歌のやうに消えることを教へてゐる。

従つて僕は君を咎めない。

芥川龍之介/『或旧友へ送る手記』より。

「死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。もう死にます。死にたいんです。あたし死のうと思うんです」

人の首を絞めたことがない。
当たり前だ。

首。
言うまでもなく、それは人体の急所である。

折って良し、縊って良し、裂いて良し、と。
外気に晒されることが多い部位であるにも関わらず、首は生物の致命的な弱点としてよくよく挙げられる。

そんな有り様に、人の心は心の臓ではなく首にこそあると唱えた人さえいたほどだ。

そんな首を、他人の首を、なんと締めたことがない。

モラリズムを搭載した不出来なマルキ・ド・サドである僕は、時にそんな暴力的な思考に侵されることはあれど、そんな自分に恐れ戦いては省みる他ないからだ。

だって他人への暴力は最悪だ。

掌で頬を張り、拳で面を殴り、腕で首を折り、肘で腹を打ち、脚で腿を蹴り、そして鋏で喉を突き刺す、か?

馬鹿馬鹿しい。

そんなことをしても得られるのは一時的な開放感だけだ。リスクとリターンとが見合わないのは誰の目にも明らかであり、その行為はまるで合理的とは言えない。

感情の、感情による、感情のための行動。
それこそが暴力だ。

それを最悪と断ずるのは法治国家の下で生きる市民としては当然であり、その手段を最悪と判ずるのは必然だ。

したがってこれ以上の議論の余地なく暴力は最悪だ。

最悪だが、深夜3時半過ぎに無遠慮な着信に睡眠から叩き起されてみると、自分の倫理観の高さを恨むような気分になるのははたして無理もないと思った。

2024年8月2日金曜日。
つい先月である。出張先での連勤中のことだ。

それは実弟の交際相手──本エッセイの第5回を参照──である美澪みれいちゃんからの電話であった。

本来この五倍は通話開始より”死ぬ”という単語を口にしていたが、彼女が不貞腐れた調子で同じ言葉を繰り返したという事実が伝わるならばそれで良い。

「……ごめん。僕、寝起きだから空返事になるかも」

「聞いてくれないんですか? 義妹候補いもうとからのSOSを無視するんだ。あ〜〜 ぜんぶやんなっちゃった!本当に死んじゃおっかな〜〜」

「聞くよ。聞くから。聞くは聞くって。ただ寝起きだからさ、頭整える為に15分だけ貰える? 顔も洗いたいし」

義兄おにいさん 寝起きはそんな声なんですね。元から低めですけどダミ声だダミ声。私も彼と会えない休みの日は風呂で抜いてばっかいますね。その後の寝落ちから起きた時は、大体そんな声になってます」

「うるせぇよ」

通話終了。

「ふっざけんなよ…………」

俯せのままに恨み言を口にする。

しかし猶予は限られているので、頭と身体を切り替えて浴室へと向かった。小綺麗な洗面台。持参したフェイスクリームを手に馴染ませ、なんならもうそのまま朝風呂にも入りたい気分だったがそれは許されない。

どのくらいの時間の通話になるかは分からないが、
きっと終わる頃には大浴場が空く頃だろう。

アパホテル──この時宿泊していたのは京成成田駅前店である──に泊まるのは、なにも初めてではない。

事前に諸々の時間的都合は把握していて、だからそういう意味ではちょうど良かったのかもしれない。ただ長く眠れるならば それに越したことはなかったので、どちらかと言えば不幸中の幸いなる表現が正しいように思う。

洗顔しながら考える。

ここ数ヶ月は美澪ちゃんと顔を合わせてはいなかったが、通話の機会はたびたびあり、なんでも春から弟との折り合いが悪いらしいとは聞いていた。

長期の二股、離別後即時結婚、相手が交際済、と現在進行形で散々な恋愛経験を積んでいる僕である。

そんな男に恋愛相談を持ち掛ける判断には疑問の余地があったが、建設的な意見がなくとも聞いてくれるだけ有難いということもある。僕もまた自分が抱える恋愛事情を彼女に聞いてもらっているためにお互い様だ。

しかし、死にたいという普遍的な願望を彼女がそのように口にするのは珍しいことで、だから弟の件とは別件の希死念慮なのかと思ったけど……いや、駄目だな。

とても無駄なことを考えている気がする。
何故ならば、それこそ本人に聞けばいい話なのだから。

言い方や態度がどうあれ、相手が本気で悩んでる可能性があるのだから真摯に応対するべきだ。そうは思うけれど、ほんの少しだけ億劫だとも思うのは僕の性根が薄情で冷徹だからで、そんな自分が人として情けなかった。

思索によって。
自分の人格的瑕疵に後ろめたさを感じる羽目になったので、僕はかぶりを振って、再び切り替える。

こういう時はたとえばの話をしよう。

たとえば電話の主が恋慕う──例の”彼女”だとする。
一も二もなく四の五の言わずに居住まいを正して、耳と心を傾けるだろう。足りない頭を捻り、無責任な言い回しはせず、自分が言えることを口にするに違いない。

でも、それは電話の相手が彼女だからだ。

人間の本性は、無関心な他人にどんな対応を取るかという俗説がある。一理あるだろう。程度の差。打算的な思考に基づく行動を優しさと呼ぶならば、それは同時に、対極の言葉である残酷さとも呼べるに違いない。

往々にして人間とは、自分の残酷さに対してどこまでも鈍感な生き物だ。だからこそ良心を見失って、その残酷さを振るうと決意すれば、人間って奴は ”度が過ぎる”。

一線を越えてしまう。

嫌な考えがぎる。

それならば、好意が消え去ったとして、僕はその時 彼女にさえも残酷なことが出来てしまうのだろうかと。

あれだけ好きだったのに。
あんなに好きだったのに。

もうこうするしかないからと自分を都合よく正当化して、人としての普遍的な優しさを喪失するのだろうか。

「出来るでしょうね。██が良い例よ。あれだけ好きだったのに、あんなに好きだったのに、アンタはその大事にすべき思い出を大多数の人間に詳らかに開示することを選んだ。まるで彼女と別の男だけが悪いと思えるような書き方で。そこに当時の彼女を恨む気持ちがほんの少しでもなかったと言えるのかしら。自分に落ち度がなかったとでも? 自分に間違いがなかったとでも? 愚かね。本当に愚かだわ。被害者面も大概にしなさいよ。あのエッセイには、全員が被害者であると同時に全員が加害者だったという意識が抜けている。全員。全員が悪いのよ。恋愛事のいざこざなんて大抵そんなものなのに」

現在自宅で留守番中の彼女ちゃんならば、きっとこんな風に、僕の戯言を一刀両断に切り捨てるだろう。

被害者面も加害者面も間違いなんだと。
お前が傷付いたように、お前もまた傷付けたのだと。

被害の疼痛と加害の責任から絶対に逃さないと。
澄ました顔で他人事にするなんて絶対に許さないと。

死ぬまで許さない。
殺すまで許せない。

……生憎だけど、それは僕には理解できない感覚だ。
人は悲痛な被害者という助走期間を経て非業の加害者になり得るという言葉があるが、復讐は何も生まない。

何も産まず、何もかもを壊すだけだ。

「まさか自分を聖人君子だとでも思ってるの? パンを身体と云い、ワインは血液だとでも云うつもり? 自尊心が強くて羨ましいわね。なるほどなるほど。つまりアンタは倫理意識が高く、他罰的な姿勢を嫌い、誰に対しても誠実であろうとする立派な人間だと。へぇ。偉い偉い。凄い凄い。全人類が見習うべき御立派な心掛けね。アンタを尊敬するわ。アンタを敬愛するわ。アンタを賞賛するわ。アンタを賛美するわ。アンタの肖像画を描いてあげる。アンタの偉人伝を書いてあげる。アンタの青銅像を建ててあげる。一人分の拍手を高らかに送ってあげる。個人を讃える聖歌を清らかに歌ってあげる。やれやれ、聖人に至る道もきっと遠くないわね──でも、それは本当にアンタがその額面通りの人間ならの話だけど」

あのハスキィな声音で。
最適な拍節の為に選び抜かれた日本語の数々を用いて、その皮肉を嬉々として流暢に口にするだろう。

ケミカルを齧るような、どこか違和感のある世辞の嵐。人を小馬鹿にすることを目的とする淀みのない言葉は、如何に彼女がアイロニカルな人間であるかを物語る。

人間というか、まあ、幻覚なんだけど。
あの幻覚が言いそうなことの妄想という、あまりにもややこしいことをしているだけなんだけど。

「ちがう。ぜんぜんちがうわ。倫理意識が高い? 倫理を無視した時に自分が何をやるか分からなくて、それを恐れてるだけの話で、アンタはただ臆病なだけでしょ。人を傷つけるのが怖いのよ。人を傷つけずに生きることなんか誰にだって出来ないのに。他罰的な姿勢を嫌う?それは人を責める時に生じる責任を背負いたくないだけでしょう。無責任を恐れるからこそ、身の丈以上の責任を避けてるだけ。卑しい生き方ね。生きてて恥ずかしくないの。その恥知らずな首でも吊って早く死ねば。誰に対しても誠実であろうとする?ちがう。ぜんぜんちがう。それこそまるでちがう。アンタは”自分に”誠実な人間なのよ。他人に誠実さが作用することがあるとして、だからそれは結果論でしかない。正しい人間であろうとすることはさぞ気持ちいいんでしょうね。正義は我にありって? そんなの馬鹿よ。間違いだと分かってることをやり遂げる方がよほど潔いわ。ねぇ、自分でもいい加減分かってるでしょう。アンタは清らかな人間なんかじゃない。好きになっちゃった、愛しちゃった女の前で、綺麗な自分でいることを最後まで突き通せない弱い奴よ」

本当に倫理的な人間は。
本当に自罰的な人間は。
本当に誠実的な人間は。

こんなにも無様で半端で不格好な姿形をしていない。

「だから。彼女の心を踏み躙る為の手段があり、それをするだけの動機があり、それでもそれが出来ないのは彼女に対する好意が一種の防波堤として存在しているからに過ぎないでしょう。恋愛の本質は感情下の打算。前にもそう言ったはずよ。だからそれがなくなったら、アンタはきっと無茶苦茶をやる。これまで語ってきたような黒歴史と同等のなにかをしでかす。生涯引き摺るような傷を刻む。すると決めたことは、どんな手を使っても最後までやりきる人間だもの。断言だって出来るわ。アンタがそういう人間だって私は誰よりもよく知っているから」

 彼女はそんな言葉の刃で、
斜め上の蛮行に走ろうとする僕を食い止めるのだろう。

思えば。
彼女が見えるようになった17歳以後の黒歴史や大失敗は、いつだって彼女が僕の周りに不在の時に起きていた。彼女が目を離した隙に、僕はやらかしていた。

「どうしてそんなことを言い切れるかって?愚に愚を重ねた愚問ね。それこそ愚にもつかない人間性が漏れ出るような愚かな問いかけだわ。そんなの、私がアンタの良心のメタファーだからに決まっているでしょうが」

なんてね。

もう彼女とも長い付き合いだ。

その気になれば、彼女の小言の模倣くらいは容易である。その気にならないのは彼女の口からは僕への苦言ばかりが飛び出すので、このように真似をすると自己肯定感を削り取るような自虐ばかりになるからだが。

自虐は嫌い……というか、はっきり苦手である。

自分の価値を自分で損ねることを口にするのは精神の健康に悪いし、仮にそれが事実だとしても、落ち込むより先にすべきは向き合い方を考えることだと思うから。

向き合い方ね。
他人の希死念慮に対する正答ってあるんだろうか。

分からない。

なぜなら僕は薄田さながらにカウンセラーじゃない。
薄田が現在カウンセラーになっているかは知らないが。

自罰意識を弄んでいる内に、美澪ちゃんとの約束の十五分はゆるりと経過していた。もうすっかり目は覚めている。自前の灰色の脳細胞も無事に駆動しているようだ。

ベッド脇に充電中のスマートフォンを起動して、僕はいそいそとLINEの画面を開いた。

《やっぱり私も眠い》

《今度また連絡すゆ》

《〇➥する》

《次の休み付き合ってください》

あの女の首を絞めたい、切実にそう思った。
そしてすぐさまにそんな考えを巡らせた自分を省みる。

今日も僕の良心は残念ながら溌剌らしかった。


彼女のことを好きになったのは、
2024年──つまり、今年の春先のことである。

前触れらしい前触れがあったわけではない。

しかし一目惚れかと言われるとそれも違く──彼女の出で立ちが洗練された硝子細工のように儚くも美しいことに異論の余地はないのだが──て、なんだかよく分からない内に好きになっていた。

それが最も正鵠を射る表現になる。
恋愛感情なんて大抵はそんなもんだろう。

しかし僕としては。
様々──エッセイ第7回参照──が巡り巡って、女性恐怖症及び対人恐怖症紛いの精神性を有していた過去を持つ僕としては。

およそ八年振りとなる感情に思い切り狼狽して、
なによりまず自分の気持ちを疑うことになった。

(高校時代の大失敗と現在の恋愛事情の間に交際相手を挟んでるなら、八年振りと書くのは間違いではとお思いだろうが、あの交際に恋愛感情はなかったのでこれは誤りではない。なかったからこそ緩やかに破綻したし、その後も明け透けな交流が続けられているとも言えるが)

話を戻そう。

自分の気持ちを疑うってなに?
お前は少女漫画の融通の効かない主人公かよ。

そう言いたくもなるが、とどのつまり僕は彼女の見目の良さに惹かれているだけではないかと考えたのである。

たとえば欲求不満を埋める為に、たとえば一人の寂しさに耐えかねて、故に彼女を好いているのではないかと。

しかしそれ自体は人間よくある話だろう。

我欲、性欲、物欲、庇護欲、保護欲、など。

だからそれを一概に悪いことだとは思わない。

しかしこれまでを読んだ方ならば手に取るように分かるだろうが、僕は難儀な性格の難儀な人間である。

仮にそんな目論見の為に彼女を必要としているなら、僕は自分を自分で許せないと思った。そんな内心を彼女が今後一生知らないままだとして、僕は自分のそんな浅ましさを嫌悪する。

仮にこの気持ちが成就したとして、遅かれ早かれ その浅ましさは相手を致命的に傷付けることだろう。

それは嫌だった。
それは凄く嫌だった。
それは凄く凄く嫌だった。

僕は。
人間の浅はかな欲求が、
無責任な自分本位の欲望が、
人をどのように傷付けるかをよく知っていたから。

もうあんな目に遭うのは二度とごめんだった。

だから僕の内心に芽生えた気持ちが浅ましい物であるのならば。これは気の迷いだ。そう判断して、そんな感情は疾く疾くと忘れた方が良いと思った。

そうすれば、
傷付けることはない。
傷つけ合うこともない。

だから僕はそれを確かめるために、
自分が彼女を好いている理由を言語化することにした。

それで納得に足る理由が自分の中にないのならば、
こんなのは、もう終わりにしようと。

それは羊水に柔軟剤を含ませるべきだったと言わんばかりの冴えないやり方だし、逆にそこまでやるのは言い訳じみていたが、こういう時に猪突猛進を選べる僕は高校時代に悲恋と共に死に絶えていた。

それから半月後くらいだろうか。

自分の心中にある彼女に対する好意は概ね確固な物となり、だからこそ、それに応じた行動に移ることにした。

彼女の好みを参照した上で、外出の約束を取り付け、互いに意見を交換する形で予定を組んでいった。

そんな淀みのない段取りの構築は拍子抜けですらある。
しかしこれは考えてみれば当たり前で、僕と彼女の間には相手に誠実であろうとする意思があった。

それが損な生き方と知っていても、他人に誠意を尽くす価値を知る生き方を彼女は心得ていたし、僕は彼女のそんな実直な側面にも海のように深く惚れ込んでいた。

しかしそれはお世辞にも器用な人間性とは言えないだろう。というか超不器用で、生き方に振り回されている。

それでも。

その不器用を手放すことなく、理想的な自分たろうとする彼女の姿はとても格好良くて、言葉を交わせば交わすほど彼女の内面に惹かれていった。

ところで、ある種のネタバレになるのだが、この時点で僕の彼女に対する恋愛感情は全く悟られていなかった。

「都部さんって人のこと好きになれるんですか!?」

とか、後から当人に直接言われる始末だ。

僕のことをなんだと思っているんだとその場では返したが、しかし考えてみれば、僕は過去の喪失からそんな振る舞いを自らに強いていたのかもしれないとも思った。

もう傷つきたくなくて。
もう裏切られたくなくて。

『あんたの名前はナルキッソス。
『自分のことが好きで好きで好きで仕方ない、
『自己愛を拗らせてるロマンチスト。

そんな██の言葉が今更のように蘇る。
あんたは他人を愛する資格を持たない非情な人間だ、と、もう僕の世界からは消え去った”彼女”が釘を刺す。

分かってる。
分かっているとも。

僕は、自分がどんな人間なのかをよく知っている。
自分を思い知り続ける人生をこれまで過ごしてきた。

だからこそ、他人を信じる姿勢を、世界を愛そうとする努力を、もう二度と失いたくはなかったのだ。

だからこそ。
いつだって最善の自分でありたい。
そんな規範意識が、病魔のように染み付いているのだから。

彼女との外出までの一ヶ月弱。
僕は様々な右往左往を試みた。

外出当日に訪れる建築物の数々の位置関係を確認して順路を組み、炎天下の中での休憩や突然の体調不良に備え、実際に現地に訪れて下見ロケハンを敢行した。あるいは彼女は酒類にそれなりに強いらしく、下戸である僕は彼女を好きになった日から酒類を飲む為の練習をした。毎日様々な酒類を手に取り、舌を慣らしていった。全然慣れなくて嘔吐をしまくった。また彼女が好きな物に関する雑誌を読み、彼女が好きだと公言していた記録映像や大衆音楽を日々の生活に嬉々と組み込んだ。

そんな風に几帳面かつ四角四面に振る舞うことばかりが恋愛の定石だとは思わないが、彼女の性格や年齢の差異を鑑みた上で非礼を働くようなことはしたくなかった。

きっと人はこんな僕を馬鹿みたいだと笑うだろう。

そんな遠回りな努力にどれだけの意味があるんだって。まだ交際もしておらず、というか交際出来るかも分からないような、たかだか女一人の為にそれだけ手の込んだことをするなんて必死すぎて阿呆らしいって。

もちろん彼女は、僕が世界の裏方でこんな見当外れの努力に勤しんでいることもまた知らなかった。

知ったとして。
鼻で笑われるのがオチだったと思う。

それは彼女が性悪を極めているからではなく、それが当然の反応で、それ以上を期待するのは都合の良い話だ。

でも僕に出来ることはそれくらいで。
それはとても悲しいことだったけれど、たとえそれくらいのことでも、出来ることがあって良かったと思った。

日数の経過と共に、計画は水面下に進行していく。

僕は嘘を吐くのが嫌いだ。
僕はお世辞を並べるのは嫌だ。

彼女の信頼や善意を良いように扱い、好かれるようにと 気に入られるようにと偽りの媚びた言動を働くのは、相手に対する敬意を欠いたそれだと考えた。

それは相手のことを度し易い馬鹿だと思っている、と、その行動によって白状するようなものだ。

人はそれを搾取と呼ぶ。

相手の好意や信頼の丈を分かった上で、自分に都合が良いように扱い、騙し欺くのは人として何よりも最低な行いなのである。

僕は彼女を好いていた。
だからこそ嘘は付かないと、
お世辞も言わないと決めていた。

嘘なんか吐かなくても、
お世辞なんか言わなくても、
僕は彼女の素晴らしいところを語れるから。

語るに相応しい人だと思うから。

だからこそ、そこに隠したいと思う下心があるならば、
僕はちゃんとそれを彼女に明かすべきだと思った。

つまり僕は、

『あなたに好意があります。でも交際を迅速にと迫るつもりはなくて、もしあなたが良ければ、この好意を知った上でこれからも会ってくれませんか。僕はあなたをもっと知りたいと思っています。僕は大した人間ではないし、綺麗な人間でもないけど、それでも心の真っ直ぐな部分はあなたに捧げたい』

と、概ねそんな言葉を、当日に送ることを決めていた。

それを受容するか否かを決めるのは彼女で、どうあれ僕は彼女の選択に準じると決めていた。断られることがあるとして、その時は、彼女の意志を尊重する誇り高きグッドルーザーであることを自分に誓ったのである。

彼女が。

彼女がしばらく前より特定の人物と交際していることを知ったのは、約束の日の およそ十日前のことだった。

Sucker Punch という言葉がある。

それは不意打ち、不意の一撃、予想外の急襲の意を示す言葉で──僕にとっての、彼女のそんな人間関係の発覚は正しくそれだった。

僕はそれを彼女本人から聞いたのではなく、雑談の弾みとして、人伝に聞いたのだ。

もちろん。
その事実はショックだった。

もちろん。
秘匿されていたこともショックだった。

だけど僕がそれよりもショックだったのは、
最も心を揺さぶられたのは、それに気付かずに彼女への好意を迂闊にも育ててしまったことだった。

Suckerという言葉は、スラングで間抜けという意味もあるらしい。その時の僕という人間の姿形はまさしくそれだった。

”交際相手がいる女性を好きになってしまった” という暗澹たる事実が、僕の心に重く重くのしかかった。

当然ながら脳裏を過ぎるのは高校時代のあの時のことで、だから結局のところ、僕はまた間違えた立場に立ってしまったのである。

頭を抱えた。
人前にも関わらず、声にならない声で呻いた。

どうしよう。
どうしようどうしよう。
どうしようどうしようどうしよう。
どうしようどうしようどうしようどうしよう。

そんな無為な自問をただただ重ねた。

どうすれば良いかなんて理解しているのに。
僕の灰色の脳細胞は、こんな時も冷静な判断を下す。

身を引けばいい。

彼女との約束を取り下げ、彼女への好意を忘れ去って、数ヶ月前と同じ位置に大人しく戻ればいいのだ。

でも──今更になって、元に戻れるのか?
元に戻ったとして僕は本当に許されるのか?
だって僕は秘匿された関係も知ってしまったのに?

答えのない懊悩は身体にまで響いた。

有り体にいえば、僕はそれから一時間ほど身体機能の一時的な不全に陥った。手足が震えて立てなくなり、呼吸の仕方を忘れて、詰まった喉からは吐瀉物が流れ出た。

そんな自分に嫌気が差す。
こんな時も、僕は自分のことばかり考えている。

満足に動かない身体。だから浴槽の角に、かろうじて動く頭を二度三度と打ち付けた。しっかりしろと。

自分が心から好いた人の隣には既に信頼に足る恋人がいて、だってそれは、心から喜ぶべきことだろう?

彼女は幸せを享受しているんだから。
彼女は決して一人ではないのだから。

それは良いことだ。とても良いことだ。
僕の過去と彼女の現在いまをいたずらに重ねるな。

間違えてるのは僕一人なんだ。
だから僕は、”ちゃんと”しなきゃいけない。

ようやくと落ち着いて、頭の冷えた僕はやるべきことをやることにした──彼女の恋人に対する連絡だ。

君の恋人を愚かにも好きになってしまってごめんなさい──と、そんな風に心から謝るために。

知らなかったんです。
気付かなかったんです。
だからどうか許してください、と。

それは別に彼の同情を引くつもりはなく、区切りとしての、ケジメとしての行動だった。そうせずにはいられなかった。そうせずにはいられない性分だった。

それに自分が彼女への好意を、自分自身の手で手放すのは難しいと、もう重々と分かっていた。

というか絶対に無理だった。
だって僕の気持ちは固まっている。
その為のこれまでだったのだから。

だからこそ彼に全て明かした上で、彼の言葉に、彼の判断に無条件に従うことを決意したのである。

縁を切れと言われたら彼女との縁も切ろうと。

それが愚かにも再び間違えた僕に相応しい責任の取り方だと、そう思ったから。

深夜──僕は不良品同然の身体に夜風を当てるために、外へと出た。口内には吐瀉物の香りが残っていて、どうしようもなく気持ちが悪かったから、近場の自動販売機でスプライトを購入して口を濯いだ。

それからは彼が指定した時間まで、缶を片手に、夜道をぶらぶらと宛もなく歩いた。止まれ。地面に記された文字が、さながら僕の進路に停止を促しているようだったけれど、今更になってどうすることも出来なかった。

この判断が、果ては手放し難い他者への殺意へ至る暗夜行路さながらの日々の始まりを意味するとも知らず。

彼との通話が始まった。

始まったが、しかしながら気まずい雰囲気は取り繕えず、僕はそれを察したので自分から語ることにした。

僕は彼に全てを打ち明けた。

過去の恋愛とその顛末のこと。それからの後遺症めいた日々の苦しみとそれにより歪んでしまった自分の性質のこと。他人を上手く好きになれなくなってしまったこと。だからこそ僕にとって彼女が特別な人であること。
自分の意志で彼女への気持ちを手放すのは難しいこと。

それは言うまでもなく、心の弱味を晒すようなものだ。

心の弱味を他人に晒す時の、あの感覚。
分かる人には分かるだろう。

鼓膜の内側から耳鳴りが聞こえ、不快感のある手汗が滲み、指先がぴりぴりと痺れるような感覚。

認めたくない。
向き合いたくない。
思い出したくない。

そんな過去の事実を、語りを通し、再びそれは確かにあったことだと認めざるをえない居心地の悪さ。それが齎す消化器官が窮屈に収縮を繰り返すような錯覚。

僕が高校時代に被った破綻を他人に詳細に話したのはそれが初めてのことで、それは彼を信頼しているからこその判断であり、秘密を差し出す形の信頼の担保だった。

それで釣り合いが取れるかは分からないが、
不可抗力とはいえ相手の秘密を知ってしまった以上は払うべき礼がある。通すべき仁義もまたあるだろう。

そして今度は彼が話す番だった。

どう話すべきか。悩ましさに囚われたような歯切れの悪い物言いがしばらく続いたが、それを急かすような態度はこの場合は相応しくない。

「好きな人に恋人がいるのは残念だとは思う」

だから僕は正直な気持ちを口にした。

「けれどそれで他人に悪感情を抱くのは、悪いことであって褒められたことじゃない。君は何も悪くない。だからこそ僕はそれをしない。誓うよ。そういう感情は向けない。平和的に、大人として、これからの話がしたい」

どんな話し合いにも歩み寄りが必要だ。

僕は自分の話を彼に最後まで聞いてもらったのだから、彼の話を最後まで聞く義務がある。いや、違うか。
逃げずに、すべてを聞くべきだと思った。

誠意には誠意を返す。

たとえ病み上がりのような体調だとして、たとえ自分にとって不利益な状況だったとして、それでも人として通すべき筋は通したかったのである。

それから彼は多くを語った。

たとえばそれは交際における気苦労であり、たとえばそれは自分の前でだけの彼女の様子であり、たとえばそれは相容れない価値観の違いであり──その多くを赤裸々に。深夜の、本来なら起き得なかった状況の、そんな熱に浮かされたからこその流暢というのもあるだろう。

だけど、僕はそれを情けないとは思わなかった。

どうあれ彼女と喜怒哀楽を共にしてきたのは恋人である彼であり、喜怒哀楽では利かない苦労気苦労もあったはずで、僕がそこで生じる些細な苦言や漏れ出る惚気に苦情を申し立てる権利はないだろう。

それを簡単に羨ましいと言うのは浅慮であり、相手の感情や関係性を悪戯に矮小化してはいけない。

それにその語り口から、僕は彼に対してある種の尊敬の感情すら芽生えさせていたし、なによりも彼女が幸福を享受しているなら そんなに嬉しいことはなかった。

仮にその幸福を賜る場所が、
僕のいる場所じゃなくとも。

僕はそれを嬉しいと思いたかったのだ。

そんな形で、お互いの話すべきことを話し合い、これからの話をすることになった。彼の言葉を待つ。まあ、かれこれ二時間近く話して、凹む準備は出来ていた。

女は星の数ほどいるという言葉があるが、彼女という一番星はどうあれ唯一無二であり、その代替を求めたとてそれは今とは異なる姿形の感情だろう。

だから口惜しく感じるのはあったし、それを手放すのは嫌だったけど、まあそうも言っていられない。

こういう時に非情な選択が出来る人間なら、もっと上手く日々を生きている。

「あの。自分の立場でこんなこと言うのは多分良くないんですけど、オレは都部さんを応援したいんですよね」

「…………はぁ」

────コイツは”何”を言ってるんだ?

一瞬、思考が追いつかなかった。言葉の意味を咀嚼して、嚥下しそうになるけど、なんとか呑み込む。

「え、なに? つまり別れたいってこと?」

「今のところはそういうのはないんですけど、目的というか目指してることは同じなわけじゃないですか」

目的。
目指していること。

彼女が幸福で安らかな時間を送る努力は惜しまないということ。彼女が傷付くようなことだけは避けるということ。それまでの話し合いでそれは確かに一致していた。

だけどそれは、その提案は2番目の目的に背くことになるのではないか。そう考えたが、しかし僕はそれを口に出せない。卑しい損得勘定がそれを許さなかった。

恋愛の本質は感情下の打算だから。

「誰と付き合うとかは、彼女が自由意志の末に決めることだと思うんです。オレはそれに従うつもりですし、都部さんもそうなんでしょう? なら平和的に争いましょう。オレも負けてやるつもりはないので」

「まあ、それはそうだな……彼女の自由意志をなによりも尊重するべきだと思う。これはゲームじゃないし」

「だから都部さんには茨の道になるんですけど、彼女に好意を隠した状態で仲を深めてもらって、自分らの交際を目の当たりにしながら勝算を探ってもらう──とか。応援……というか、出来る範囲で協力はするので」

「好意を隠して……っていうのは、たとえばどのくらいを見積もってる?」

「少なくとも二年くらいは必要でしょうね」

二年。二年か。二年ね。
とてもじゃないが短いとは言えない月日である。

いや、違うだろ。月日とかどうでもいいんだ。
僕が考えるべきなのは、果たしてそれは許されることなのか、ということだ。

好意を隠す、下心をひた隠す、善意を利用する、信頼を逆手に取る──それをしないと、僕は彼女に誠実であろうと決めていたんじゃないのか?

そこまで考えて。
しかし僕は、薄弱な僕は、その誘いに乗ってしまった。

その水が甘いと分かっていたから。

好いている女性の彼氏手ずからの補助や相談を通した、彼女に対しての普遍的な付き合いの日々の開始。僕は彼に彼女に纏わる数々を聞き、それに彼が彼氏として知る情報の数々を横流す。僕はそれに基いて、自分が取るべき最善手を選び取り、そして考えていく。

だからその日より、僕と彼の間にはそんな奇妙な関係が結ばれることになった。当事者である彼女だけが、このことをまったく知らないままに。


「正座」

「は? なに急に。朝も言ったけど、これから予定あるから君に付き合ってる暇とかないんだけど」

「そこ、正座」

「……はい」

美澪ちゃんとの電話から一週間と少し後。

約一時間後に迫った美澪ちゃんとの待ち合わせの予定に従う形で外出の準備を進めていると、そんな風に彼女ちゃんに呼び止められた。

彼女は自室で唯一の椅子に座り込んで、背もたれなき不安定に身を預け、右に左にと身体を揺らしている。

ちゅうとはんぱは
やめて

赤い文字でそう記されたTシャツに袖を通し、下はラフなテーパードパンツ。そんな彼女の本日の髪型は後ろ髪が腰の位置まである超ロングヘアだった。

「どういうつもり?」

平坦な調子の声と共に、女性にしては大きい26.5cmの足裏で僕の顔面を無造作に踏み付けにする。

僕がお手軽なマゾ野郎ならば今の状況はハッピーなのかもしれないが、女性の好みがえらく激しく、また我儘な甘マゾ野郎こそが僕の正体であり実態だったので普通にその踏み付けは不快なものだった。

彼女ちゃんも事更にサディスティックを発動させたいわけでもないらしく片手間。片足間と言うべきか?

チェンソーマン第5巻を読みながら、僕の方には視線もくれず頁を捲る。気楽に復讐を!が載ってる巻数だ。

僕がチェンソーマン第1部で好きな巻数は、
ベスト3順に 8巻 7巻 6巻。

「なんであのガキの人生相談なんかに奔走してるわけ。今のアンタにそんな暇ないでしょ」

「だってそれは付き合いで……」

「そもそも内容すら明かさず相談をしてくるような奴の話なんかハナから聞かないの。それって相手の信頼に甘えてるからこそ、そんな失礼なことが出来るんでしょ」

……いや、どうだろう。
僕はそうとも限らないと思うが。

人間は根本的に拒否や拒絶を恐れる生き物で、だから内容を先送ることで興味を引き伸ばし、少しでも自分の話を聞いてもらおうとするのは人間らしい心理だ。

「その心理が失礼だと言ってんだけどね──ま、言っても意味ないか。アンタが斜め上の方向に突っ走って周囲巻き込んで大爆発起こすの今に始まったことじゃないし。心を読めって? それをしないのは、古明地こいしが瞳を閉じた理由と同じ。ずっとは面倒。それにエッセイを未だに書いてるのだって私からすれば意味不明だしね」

僕のエッセイ──王道を逆立ちで歩く。
第7回。██との交際の一部始終とその最後に起きた悲劇を巡る回を書いてから、数日が経過していた。

元々は8月31日に終わらせるつもりだったが、このペースだと9月まで雪崩込みそうである。

「改めて聞くけど、どうしてエッセイなんか書いてるの? どうして書き始めたの? 私にはその動機がさっぱり分からない。アンタが吐いてる大きな嘘も含めて、なんとか解き明かそうとしてるけど、答えが出ないのよ。アンタはこのエッセイの最期で、何をしようとしているの。語りの最期には何が待ってるの」

そんな彼女の疑問に、しかし僕は応えない。
目的があるからこそ誰にもそれを悟られたくない。

渾身の結末を先に知られたくない作家のエゴイズムと言えば格好が付くが、果たしてその結末がどんな”反応”を呼ぶかは正直読めないので彼女にも言いたくなかった。

お茶を濁すように。

シン・エヴァンゲリオン劇場版:||のアバンタイトルさながらに、僕はおさらいとしてこれまでを振り返る。

これまでの『王道を逆立ちで歩く』、始め。

名前に意味を与えるのは他者であり、感情であり、一時の陶酔だ。名前は人を傷付けてしまうこともあるのだから。しかしながら僕は愛の証明をしなくてはならない。400もあるマス目が特定の名前でぎっしりと埋まった原稿用紙はさながらラブレターであり、その右下には僕の名前がデカデカと誇らしそうに記されている。私はね、自分の名前なんか大嫌い。

「だから────なんで、そんなひどいことをするの」

つまり綺麗な言葉を使う人は、その人の前で、しっかり綺麗であろうとしている人と言えるからだ。そういうのは、夜中にアイス買いに行くだけの話を面白く書ける局所的な才能の持ち主に頼んでほしいものである。僕のエッセイはあくまでも僕の物で、彼女が居るから書いているわけじゃないのだから。

「たったそれだけの遣り取りで、まだ生きてて良かった……って、本気で救われてるような日もあるわよね」

角砂糖同好会を知っているだろうか? いいや、誰も知っているはずがない。没個性な普通の人間であることに劣等感を患っていた僕は、学業の傍ら、個性ある変人に成るべく試行錯誤を繰り返していた。僕の眼前で流れ始めたのはアダルトビデオだった。だから しばらくの間、
僕らは同好会の不健全な活動を健全に続けた。

「ねぇ、わたしって一生こうなのかな。一生この埋まらない空洞と一緒なのかな。ただただ心から安心したいってさ、そんなに大変な高望みなのかな?」

つまり四捨五入すれば人間は水であり、実際問題、水なくして人間は三日と生きていくことが出来ない。余計なお世話だった。二重の意味で好きでやってることなのだから、放っておいて欲しい。元を辿れば背泳ぎのせいだ。背泳ぎが悪い。何もかも背泳ぎが悪いのだ。

「言ってしまえば、自分を委ねることに対して病的な拒否感がある。他人と世界が怖くて仕方ないのね」

悼むという行為は美しいと思う。今の僕には好いている女性がいるし、その彼女の総てがこれ以上ないほどに自分の好みに綺麗に符合しているからだ。無性にムカついたので、衝動的に彼女のシーブリーズを川に遠投することを決めた。それは人生という名の数多くの人が行き来する交差点で、顔を見合せ立ち止まることもなく、何度かすれ違っただけの気薄な関係。

「でもさ。泣くことが悲しいの全部じゃなくね?」

借り物の言葉では、人の心なんて変えられやしない。何処からでも黒歴史を披露できるという意味では一芸に秀でているが、人間としてそれって遥かに劣っている。見ておけよ。絶対に言い負かして、勝ってやる。名言をいくら知っていたって、素晴らしいのはその名言であって、僕自身の価値が変化するわけじゃない。

「すべての伏線が回収されて、これまでの話や言葉の数々はこの瞬間の為にあったんだって誰もが思えるような最終回が始まる。あくまでも実体験を書いてるエッセイだから派手なことは起こらないけど、読んで良かったと心から思えるような話になる。きっとね」

だってこの話は、ありふれた悲劇で終わるんだから。それになにより、変な人だったからこそ僕は彼女を好きになったのだ。思えば僕らはそれまで互いの前では片意地を張っていて、だからよくあるような、高校生らしいありふれた意味のない会話をするのはその時が初めてだった。特別な人は、よくいる、ありふれた他人になった。

「あんたの名前はナルキッソス。自分のことが好きで好きで好きで仕方ない、自己愛を拗らせてるロマンチスト」

物語とは祈りである。祈りとは君そのものである。だから物語とは、つまり君である。それはきっと、■■■■■■■■■■■■■■、そんな■■■■■物語だよ。RNラジオネーム:乳輪3.14さんからのお便りです。そんな、物語のような結末を迎えていたはずだ。適切な形で処理されなかった感情は、不適切な形で処理するしかない。たとえそれで人を傷付けることになっても。たとえそれが誰も望まない方法であっても。

「──でも、その日に雨が降ったら、このタイムカプセルは埋まったまんまかもね」

語られる人生より語り上げる人生であれ、だ。あくまで自然に彼はペットボトルのキャップを捻り、その中身を僕に正面から浴びせた。他人に自分を見透かされるのは良い気分ではない。見透かされた先に脆弱さがあるならば尚更だ。度を超えた愛情は狂気あるいは凶器になる。自分を殺すか、他人を殺すか、その二者択一を迫るような。そんな決定的な機会が、いつか訪れるのだろうか。

「言い訳をするな。本当にしたいことはなんだ。すべきだと思ってることはなんだ。今すぐとは言わないよ。でももし機会があれば、ちゃんと考えてみてほしい。きみが本当にしたいことってなんなんだ? 本当は──×××××だけなんじゃないのか?」

これまでの『王道を逆立ちで歩く』、終り。

このエッセイはノンフィクションです。
実在の人物や団体などと大きく関係があります。

なんてね。

推理小説を愛する身としては、結末が先に読めてしまう物語ほど興醒めな物はないが、しかし布石や伏線もなく納得を勝ち取れる衝撃の結末は有り得ない。

どういう形でピリオドを打つか。エッセイを書き始めた時点で、その結末だけは曲げないと心に決めている。

それに、「はいはい。閑話休題」


2024/9/15 都部京樹
執筆BGM
『人間が大好きなこわれた妖怪の唄』COOL&CREATE
『ストローマン』高橋優
『不老不死』Losstime Life
全体プレイリストhttps://open.spotify.com/playlist/4F2A0A5x6T5DZLZXDXuEoB?si=gLwOEFKYSZmMgkNf0OsG8Q&pi=a-zAm5LhsQTcCf


「勝手に話を打ち切るな」

「自分語りが長い。よくもそんな自分について、べらべらと喋ることがあるわよね」

コミックスを読み終えたのか。
近くの机上に置かれた鋏とそれを持ち替えて、刃の開いた状態で、詰問するようにその切っ先を僕に向ける。

「アンタが今考えないといけないのは彼女のことじゃないの。もう何もかも”駄目”になったんでしょ。それで、これからどうするの?」

その言葉で。
僕は今日に至るまでの、生殺しの地獄に等しき2ヶ月を思い出す。語ることを避けていた、これまで避ける必要があった、彼と彼女を巡る日々を否が応でも思い返す。

「…………どうもしないよ。何もしない。その話はもう終わったんだ。彼女がそうするべきだと思うなら僕はそれに従う。ここから先は、各々が納得して馴れていく為の時間なんだ。それが今の僕が彼女に出来る唯一のことなんだから。納得できなくても、納得するしかないだろ」

「へぇ。ふぅん。で? それで本当に納得できるの?」

「それは、でも……そうするしかないだろ」

「彼女彼女彼女彼女彼女。ああもう煩いな。これももう面倒臭い。もう黙ってる義理はないんだから、先に義理を反故にされたんだから、さっさと名前も経緯も全部明かせばいいのに。楽になんなさいよ。そんな約束を愚直に守ってアンタのことを誰かが褒めてくれるわけ?」

「…………うるさい」

「それともなに? 他人の悩みに奔走して、今ある現実から目を逸らそうとしてるのかしら。馬鹿馬鹿しい」

「──うるさいって言ってるだろうが!」

僕は彼女の足を払い除けて立ち上がる。
Tシャツの首元を掴み、殴り付ける勢いで引き寄せて、彼女を睨み付ける。

「そんなの関係ない。関係ないんだよ!ならさぁ!君は二人の逢引の現場にでも僕が殴り込めば満足なのか? それで文句を言えって? 先に裏切ったのは誰でもなく彼だろって?  君の彼氏が僕の前で考えなしの馬鹿をやったせいでこんなに拗れたんだろって? たしかに可能だろうな。でもそれは可能なだけだろ。僕は手段を持っているだけ。それを可能にする動機がない。手段と動機が伴わなければ人は考えを実行に移さない。考えて、終わるだけだ。……それにそんなこと常識的に考えてするわけないだろ。だいたいさ、彼女の自由恋愛に〇‪✕‬‪‪問題を投じる資格なんか僕にはないんだ。それをして何になるんだよ。好きになった相手の幸福を願うことなんか、そんなの人として当たり前だろう? だから僕はそれを否定するつもりはないし、したくないんだ。彼女にとってのいちばん良いことを応援したいんだよ。ずっとそうだ。ずっとずっとそうなんだよ。僕はずっと、それこそ彼女を好きになる前から、彼女に対してそう思ってるんだよ。だからさ、放っておいてくれよ。僕は誰のことも傷つけたくないんだ。もうそんなのは……嫌、なんだよ」

「言い訳が長い。自分に言い聞かせてんの? そういう理屈や理性の言葉を聞いてるんじゃない。”どうありたい”じゃなくて ”どうしたいの” かを私は聞いてんの。本能的な、感情的な、アンタの正直な気持ちを聞いてるの」

「つまり、僕が嘘を吐いてるって言うのか?」

「そうは言ってないわよ。アンタの性格を考えれば、その言葉に嘘はないんでしょう。ただ私が言ってるのは足りてない”本当”があるってこと」

「そんなの知るかよ。そんなの君が勝手に思ってることだろ」

「どうだか」

僕は掴んでいた手を離して、バッグを手に取り、彼女から逃げるようにして玄関へと向かう。約束の時間は迫っていた。今から電車に乗りこんでまあギリギリだろう。

「侮られ、騙され、利用され、裏切られ、失敗し、迷走し、苦しんで、恨めしくて、求められず、報われず、その末に──好きでいさせてくれてありがとう、って?」

僕は振り返らない。
その”問題”と対峙しない。

その問題は、だって終わった話だ。
語ってどうなる。向き合ってどうなる。

だってその末に、自分の中にある認めたくない願望に気付いてしまった時どうするんだ。どうすればいいんだよ。”そんなの”、人が傷付くって分かってるのに。

「そうだよ。そう言いたいんだよ。そう思ってるんだよ。それだけでほんの少しでも救われる人間がいることは間違いなのか?」

「別に。でもさぁ、それすらも本人から否定されて──アンタは死にたくならないの」

「そんなの知るかよ」

家を出た。
まだ沈まず、ただ眩いだけの夕陽が僕の影を色濃くして、その影から逃げることを許してはくれない。

きみが本当にしたいことってなんなんだ?
本当は── ×××××だけなんじゃないのか?

僕は薄田の言葉を思い出して、隘路から見える僕の部屋の窓を見た。しかし彼女ちゃんの姿は見えなかった。

僕の良心のメタファーの姿は見えなかった。

…………そんなの決まってるだろ。
ならないわけ、ないだろうが。


「京樹ってさ、死にたいって思ったことある?」

2016年7月半ば──御殿場私立図書館の児童書コーナーの傍にある大机と伴う六脚の椅子、そこに腰掛けて僕の答案用紙の採点をする彼女にそんなことを聞かれた。

彼女──██と楽しくお話せるならば、どんな話題でもそれはそれは大歓迎だったが、場所が場所である。

周りに親子連れがいるにも関わらず、希死念慮の雑談を持ち掛ける個性的な空気の読み方は今更だったが、人目を気にする性分の僕としては勘弁して欲しかった。

時刻までは覚えてないけど、その時の僕は近くのミニストップで二人分の昼食を購入し、愛しの恋人の元へと舞い戻ったばかりだったので大体 昼過ぎだったと思う。

「ある、けど……誰にでもあることだろ。そんなの」

「へぇ。軟派だね」

「軟派て」

僕は彼女の隣の席に座り、買ってきた昼食の数々を、彼女の採点の邪魔にならない位置に置いた。

答案用紙の隣に皺の少ない千円札。

わざわざ休日に勉強を教えて貰っている立場なので、僕の奢りで良いと再三言っていたのだが、恋人間でも金銭の貸し借りはしない主義の彼女だった。

受けた恩には、同程度の恩で返し。
被った仇には、同程度の仇で返す。

誠実には誠実を/不誠実には不誠実を──現在いまの僕の中に堅く根付く価値観は、思えば、彼女に影響されて形成されたものと言えるかもしれない。

…………素直に受け取らないと、僕の皮財布に札をねじ込みかねない頑固な女子だったので、僕が折れる形でその千円を受け取ったと記憶している。

「だって軟派は軟派じゃん。死んだら何か解決するの?残された人は? 残された問題は? 現実から逃げることを正当化する為に死を持ち出すのは最低のレトリックでしょ。死にたいと思うくらいなら、その気持ちがなくなるまで無茶苦茶をやればいい。好き勝手やればいい。何もかも巻き込んで全部ぶっ壊せばいいだけの話でしょ」

まるで知性を感じない思考回路の言語化だったが、この女、僕よりもよほど頭が良いんだよな……偏差値で言えば10前後の開きがある。IQもそのくらい離れてそうだ。

良心よりも自分の納得を優先する人間力が高いタイプ。
僕には良心があるから、そんなこと出来そうもないが。

「だから私は、生まれてから一度も死にたいなんて思ったことがない」

真偽は定かではないが、彼女が自宅の浴室で自殺未遂を図ったと聞くのはこの数ヶ月先のことである。

原因は言うまでもない。
もうそれは以前に語り終えている。

「羨ましいね。僕は弱酸性なメンタルな人間だから、嫌なことがある度に死を考えちゃうよ。あ、今日は天気が悪い。最悪な気分だぜ。もう死のっかな、とか」

喋りながら。
彼女が所望した炒飯の蓋を開け、白匙で一口分を掬っては、彼女の口元へと一口分の炒飯を運ぶ。それに合わせ、彼女は口を小さく開けて、匙を口にぱくりと含む。

幼い美人と称するに相応しい顔立ちの彼女に、餌付け紛いの咀嚼をさせるのはなかなか背徳的で興奮を煽られる絵面だったが、もう一年付き合ってるんだからいい加減 私の美人さには慣れろと自信家な怒られ方をされた。

まあ確かに美人だったから、文句はなかったけど。

机の上を見れば。
答案用紙やペンケースの他に、彼女が敬愛する芥川龍之介の短編集が何冊かがあった。

当時 読書嫌いだった僕は複雑な面持ち──恥ずかしい話だが僕は彼女を夢中にさせる小説に本気で嫉妬していたのである──だったが、だからと言って感情に任せて小説をビリビリと破り出す訳ではない。

最終的に彼女が壊れてしまった時。
家に籠った僕は、散々苦しみ喘いだ後、芥川龍之介の本を読み漁った。彼女の事を今更のように理解したくて。

どうして僕を裏切ったのか。

その答えは得られなかったが、小説を読んでいると彼女のことを思い出させるような言い回しや価値観があって、気休めのように救われたのをよく覚えている。

しかしこの時点での僕はそんなの知る由もないので。

その文豪の名だたる小説は。
視界の端に映るだけの存在である。

だから、湧き上がった怒りなど即座に忘れて、

横顔も美人だなあ。
僕が画家なら彼女の肖像画を毎日だって描くのに。

なんて。
そんなことを考えていた。

バカな彼氏である。
翌月に浮気が発覚して、何もかもが無茶苦茶になるって言うのに呑気なもんだ。

僕が手ずから炒飯を食べさせたり紙パックの中身を飲ませたりする中、彼女による僕の答案用紙による採点は休憩なく行われていく。

あくまでも無表情に等しい澄まし顔だったが、僕を責め立てるようなレ点の音はひどく感情的で、なかなか胸に来るものがあった。

「……どうして小説は書けるのに、この程度の現代文の問題が解けないの。今の私の心情を30文字以内で答えよ」

それから30分ほど経過。
採点を終えた彼女は答案用紙にその数字を書き込んで、こめかみを押さえながら、深めの溜息を吐いた。

「正解は、”来年一緒に居られないのは困るのでもっと頑張ってください” です」

「はい……」

「先に言っておくけど遠距離恋愛は無理だから。絶対無理。耐えられない。挙句の果てに川で鴨と寝るかんね」

この頃の彼女は京都大学への進学を志望していた。

そんな知的な恋人及び好きな人と同じ大学に通う為に、勉強していると言えば、それは絵に書いたような青春である。

しかし現実問題として僕にそんな大層な学力はなかったので、当時の偏差値に相応ということで、同じ京都に存在する立命館大学を志望していた。

この時期の成績を鑑みればB判定と余裕があったが、6.7割の合格率では全然安心できないと彼女に言われてしまい、隔週土曜の昼間はかように図書館で勉強を教わっていたのである。

「そういえば小説、どうだった?」

気まずい沈黙に耐えかねて、僕はさも話題の流れを汲み取るように、それ以前に彼女に読んでもらうように頼んだ小説の感想を聞くことにした。

極々自然な流れである。

「話、逸らそうとしてるでしょ」

「いや? そんなことないよ」

嘘である。
彼女が赤本より用意した問題の数々に対する、僕の正答率の散々な結果の話をしたくなかったので、今はとにかくそれ以外の話がしたかった。

彼女相手に叱られるのは好きだが、
こと失望されるのは嫌なのである。

「小説。そうだ。言いたいこと? 聞きたいこと? があったんだ。あの小説のヒロインのモデル。私でしょ」

「そんなことないよ」

嘘である。
その小説において語り部と共に関西旅行をするヒロインのモデル、それは彼女に他ならなかった。身長も体重も3サイズも好物も趣味も特徴も癖も靴の大きささえも彼女のそれと符号する。本人には知られたくなかったので、記憶を頼りにそのヒロインを書き上げたのだった。

「それを結局 本人に嬉々として読ませる あんたの度胸にビビるけどね?」

「友達にも読んでもらったよ。あ、もちろん体重とかは書いてないバージョンね」

「惚気け方が斜め上すぎる。自慢されるのは嬉しいけど、そういうのは恥ずかしいからマジやめて」

口ではこう言っていたが、照れてるのを誤魔化す時は左の目元を指先で擦るという彼女特有の癖が発動していて、珍しく素直に喜んでいるようだった。

「でも何で私に読ませたの? 別に嫌ってわけじゃないけどさ。これまでそういうことなかったじゃん」

……あれ、おかしいな。
僕は”その目的”の為に小説を書き上げ、今回 その目的の狙いとも言える彼女に小説を読んでもらったのだが、当の本人は読んだ上でそれを察していないようだった。

「えっと……冬にさ、関西の方に旅行に行くのに誘いたくて……」

「ん?んん?どういうこと?」

「だから。誘いたくて、それで書いたんだって」

「……? うん? え?」

僕の白状を受けて、彼女は珍しく困惑していたのを覚えている。また馬鹿な彼氏が変なこと言い出したよ……という視線は、割と頻繁によくよく向けられていたが。

しかしこのままでは埒が明かないので、
僕ははっきりとその真相を口にする。

「だから。君を旅行に誘いたくて、僕は君をモデルにしたヒロインが、彼氏と旅行する小説を書いたんだってば!」

「8万4千文字も書いて伝えたいこと それなの!?」

図書館だったので大声で驚くということもなかったが、しかし許される限りの声量で、彼女は驚いていた。

すげぇびっくりしていた。

「いやいや。一言で済むじゃんそんなの。一緒に行こって。なんでそんな回りくどいことやってんの……? 本当に意味わかんないんだけど」

「だって恥ずかしいだろ。普段は君から誘うし、僕は君が初めての恋人だから勝手が分からなくて、じゃあ物語にして誘ったらお洒落かなって思ったんだよ」

「分からない分からない分からない。そんな誘い方は聞いたことない。回りくどすぎる……。わざわざ8万文字くらいの小説を書いて、恋人を旅行に誘うような変な男は静岡中探してもあんただけだよ」

つーか、その時間で受験勉強しなよ。
と呆れ果てた顔で指摘する彼女。

それに関してはご尤もである。

返す言葉がない。
返す小説がない。

「小説ね──文体はとにかくくどかった。修飾語。あと格好付けた言い回しが多いし、作者の自惚れた精神性がよく伝わってくる文体だったね。話に寄り道も多かったなあ。時間軸の行ったり来たりも激しいし、ちゃんと読まないとちゃんと意図に気付けない部分もあって、読むのに不親切だと思った。あと人格破綻者ばっか出てくるから感情移入が難しいし、どいつもこいつも癖が強くて読むのに体力を要求されるのが結構ね、苦痛。お昼にマックを食べたばかりなのに、おやつにモスバーガー食べさせられてるような気分になる」

「██さん? ██さん? 僕、泣きそうだよ?」

彼女の口から訥々と語られる指摘の数々は鋭利で、それを予想していなかったとは言わないが、本人の声音で語られると、それはそれは予想以上のパンチ力があった。

「それでもね。最後には本筋と無関係に思える会話とかそれまでの流れを絶対に損なわずに全部が上手く纏まる良い話だった。なんていうかな。凄く綺麗な話だった」

「…………ありがとう?」

「反応が薄い。褒め甲斐のない男だな……。あの一作しか読んでないけどね。あんたが読ませてくんないから。それでもちゃんと言える。私はあんたの書く物語と主人公が好き。天邪鬼で、奇天烈で、不器用で、不調和で、素直じゃなくて、普通じゃなくて、斜に構えてて、捻くれてて、でも最後の最後には読んでるこっちが恥ずかしくなるくらいの真っ直ぐな愛の話をしてくれるから」

彼女は僕の方を見て、力強く、そう言った。
その肯定が愛情から来るものなのか、あるいは別の感情から来るものだったのかは、よく分からなかったけど。

「どれだけ辛くても書くのだけはやめないで。もし死ぬなら、書くべきことを書き上げてからにしなさい。全部無茶苦茶にするつもりで、何もかもぶちまけてから死ぬべき。心配しないで。アンタの書く遺作はきっと偉大な作品になる。偉い作品と書いて、偉作になる。私はそう信じてる。だからどうか、私の信頼を裏切らないでね」

最後まで命を賭して物語と戦え、と。
決して戦い抜くことを諦めないで、と。
やるべきだと思うことをちゃんとやれ、と。
甘いだけの途上の死なんか選んだりしないで、と。

どのくらいの時間だろうか。
それまでの交際の中でも、最も時間を投じ、最も言葉を尽くし、彼女は僕に送るべきだと思った言葉を送った。

「もし別れたらさ」

「え、嫌なんだけど」

「もし、って言ってるでしょうが」

軽く小突かれて、怒られた。
そんな悲しいIfを安易に話さないでほしいのだが。

「その時 あなたは怒るかもしれない。恨みだってするかもね。きっと私もそうする。その感情を間違いだと分かりながらも、お互いに向け合ってしまうかも。でも過去それまでを悪くは思わないで」

この時、彼女の言葉の意味がよく分からなかった。
しかし彼女の抱える真相を踏まえた上で振り返れば、彼女もまた来るべき関係の終わりをなんとなく予見していたのかもしれなくて。

「失った物を責めたりしないで。怒りや恨みを手放せたら、それはきっと素敵なことだと思うから」

「なんとなく分かる気がするし、分かんないような気もする。つまり具体的にどうすればいいの?」

「その時は私をまた綺麗な物語の素敵なヒロインにして。さよならを言葉で言われたくはないから物語で口にして。言いたいことも伝えたいことも、あんたらしく物語って」

「それ僕の労力 めちゃめちゃ大きくない?」

「そう。そんなことをお願いする私はずるい?」

「…………いいや。君を好きになって良かったよ」

「なに急に。キモイんだけど」

「そうやってさ。そうやってね? 梯子を外すのやめない? それマジで君の悪い癖だよ。 もっと素直にイチャつこうよ」

甘い時間は終わりだった。
僕は採点の済んだ用紙を手に取り、間違いを改める為に教材とシャープペンシルを自分の方へ寄せる。

受験勉強という現実に戻る為に。ただその前に、僕は少しだけ考えて、その可能性に思い至った。

「もしかして遠回しに心配してくれてる……?」

「まあ、うん、それはあるかもね」

「別に受験ノイローゼとかにはなってないよ?」

「でもあんたはなるタイプでしょ。ま、辛かったらいつでも電話して。一応は恋人だからね。何時間だってあんたの情けない話、聞くからさ。一緒に朝が来るまで悩も?」

一緒じゃなかったくせに。

「どうにもならないくらい悩んじゃって、それでどうしても死にたいと思った時は言って。私も頑張るけど、それでもダメだったら一緒に死んであげるから」

一人で死のうとしたくせに。

「別に惚気じゃない。あんたの代わりなんて探せばいるわよ。ただ犬みたいに従順な男だから見捨てるのに困ってるだけ。困ってる内に自分の一部になっちゃったから、まあ、しょうがないよね」

四捨五入するみたいに、
僕を余分な物と切り捨てたくせに。

「まだまだ長い付き合いは続くとはいえ、言いたいことは言いたい時に言っておきたいの。明日死ぬかもしれないし。そんなの嫌だけど。嫌だからこそ、言っておく。あんたの傍にいるから、あんたも私の傍にいて」

その口で、
自分に都合の良いことだけを言うな。

「──僕も。僕もそう思う。長生きしたい。死ぬまで、君の傍に居たいから」

死にたいと思った時、よくこの時のことを思い出す。

彼女の連絡先を、
僕はもう一つだって知らないというのに。


第10回『 ハンプティ・ダンプティを戻せない / YOU CAN (NOT) LIVE 』未完了
続▶︎第11回『 ハンプティ・ダンプティは戻らない / YOU CAN (NOT) SUICIDE』

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