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コラム|各時代における布教印刷事業 キリシタン版とプティジャン版

フランシスコ・ザビエルによるキリスト教伝来後の日本では、時代ごとに布教書の出版活動が行われました。
今日では禁教による活動停止以前の出版物を「キリシタン版」、再布教時代にパリ外国宣教会によって再開された出版物を「プティジャン版」といい、ともに現在も各分野における貴重な文献資料として用いられています。

初期布教時代における印刷事業は、イエズス会の司祭たちによる教育事業の一環として行われたことと東アジアにおいて西洋印刷技術が用いられた最初の例であったという特徴を持っています。
禁教政策によるキリスト教への迫害と弾圧が強まったことで日本国内での布教書出版は1614年以降途絶えることとなり、それから2世紀以上を経た開国後の日本における出版活動はパリ外国宣教会の司祭たちによって再開されました。
キリシタン時代の出版物には、イエズス会が原語主義(*1) による布教活動を行っていた影響でラテン語、ポルトガル語やローマ字による日本語口語文が用いられており、一方再布教期に刊行された出版物には、それらに加えて漢語が用いられるようになりました。大浦天主堂の外壁に創建当時から「天主堂」の文字が掲げられていたことは、この時代の布教活動に漢語が導入された一つの事象といえるものです。

今回のコラムでは、各時代における布教印刷事業について、布教方針とキリシタン用語の関連を交えながら述べていきます。

キリシタン版

1590年、天正遣欧使節一行がヨーロッパから持ち帰った日本初の印刷機であるグーテンベルク印刷機(*2)が加津佐のコレジオに導入され、日本人の教理学習とヨーロッパ人宣教師たちの日本語学習を目的とした出版物の印刷が開始されました。その後の迫害によってコレジオ(*3) は加津佐から天草、長崎と移動を重ね、コレジオの移転とともに出版活動拠点も移動しました。
イエズス会は初期のごく一時期を除き、ラテン語、ポルトガル語を用いた原語主義による布教を行っていました。そのため、この時代に印刷された刊行物にはラテン語・ポルトガル語・日本語口語文のローマ字表記と、漢字・仮名を用いたものとが混在しています。
これらの書物群は「キリシタン版」、あるいは出版地の名称をとって「加津佐版」「天草版」「長崎版」などと呼称されており、50種以上の出版物が刊行されたともいわれますが、幕府による弾圧の中で焼却されるなどしたため、世界中における現存数はごくわずかです。
1614年の禁教令後にグーテンベルク印刷機がマカオに移されたことにより、日本国内での印刷事業は途絶えました。

プティジャン版

1865年3月17日に大浦天主堂で浦上地区の潜伏キリシタンの名乗り出に出会い「信徒発見」の当事者として知られるパリ外国宣教会のプティジャン司教 (Bernard Thadée Petitjean)は、250年以上もの間司祭不在という環境下で信仰を維持した日本人信徒に向けて、数多くの出版物を刊行した功績も残しています。プティジャン司教(1866年任命)認可のもと日本で刊行された書籍群は、禁教政策下にあった当時の日本人信徒の教理教育の促進、布教活動に大きく貢献しました。
日本での出版ではないもののプティジャン版として認知されている『羅和辞典』と題する対訳辞書は、キリシタン版『羅葡和辞典』を底本としていることから、キリシタン版の再版といえる書物です。
ラテン語、ポルトガル語、日本語の対訳辞書『羅葡和辞典』は、イエズス会士と日本の信者の協力によってつくられたといわれています。プティジャン司教は1869年、渡欧の途中マカオで『羅葡和辞典』を入手し、ポルトガル語を省いて日本語に改変を加えた『羅和辞典』を執筆し、布教聖省の認可を得て1870年にローマで出版しました。
ここでは『羅和辞典』を一例として紹介しましたが、『羅和辞典』のみならずプティジャン版約70種はキリシタン版に少なからず依拠しており、キリシタン時代と明治時代のカトリックにおける言語的、文化的なつながりや変化を示す重要な意義を有する書物群です。

プティジャン司教の出版活動は、死去の1年前である1883年まで継続されました。

漢語の導入

1860年に来日したパリ外国宣教のムニクウ神父(Pierre Mounicou)は、日本の開国以前、香港に滞在し布教活動に従事するかたわら中国語を学習し、さらにその後滞在した琉球王国・那覇で日本語を学んだといわれています。ムニクウ神父は来日後横浜に赴任し、横浜天主堂の建設指揮にあたった他、当地での布教印刷事業にも貢献した人物の一人です。
横浜で布教活動をするにあたり、当時の教区長であるジラール神父(Prudence Seraphin-Barthelemy Girard)とムニクウ神父は、初めて教理に接する未信者に向けヨーロッパの原語ではなく漢字による表記がより理解を助けると考えていたことが当時の記録や書簡から伺えます。
大浦天主堂にさきがけ1862年に建設された横浜天主堂(聖心聖堂)の正面壁には、やはり「天主堂」の文字が掲げられていました。
一方長崎のプティジャン神父(当時)は、潜伏キリシタンたちが先祖から伝えられたラテン語、ポルトガル語由来の言葉を使用していたため、長崎においてはキリシタン時代の伝統ともいえる原語による教理教育が再布教に適しているとの考えを持っていたとされています。プティジャン神父は、漢語を用いた場合にともすると別の教えであると受け取られ、潜伏キリシタンたちの教会への復帰を妨げる要因になるとの懸念を抱いたのだと推察されます。

ムニクウ神父は、中国・四川省の漢籍(中国で著された書籍)の教理書を日本人向けに読み下した『聖教要理問答』を1865年に出版し、長崎のプティジャン神父のもとへも送ったものの、受け取ったプティジャン神父はこの要理書を信徒へ配布せず、箱に仕舞ったままにしておいたといいます。

これまで横浜と長崎の間で起こったこのような意見相違について、プティジャン司教がキリシタン時代の伝統にこだわりを持っていたといわれていた一方、およそ70種を数える一連のプティジャン版の中にはキリシタン用語を重視したとみられるものと、漢籍を翻訳したものとが混在している点は興味深い事実です。
このことからは、プティジャン神父が一般信徒への教理教育と神学生や邦人司祭とそれぞれにふさわしい布教方針を区別していた可能性が感じられます。

大浦天主堂の主祭壇にたてられたプティジャン司教の墓碑にはラテン語と漢文が碑文として並記されています。
墓碑にカトリック教会の公的な言語であるラテン語を使用したことは自然なことと思われる一方、その翻訳に漢文を用いた点に注目してみると、当時パリ外国宣教会の司祭たちの間で漢文が公的な言語と認識されていたことを思わせます。

プティジャン版の漢籍翻訳書が神学生や邦人司祭向けに制作されていたとし、さらにこのプティジャン司教の墓碑に刻まれた碑文に漢文が用いられたことを考えあわせたとき、パリ外国宣教会の司祭たちの間に意見の相違があったとしてもそれはあくまで一般信徒向けのものであって、日本のカトリックの未来に漢語を重視した点においては共通した意識が持たれていたと想像させられます。

大浦天主堂を拝観の際には、プティジャン司教の墓碑にも注目してみてください。

※主祭壇のある内陣への立入はできません。柵の外側からご見学ください。

※当時の神学校教育では漢籍が活用されており、加えてパリ外国宣教会は1884年に香港に出版基地を設置しているなどの点から、この時代には漢語を用いた教理教育が重視されていたと考えられる。香港に設置されたナザレ出版(Nazareth Press)は19世紀後半から20世紀初頭、東洋言語の書籍の印刷所として極東最大ともされる印刷所だった。
Google Arts & Culture :Nazareth Press

補足
キリシタン版からプティジャン版へと、終焉と再開の期間は2世紀以上にわたる長い空白があったようにみえる布教書出版史ですが、プティジャン版『羅和辞典』で再版をみたキリシタン版『羅葡和辞典』は、禁教政策下の日本国内で意外な活用をされていたことがわかっています。
1640年に初代宗門改役に任命された井上筑後守がキリシタン弾圧に用いるために所持していたことや、出島商館付のスウェーデン人医師カール・ツンベルク(Carl Peter Thunberg)が1776年の江戸参府の際に日本人通詞が所蔵していることを発見したという記録が残されています。

用語解説
(*1)原語主義
カトリックの教理用語を現地語に翻訳せず、異文化で用いられる言語(すなわち原語)を使用した布教を指しており、この場合ラテン語やポルトガル語を用いた伝道方法を指す。例として「キリシタン」(ポルトガル語の<cristão>)や「オラショ」(ラテン語の<oratio>)など。

(*2) グーテンベルク印刷機
ドイツの金細工師ヨハネス・グーテンベルク(Johannes Gensfleisch zur Laden zum Gutenberg)によって発明された、金属活字を使った活版印刷術及びその機械。当時の日本では、木版に文章や絵を彫って版を作る凸版印刷が主流であり、ヨーロッパからもたらされた活版印刷術としては最初の例と言われている。天正遣欧使節団の帰国時には、印刷機とともに印刷技術者も同行した。

(*3) コレジオ
ポルトガル語で「学林」を意味する<colégio>は、司祭育成のための教育施設を指し、日本においては1581年に府内(豊後)に設置されたのを皮切りに、山口、平戸、生月、長崎、有家、加津佐、河内浦(天草)と移動し、1614年に長崎で閉鎖された。

参考資料
「日葡交渉史」松田毅一
西南学院大学図書館報 No.189 蔵書ギャラリー no.29 「プティジャン版『羅日辞書』Lexicon Latino-laponicum」下園知弥
キリストと世界 : 東京基督教大学紀要 24 「キリシタン時代最初期におけるキリスト教と仏教の交渉」大和昌平
獨協大学教養諸学研究 28(2) 「キリシタン文献研究の史的動向」小島幸枝
パリ外国宣教会アーカイブ Pierre Mounicou


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