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青焼きの図面


こんにちは、京都市役所近くのお風呂屋玉の湯の女将です。
先日探し物をしている時に見つけた
「青焼きの玉の湯初期図面」を見て思うところや聞いた事を残したくなり久しぶり投稿しています。

玉の湯は明治27年5月創業で、見た目よりも中身は結構お年寄りな銭湯です。
先日私も知ったのですが、
最近廃業された京都のレジェンド銭湯、錦市場近くの「錦湯」さんよりも古い建物のようで、玉の湯の方が古いんやと聞かされビックリ仰天してました。
美魔女のように見た目若いと言われると嬉しい⤴気持ちと、
中身はやっぱり衰えが否めないが正直なところ、お風呂のハード面や建物に至るまであちこち不具合が出てきて
なるほど納得の建物、浴室年齢、
修理修繕の日々でございます、、。
最近井戸タンクを交換したり屋根の補修をしたり、玉の湯歴13年目ですが、
今頃玉の湯の全体がやっと解ってきたと言うくらい複雑な
改装や修繕がされていて1つ1つ対応するたびに何でこんなに複雑な事をするんだと、文句を言ってしまいます。
もう初期の玉の湯から改装した方も
おらずで謎だらけの建物ですが、
青焼きの図面を見て昔はシンプルだったんだと思うのと、
店主のお父さんや伯母さんが教えてくれた話を思い出しまた。
昭和の10年〜20年代に
お父さんや叔母さんが子供の頃
沢山の人がお風呂屋さんで働いて、
住み込みの釜焚きさんと女中さん3人、
通いで仕事を手伝って下さる方もいて、家族5人とゆう大所帯でお風呂屋をしていたそうで、
みんなが1つ屋根の下で寝食を共にしていたらしく、2階の間取りを見て、
一体どうやって、、と驚愕したのですが、当時は当たり前の風景だったようです。

2階間取り


女中さんは一体何をされていたのかというと、当時はベビーブームで赤ちゃん
だらけ子供だらけだったそうで、
赤ちゃんや子供達を受けて拭くのが日々の業務だったそうです。
この少子高齢化時代には考えられない!時代が変わればこうも違うのか、
少子化問題何それ?です。
拭いても拭いてもお風呂から
子供が上がってくるのです
アンビリバボー!!!
お湯を沸かしても沸かしても
湯水のごとく流れていったであろう
お湯、釜焚き仕事は本当に大変だっただろうなと想像します。
図面を見ながら色々な人が
釜場、脱衣所、番台、交代で2階へ、
きっとカオスな2階生活の中で食事をしたり、忙しく行ったり来たりをしていたんだろうなーと想像して、
よく頑張らはったな〜としみじみ思ったのでした。

店主のお父さんが高校を卒業した
昭和40年代初め頃に釜焚きさんが
辞められるのを機に重油の釜に変更、
その後昭和50年代に店舗を改装
令和2年に玄関部分をリフォーム
そして現在に至る。

今年で128歳の玉の湯
沢山の人の汗と疲労と涙をw流してきたんだろうな、
時代と共に変化した結果、
ややこしく、面倒くさい建物になってしまったんだと納得し、
図面の時代からは考えられないくらい
進化して快適な時代を経てきたんだと
思うと文句を言うのは少し減るかなと思ったり、、いややっぱり面倒くさいかな、、。

次の修繕は東側の屋根、本当に世話が焼けます。

ここまで私のつたない文章にお付き合い頂きありがとうございました。
女将

屋根の修繕準備






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