認知行動療法から考える社会モデルの限界〜発達障害✖︎宗教2世回振り返り〜
こんにちは!運営の鶏です。noteでは初めましてですね。
3月3日にDRC(京大の障害学生支援室)の共催の元、京都府立大学の横道誠先生をお招きし、「発達障害✖︎宗教2世〜水中という感覚〜」というイベントを開催しました!
横道先生は京都府立大学文学部でドイツ文学やイソップ寓話に関する民間伝承分野の研究をされており、『イスタンブールで青に溺れる 発達障害者の世界周航記』や『みんな水の中』など著書も多数出版されています。また、ご自身が発達障害(ASD・ADHD)と宗教2世であることを公表し、当事者研究も行われています。
だいぶ遅くなってしまいましたが、イベントを通して私が特に印象に残っている話題をいくつか挙げることで、イベントの振り返りとさせていただきたいと思います。
☆「共感できない」は健常者目線。ASD同士では共感できる部分もある
ASDを含む自閉傾向のある人は、「共感性が低い」と言われることが往々にしてあります。
DSM-5という、米国精神医学会が発行している精神疾患の基本的な定義を記したものには、ASDの定義の一つとして「社会的コミュニケーションおよび対人的相互反応における持続的欠陥がある」ことが挙げられ(引用元:https://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/heart/k-03-005.html)、対人関係で難があると言われることが多いです。
横道先生は、このように言われがちなASD者の共感性に対する捉え方として、「定型発達者とは違う考え方をするのだから、ASD者が定型発達者に共感できないのは当たり前。ASD同士では他のASD当事者へ共感することもできるし、定型発達者に対して共感性がないだけ」とおっしゃっていました。
私自身、ASD・ADHDの診断が降りているのですが『定型発達の人と同じように』『自分とは違う状況の相手の立場に立って』気持ちを考えるのは苦手です。しかし、自分と似た境遇の主人公や状況を想像しやすい環境の登場人物に共感して映画館で号泣したり、友達が置かれている環境に怒ったり等、自分が想像できる範囲では共感できる部分もあると思っていました。
今まで漠然と自分も共感はできると思っていたもののそれをうまく言葉にすることはできなかったのですが、今回のお話を聞いてそもそも共感能力が低いのではなく経験をしていないだけだと言われた気がしてとても嬉しかったお話です。
医学的な詳しいことはわからないので、もしかしたら私の捉え方が誤っているところがあるかもしれませんし、DSM-5の「コミュニケーション」「相互反応」は『自分と置かれている環境が違う人への共感力』も含むのかもしれません。
しかしもしそうだったとしても、ASDの人が多い世の中だったら、たとえ環境が違う人への共感が難しくても、環境が似ている人(=共感できる人の割合)も多いので、『大多数に対する共感』については問題が生じづらいのかも、と思ったりもするのです。
2021年夏、東京大学の熊谷先生に「ASDがマジョリティになったら定型発達者が障害者と言われるようになるのでは」とぶつけさせていただいたことを思い出したのですが、一連の話の中で「社会のあり方が変わるなら、障害が障害でなくなる」ということの片鱗を見た気がしました。
横道先生は「見えない障害は理解されづらい」という文脈でこのお話をされていたのですが、「できないことがある」ということを「生きている世界が違うだけ」と捉える考え方は、どちらが良い・悪いということすら超越して、自分が許容された気持ちがしました。
☆社会モデルが大事とされている世の中でありながら、当事者会などで実施されている認知行動療法は個人モデル的な、個人単位の変容を元に実施されているのではないか
当日の参加者からの質問であったもので、私自身納得してしまった問題提起です。
少し個人モデルと社会モデルのご説明をしますね。
個人的に原因の所在が分かり易いと思ったのは、『障害(誰かが何かをしたい時に妨げになるもの)が皮膚の内側にあるのが個人モデル、外側にあるのが社会モデル』という分類の仕方です。簡単に言えば、障害がある人が社会参画をする際に社会的障壁を取り除くために、障害者に原因を求め、「治す」ことで障壁を取り除くアプローチをするのが個人モデル、環境を変えることで障壁を取り除くのが社会モデル、という形でしょうか。
社会モデルの考え方では、「障害」は社会(モノ、環境、人的環境等) と心身機能の障害とがあいまってつくりだされているため、障害のある人への社会的障壁を取り除くことは社会の責務であると考える、と考えるのが一般的になります。(引用元:https://www.kantei.go.jp/jp/singi/tokyo2020_suishin_honbu/udsuisin/pdf/kyo02.pdf)
横道先生自身、「社会や環境のせいで障害になることが多いのに、“あなたの振る舞いを変えたら良くなる“というのはグロテスク」であると仰っていたのですが、現在社会モデルで考えることが主流になっている一方、当事者会やカウンセリングなどで実施されることのある認知行動療法という考えは、個人モデル的に、「社会との齟齬をなくす」ことによって障壁(困っていること)の解消を行おうとしていることは事実です。
私自身の考えはのちに述べるとして、個人的には横道先生が主催されている当事者会に参加されているという、他の参加者からの回答として「自分達が変わろうとしていることを社会に発信していくことで、社会も変わっていくことを目的としている」という回答がとてもしっくりきました。
☆社会を変えるべきか、当事者が努力するべきか
ここからは講義の感想というより、鶏個人の考えになります。
上記の質問で、私は「(社会モデルが正しいという前提の元)認知行動療法への違和感を抱く」という考え方に納得した一方、SSTや精神科で主治医から教わったことを通して、「定型発達の人への考え方を知ることで自分自身が生きやすくなった」と感じている身として、本当に社会モデルだけで考えることが正しいのか?と考えるきっかけになりました。
もちろん、環境次第で生きやすくなる事例も多いという世の中ですし、最初の話題のように「社会のあり方が変わるなら、障害が障害でなくなる」という状況のように「そもそも不便を感じない可能性すらあった」という状況に置かれていると、「健常者が必要ない努力をするのは理不尽」と考える人の意見もわかります。
しかし、特に身体的特性は理解されやすいが故に、マイノリティの困りごとも全て社会側が解決すべきであるという考えが蔓延りすぎではないかな、と思うのです。
実は、私は発達障害以外に視覚障害もあります。今回私は、イベントを運営する側であると同時に当事者でもありました。
イベントを運営する側としてできるだけ負担なく全ての人に必要な配慮が行き届いた状態でゼミを受講してほしいと考える一方、自分が参加者だったらそこまで運営の負担をかけるならやってもらう必要はない、と思ってしまう部分もありました。
しかし、「社会モデル」で解決しようとすると、運営側が全て配慮をした状態で参加できるように環境を整えるべきですし、当事者同士の集まりの話し合いでも似たような結論に至ることもあります。
私が当事者同士の集まりで違和感を覚えることの一つに、「自らの主張を求めすぎるあまり多様性を排除する原因になりかねない」ということが挙げられます。
視覚障害のある学生の集まりに参加した際に感じたことを記した文章を一部抜粋して引用してみようと思います。
もちろん、全ての当事者会でそのようなことが行われているわけではないですし、当事者の声で自らが過ごしやすくなる環境を求めて声を上げること自体はとてもいいことだと思います。
しかし、郷に入っては郷に従えという諺があるくらいです。
原因が社会のありようで障壁になっているとしても、社会がマジョリティ向けに作られている以上、ある程度マイノリティ側が努力して歩み寄ることがあってもいいのでは。そんな風にも思ったりもするのです。
その他にも、例えば私自身は耳がとてもいい(平均聴力-15dB)のでマイクを通した声を長時間聞いているのはしんどいです。一方、環境音などが混ざっている中から必要な情報だけ取り出して聞き取るということ自体は苦手という別の特性もあるため、ある程度環境音との差がないと講演者の声を聞き取れません。現実的に考えて『周囲の音を一切消す』なんてことは不可能なので、私自身の中での軋轢によって実現不可能なことを言っていますし、聴力的にも私ほどいい人はかなり稀になります(二十歳の聴者が聴くことのできる最小の音の音圧レベルが0dBなので、-15dBは平均よりもかなり聴力が良いことを意味します)
全体的な過ごしやすさのことを考えたら、「鶏がノイズキャンセリングヘッドフォンをつける」ことで解決する問題ですよね。これは考え方ではなく物で解決しましたが、鶏自身の変化によって、他の人が聞きやすい環境を残したまま鶏の苦痛を軽減させることができたのです。
先ほどの「ASDが多ければ定型発達者が障害になる」という話題においても、『仮にその世界だったら』周囲との齟齬が生まれなかったにしても、現実世界で齟齬が生まれるならば、定型発達の人の考え方(日常会話でディベートはしない、細部は適当な方がいいこともある等)を知っておいた方が、この世の中の大多数を占める定型発達者と仲良くなれますよね。いくら社会のあり方の問題だと叫んでも、配慮をして友達になるわけではないですし、定型発達者の考え方を理解した方が『私自身の』生きやすさにもつながるのではないかと思うのです。
これが私自身が認知行動療法に救われている理由なのですが、このような事例から考えても、社会のあり方だけでバリアを全て取っ払うなんてことは不可能なような気がします。
当事者からの視点としても、当事者が社会モデル的に考えすぎるとワガママが行きすぎる可能性がある(過重な負担、とかよく言いますよね)というのは以前から考えていたことだったのですが、認知行動療法に対する問題提起は、むしろ健常者側が全て歩み寄る必要はないのではないかという社会モデルの限界を考えるきっかけになりました。
ちなみに、社会モデルの限界については、以前ゼミにバリアフリー分野が専門の福島智先生がいらした際に「実存モデル」という新しい考え方があるということを教えてくださいました。(福島先生回の感想はこちら)
まだ実存モデルに関しては私自身がきちんと理解できてはいないのですが、そもそも様々なバリアが複雑に絡み合っているこの世の中で、社会の側だけに原因を求めるのも違うのではないかなと感じました。
だんだん講義の感想から離れて持論の展開になってしまいましたね。長くなってきたのでここの辺りで終わろうと思います。
さて、急にnoteに登場して誰だと思われた方もいらっしゃるかもしれないので、次は自己紹介でも書こうかなと思います。よろしければまたお付き合いください。
それではまた。
2023.3.29
鶏
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