記憶を辿る3
『 重油と潮の香り 』
小学生の頃は、休みの度に父親の出張に同行して大分の工場に行っていた。
夏休みは特に楽しく、海は歩いて5分、山もすぐ裏にある。日焼け具合が物語っているように、気分はいつもトムソーヤだ。
今ほど都会ではないといえ、京都の田の字地区で育った坊主である。
なるべくして不良になった子や、田舎の大自然の中で育った子たちからすれば 雛のようだったと思う。
大分では、蜂の巣からとった生の蜂の子を食べる工場のおっちゃんや、素潜りで魚を獲る中学生、シティ派坊主の記憶に、戦慄のシーンをくれた、たくさんの人との思い出が溢れている。
負けず嫌いの私は、ポテンシャルの違いを知りながらも、間違った負けず嫌いを発揮して、道を逸れていくのだが、それはまた追々書いていこう。
工場では荷物を乗せる台車に乗って爆走したり、メーカーから預かった生地の上をピョンピョン飛び越えたり。15時の休憩に合わせてオバちゃんに媚びを売ったり、父親のトラックに乗り 外注回りをしたり、車を洗ったり。
今では第二の故郷のように思う国東工場も、こんな思い出があるからこそ、
その後に工場勤務する際に、スンナリ入って行けたのも、幼い頃に馴染ませて頂けたからだと思う。
思い返せば、 両親の情操教育はできていた。
工場の裁断台とミシン場の間に、生地を置くスペースがあるのだが、当時は堆く生地が積まれていて向こうが見えなかった。
2mはあったという記憶だから、1山50反ぐらい。(Tシャツでいえば約5,000枚) これが5山6山とあり、裁断も終わっていないのに次から次へと別の生地が運び込まれて、書類の処理にも相当な時間を要したはずだ。
当時、荷物を乗せて 京都と大分間を往復していた父親の移動手段はフェリーだった。
菅原文太さんが演じた「トラック野郎」という映画の影響で、荒くれ者も多かったフェリー内。
そんなことはお構いなしに、ゲームセンターで遊んでこいと父親は言う。喜んでいくのだが飽きて父親を探すと、荒くれ者の酒盛りをよそめに、納品書や請求書をテーブルで書いていた。
大分で受ける裁断用の生地とは別に、京都で反物を受けて2階で裁断、裁断地とその他の反物をトラックに積んで大分へ。大分では出来上がった製品を京都に持って帰って納品といった具合だったから、あの後ろ姿は本物だった。
重油と潮の香りが混ざった独特の匂いを放つ 後ろ姿。
私の記憶の一片である。
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