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記憶を辿る65

『 最後の夏 』

退職してからだったか、退職前だったか覚えていない。
父親に家業を手伝いたいという話を初夏の事務所で伝えた。

「ほな、大分の工場からやな」
「へっ?!」

小さい頃から大分の工場に行っていたとはいえ、業務内容を知っているはずもなかったから当然なのだが、京都の事務所で事務方として手伝うものだと考えていた私は驚きを隠せなかった。

当時はクレープ肌着の縫製委託のみで国東工場と武蔵工場は稼働しており、京都で手伝うような事務処理などは限られていた。またクレープ肌着はご存じの通り”夏物”であるから、晩夏から来夏用の下着を縫い始める。

これに併せて山城の決算も8月の終わりに設定されており、腰を据えて手伝い始めるには盆明けがキリが良く、その頃に大分へ移住し入社する手筈となった。

しかしそれまでは宙ぶらりん状態となり手持ち無沙汰。
この間に何件かの飲食を掛け持ちバイトをして凌いでいた。

飲食のウェイターに友人の実家が経営する川床の皿洗いなど。
経験のない仕事と新しく覚えていく内容が楽しかった。
現在お店で提供するドリップコーヒーを覚えたのもこの頃だ。

しかし友人も知人もいない大分へ移住など出来るのだろうか。
この時はまだまだ甘く、想定していた不安は後に的中、退路を断たれた私は家業の行く末を何とか変化させようと、もがき始めるきっかけになっていくのだが、この時はまだ知る由もない。

この時ばかりはボンボン風情を大いに楽しんだ期間だった(笑)
不安と隣り合わせだったとはいえ飲みに遊びにと気楽さは人一倍。
来たる引っ越しに向けての準備も意気揚々としていたと思う。

大分では1人1台が必須の自家用車ではあるが、京都ではそうも行かない。
4〜5万の月極に車のローン、ガス代となれば月に10万は出ていく。当時ウチではBMWを乗っていて、ボンボン風情に拍車をかけていたのは言うまでもないが、大分用の車を購入した時は心が躍った。


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