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わらいぼとけと重源上人の願い

奈良市のとなり、木津川市加茂町の当尾の里にある石仏の阿弥陀三尊像。その満面の笑顔から「わらいぼとけ」の名で親しまれています。

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優しさにあふれるその様から、当尾の里のシンボル的存在!

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中尊の阿弥陀様のお顔。豊満な頬と凛々しい眉…見紛うことなく笑っています。

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左脇侍の観音菩薩像。中尊より鼻が少し大きめで、より親しみを感じる…やや角張った印象ですが、中尊に近い輪郭か。

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右脇侍の勢至菩薩像。こちらは他の二尊よりもやや小ぶりな輪郭に見えます。

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石彫でも木彫でも、こうした三尊像に出会う機会は多いと思います。その時は、是非とも三尊の顔の微妙な違いに着目してみてください。

工房内での作者が違うためか、あるいはそれぞれの尊格をイメージしてか、同じ作者とされても微妙に表情が違います。あくまで個人的な経験則ですが、例えば左右であれば右脇侍像(向かって左)よりも左脇侍像(向かって右)が、より造形が優れているように感じられることがよくあります。この所以を、位置関係による尊格の順によるという考えもあります。例えば工房内であれば、中心的存在の師匠が中尊を担当し、その次に偉い弟子が左脇侍像を担当し、そして次に偉い弟子が右脇侍像を…というように、像の位置と、その位置の持つ意味によって担当する仏師が割り振られていたのかもしれません。(※このあたりは鎌倉期の南都復興における慶派仏師の動向などでも詳細に議論がなされています)

もちろんこのわらいぼとけにおいては銘文に伊末行の名前しかなく、想像の域を出ませんのでご注意を!


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わらいぼとけは、石に刻まれた刻銘から近くの岩船寺に住した僧の発願により、鎌倉時代の永仁七年(1299)に石大工の伊末行(いのすえゆき)により造立されたことがわかります。
当尾の里も、古くは小田原と呼ばれ興福寺の領地でした。岩船寺も当時は興福寺一乗院の末寺であり、伊末行はそうした南都とのつながりの中で造像に関わったかと想像されます。

伊末行は、鎌倉初頭に南宋の浙江省寧波から渡来した伊行末(いのゆきすえ)の孫とも云われ、その伊行末も大野寺の弥勒磨崖仏や新大仏寺の本尊石造台座など、多くの優れた石彫を残しています。伊行末は鎌倉期の南都復興のために招来されました。

そうして歴史を紐解くと、重源上人の南都復興の願いがあったからこそ、当尾のわらいぼとけが作られたのだ!と言うこともできそうです。後の時代の文化にまで影響を与える、重源上人という存在の偉大さを感じますね!

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観音菩薩像の蓮台…この上に乗って、ぜひとも極楽に行きたいものです……

ではまた!


#仏像 #石仏 #奈良 #京都  




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