キョロ
趣味で詩を書き始めました。
複雑性PTSDと日々、向き合っています。快方に向かっているので、同じように困っている人のお役に立てればと思い、記事を書き始めました。
自分の理想の人生を生きるためにオススメの行動を集めてみました。
シンプルライフの参考にどうぞ。
「がんばって」 あるとき その言葉を聞いて 「うるさい」って思った もう いっぱいがんばってるのに 「がんばって」 あるとき その言葉を聞いて 「よし、がんばるぞ」って思った ちょうど 気合いを入れてほしかったから 「がんばって」 あるとき そう言ったら 不安そうな顔をされた もしかして 「きっと 大丈夫だよ」って言ってほしかったのかな 「がんばって」 あるとき そう言ったら 「任せといて」という言葉が返ってきた そう言えば 彼は
複雑性PTSDの治療中です。 「生きているのがつらい」と思い始めたのが、小学校高学年くらい。 親の影響や、学校でのいじめの影響などから、人を信じられなくなりました。 小中学生の頃は、それでもまだ、 「人を信じたい」 「誰かに助けてほしい」 と、人に心を開いていた部分もありました。 でも、大人に親のグチなどをこぼすと、 「子どものことを想わない親なんていないよ」 とか、 「今の環境はかなり恵まれているでしょ」 といった無責任な言葉で、自分の気持ちを抑圧され
複雑性PTSDの治療をしながら、子育てをしています。 正直、メンタルの不調を抱えながら育児をするのは、楽ではありません。 ずいぶん回復しているので、基本的にはおだやかに育児しているのですが、フラッシュバックしているときは別。 地獄かと思ってしまいます。 でも、複雑性PTSDを患いながらの子育てにも、メリットはあって。 それが、「子どもの気持ちに寄り添える」ということなんです。 子どもの頃に言われて傷ついた言葉、苦手だった雰囲気などを鮮明に覚えているわたしは、「子ど
気付いたら わたしは種で 気付いたら わたしは地面に根を張っていた 根を張る場所を選ぶこともできず 降りそそぐ 強い陽の光や 激しく振り続ける 雨を受け それでも 種でいることをやめられず ただ 根を深く深く のばした あるとき わたしの枝が折れた その枝の先には つぼみがあった わたしは つぼみを失い 花を咲かせることができなかった しばらくして 別の枝に つぼみができた それは すくすく育ち きれいな花になった けれど 花が
心が荒むようなできごとが 続く毎日でも 心が荒むようなできごとが なくなりそうにもなくても 明るいほうを見ていたい 明るい言葉を発していきたい 明るい気持ちで過ごしたい いつか きっといいことがあるから 明るい気持ちで蒔いた種は きっと 素敵な花を咲かせるから ーーーーーーーーーー 最後までお読みくださり、ありがとうございました。 ブログ『満たしのキョロ』を運営しています。よろしければ、こちらもどうぞ。
最近、マメに水泳の練習に行くようにしている。 というのも、水泳に行くと、ストレスが発散できるし、睡眠の質がよくなるからだ。 でも、いざプールに行こうと思うと、「めんどくさいなぁ」という気持ちがわき起こってくることがある。 「明日でもいいかな……」 「っていうか、続けるの疲れるな……」 気づくと、グルグル同じことを考えていたりする。 そんなときに、自分に問いかけることがある。 それが、 「今日、行くのか、行かないのか?」 だ。 「明日は、どうするか」とか、「
お母さんがくれたお守り ずっと握りしめて 生きてきた お母さんの 「あなたはいい子だね」 という言葉 わたしがずっと大切にしてきたこと 「いい子でいれば わたしは大丈夫」 でも あるとき いい子でいることがつらくなった 自由に気持ちを表現したい 自由にどこかへ行きたい 自由に決めたい お守りが「呪い」になった いい子でなければ いい子でなければいけないのに 本当のわたしは 自由を望んでいる ねえ お母さん お守りを手放していいかな
彼氏といるとき 「かわいらしい自分」の仮面をかぶる 友達といるとき 「親切な自分」の仮面をかぶる 子どもといるとき 「包容量のある自分」の仮面をかぶる 見ず知らずの人が近くにいるとき 「笑顔が素敵な自分」の仮面をかぶる そして、 ひとりになると 仮面をはずす あまり かわいらしくもないし あまり 親切でもない 包容力もないかもしれない あまり 笑わない 仮面をはずすと 気持ちがすーっと楽になる どんなときも こんな自分でいられたらいいのに でも 仮面をは
「メメント・モリ」という言葉がある。 「死を忘れるな」という意味で使われるこの言葉。 片づけをしながら、最近はよく「死」について考える。 わたし達は、自分の「死」を遠いことのように考えがちだが、いずれ必ず、自分が死ぬときが来る。 「いずれ死ぬのに、こんなにたくさんのモノを抱えて、何の意味があるのだろう」 そう思うと、手放しにくいモノも、潔く手放せるのだ。 いずれ死ぬ。 だったら、いま必要なモノ、いま大切モノだけが手元にあればいい。 わたしは、まだ35歳だが、そ
学生時代から、複雑性PTSDを患っている。 ちょっとしたきっかけで、フラッシュバックが起き、 「自分なんていなくなってしまえばいい」 と、自動的にスイッチが入ってしまうことがある。 でも、最近は、こういったフラッシュバックと付き合うのもうまくなってきた。 フラッシュバックのスイッチが入る瞬間を把握できるようになったし、 フラッシュバックの渦中にいても、 「あ〜、今はフラッシュバックしてるから、つらくなってるんだな。いずれ嵐は去るから、大丈夫」 と冷静でいられる
本棚の整理をしている。 「いる・いらない」を把握するために本を開いてみる。 知識や気づきを得ようと思って、しばらく購入した本のはずなのに、内容をすっかり忘れてしまっている。 こういった状態の本が複数冊……、というか、何十冊もあった。 そこで、本棚の改革を行うことにした。 「これは身につけておきたい」という内容が書かれた本を読み、読書ノートを作り、それが終わったら手放していくのだ。 作った読書ノートは、毎日、目を通して知識を定着させていく。 確実に知識を身につけら
毎日、モノをいくつか手放している。 これからも使っていきたいモノを残し、不要なモノを手放す。 この過程で、自分にとって「大切な活動」を思い出すことができた。 「この活動は何よりも重要」 「あの活動は、もうしなくてもいい」 という決断ができたのだ。 わたしの場合、ブログ・読書は「欠かせない活動」だ。 その一方で、「フェルトでマスコットを作る」という活動は、さほど重要でないことがわかった。 心の状態がシンプルになれば、部屋は片づく。 自分の心を見つめてみる。
学生の頃から、メンタル疾患と付き合いながら生活している。 夫の異動に伴って、いくつか病院を転々とし、3年くらい前に通い始めた病院で、「複雑性PTSD」という診断がついた。 ときどき、わたしは「フラッシュバック」の症状に苦しむ。 過去に経験した心の痛みがぶり返してきて、ドーンと落ち込んでしまう。 そういうときは、自分を責めるクセがとても強くなって、制御不可能になることがある。 頭では、「そんなに自分を責めなくてもいい」とわかっているのに、 「自分はなんでこんなにダメ
わたしには価値がない 物心ついたときには これが心に染み付いていた 価値がないから 努力しなきゃ 価値がないから 価値がある人みたいな成果を出せるように 誰よりも努力しなきゃ がんばって がんばって がんばって。 そしたら ちょっとだけ 成果が出たんだ でも わたしに価値がないことには 変わりがなかった もっとがんばりなさいと 親は言うし 先生も もっとこうしたほうがいいよ と言う いつになっても どんなにがんばっても 価値あるわたしには なれそうもない
昔、「自分がやりたいことや、好きなことを見つけたい」と思ったときに、やってみたことがある。 それが「2択で考える習慣」だ。 たとえば、 「国語と算数、どちらが好きか」 とか、 「肉と魚、どちらが好きか」 とか。 選択肢を2択にしてみると、パッと答えが出る。 「どちらかと言うと、国語が好きだな」 とか、 「一生、どっちかしか食べられないとしたら、魚のほうがいいな」 とか。 こんなふうに、シンプルに考えると案外、パッと好きなことが出てくる。 ちなみに、最
毎日いくつか、不要なモノを手放すようにしている。 モノを減らすために、収納からモノをすべて出すと、ときどき、 「あれ、こんなものがあったんだ」 と思うようなモノが、ひょっこり出てくることがある。 「存在を忘れていたのだから、必要ない」とも言えるのだが、 案外それが「自分にとって大切なモノ」だったりするのがおもしろい。 わたしの場合、本棚に数百冊、本があり、整理していたところ、懐かしいマンガが奥のほうから出てきた。 それをきっかけに、「マンガを読む習慣」を復活させ