「 読書記録Ⅰ「くもをさがす/西加奈子」 」2023・09・26


学生の頃、死にたかった。凄く。
いつからか、死にたさが無くなっていった。
凄く幸せな事だと思う。

どうしようもなく
「死」「病」「老」について考えてしまう。
そういうものは「生」と共に平等に存在し、「日常」の延長線上にとても自然に存在している。
だからあまり恐怖心はない。

一杯一杯になるとそういう事へ思いを馳せる事を忘れてしまう。
無限でない私の命や、全ての人の命を、軽んじてしまう。愛おしむことを忘れてしまう。それ以上に大切な事なんてないはずなのに、日々の雑多に飲まれてしまう。

怖くはない 失うものなどない
最初から何も持ってない
ああ 全て忘れて帰ろう
ああ 全て流して帰ろう
憎みあいの果てに何が生まれるの
わたし、わたしが先に 忘れよう
 
わたしのいない世界を
上から眺めていても
何一つ 変わらず回るから
少し背中が軽くなった


ください ください ばっかで
何も あげられなかったね
生きてきた 意味なんか 分からないまま

ああ 全て与えて帰ろう
ああ 何も持たずに帰ろう
与えられるものこそ 与えられたもの
ありがとう、って胸をはろう
待ってるからさ、もう帰ろう

去り際の時に 何が持っていけるの
一つ一つ 荷物 手放そう
憎み合いの果てに何が生まれるの
わたし、わたしが先に 忘れよう
あぁ今日からどう生きてこう
 
 
己や日々を共に重ねる人々の命を重んじること、愛おしむこと、そのために必要なものってそれほど多くないように思える。
見栄を手放して、本当に必要なものを一つ一つ点検するように考えていきたいとおもう。
 
命について考える
「くもをさがす」
「その日の前に」

やっぱり非現実的で、具体的なものとして私の中に備わっていない。どうしようもなく揺らいでしまう自分が安易に想像できてしまう。

当たり前すぎて忘れがちだけれど、人生は一回。たった一回しかないんだ。

どんな風に変わろうと、ずっとこの体のボスは私なんだ。

「老いていくということは、昨日までできていたことができなくなること。それはある日急におこったり、いつの間にか始まっていたりする。私たちは終わりにむかって、着実に足を進めている。私はこの、徹底的に弱った体のボスだった。」

「私は結局、私が見ることができる範囲のものしか見ておらず、見たいものしか見ずに済む環境にいる。」

「作家のオーシャン・ヴォンは著書「地上で僕らはつかの間きらめく」の中で、主人公のリトル・ドッグにこう語らせている。
僕たちは祈りを保持しようとするーもう体が持ちこたえそうにないと分かっているときも。僕たちはそれに食事を与え、姿勢を楽にし、体を洗い、薬を飲ませ、体をさすり、時には歌を聴かせる。僕たちがそういう基本的な部分で世話をするのは、勇気があるからでも献身的だからでもなく、それが呼吸のように、人類の根幹にある行動だからだ。ときがそれを見捨てるまで、体を支えること。

私たちはそれがどのような状態であれ、命を出来うる限り保持しようとするのだ。そしてそれは勇敢さや、自身への献身からくるのもではない。ただの衝動だ。(だから、その衝動を断ち切れる決意をした人の勇気は、計り知れない)
それでもやっぱり、皆が私たちを「勇敢」だと言ってくれるのは、そして、私たちの生そのものを祝福してくれることは、とても嬉しかった。」
この文章が印象的だった。
私一般的ではない働き方をしていて、それに対して「かっこいい、勇敢だ」と評されることがしばしばあった。
そういわれる度に、むずがゆく違和感を感じた。
できることなら私は普通に生きたかった。でもそれができなくて、でも生き延びたくてその道を選んだまでだから。
その見え方の乖離に苦しんだ。

それはきっと他者も同じことだ。私の目には勇敢に映る彼れらにとって、その選択は生きるための衝動的なものなのかもしれない。
その乖離を埋めることは難しいけど、忘れずにいたいと思う。

いつか西さんの作品を手に取るタイミングがきっとくるだろうな、と感じていた。
何か自分に馴染まない作品と言うものがある。言葉がさっぱり入って来ないのだ。
そういうときは少し名残惜しい気持ちはあるけれど、すぐに手放し、離れるようにしている。それは私にとって必要な出会いのタイミングではなかったのだとそう思うようにしている。

「その考えかたも分かる」「素敵だって思う、でも…」そんな「でも」をどうしようもなく隠せないような考えかたに出会うことがある。
きっとそう物事を捉えられたら良いよな、って分かっているのだけれど馴染めない自分がいて。
でもその「良いじゃない」「素敵」だと思える感情と、「でも、やっぱり…」としっくりこない感情を、どっちも大事にしてあげること。その絶妙なバランスがきっと私らしいのではないだろうか
「明けない夜はない」という言葉に「わかってる。でも、この闇夜が今、つらいんだよ」と思ったことがあった。「やまない雨はない」という言葉に「わかってる。でも今、頬を打つ雨がつらいんだよ」と思ったことがあった。理屈はわかってる、でも……と感情に溺れていた自分を思い出して占いを書いてる
綺麗事は綺麗だ。魅力的だ。でも綺麗じゃない私も魅力的です。

自分の体が何よりの基盤である。身体が健康であれば、自然と精神も上向く。精神が安定していれば、身体もいうことを聞いてくれる。心と身体は一つだ。

作家のオーシャン・ヴォンは著書「地上で僕らはつかの間きらめく」の中で、主人公のリトル・ドッグにこう語らせている。
僕たちは祈りを保持しようとするーもう体が持ちこたえそうにないと分かっているときも。僕たちはそれに食事を与え、姿勢を楽にし、体を洗い、薬を飲ませ、体をさすり、時には歌を聴かせる。僕たちがそういう基本的な部分で世話をするのは、勇気があるからでも献身的だからでもなく、それが呼吸のように、人類の根幹にある行動だからだ。ときがそれを見捨てるまで、体を支えること。

私たちはそれがどのような状態であれ、命を出来うる限り保持しようとするのだ。そしてそれは勇敢さや、自身への献身からくるのもではない。ただの衝動だ。(だから、その衝動を断ち切れる決意をした人の勇気は、計り知れない)
それでもやっぱり、皆が私たちを「勇敢」だと言ってくれるのは、そして、私たちの生そのものを祝福してくれることは、とても嬉しかった。

また大切な本に出会ってしまった。「くもをさがす」

生死について考える
生きる喜びを教えてもらえる
言葉の力を感じる

自分の意志ではどうしようもできない避けがたいものに出会うという経験。無痛文明論を思い起こさせた。

「だから」と言って何かが変わることも、変えることは愚かであると思うけれど。
目の前の人は何かを患ているかもしれない。大きな病気を体に宿し、必死に戦っているのかもしれない。余命僅かかもしれない。大切な人を亡くしたかもしれない。
自分もそのようになる可能性は大いにあり得るということ。
一つそういう視点を持つことで大らかで慈愛に満ちた選択を取れるかもしれない。そういう視点を忘れずにいたいと思う。表現的なものとしては傍から見て何も変わらないかもしれないけれど、眼差しを人知れず、少しずつ密かに豊かにする事ができたらいいな。

「絶望から逃れる道や方向が分からなくても、精神を広げることはできる。広げることによって、いつか絶望が耐えられるものにならないとも限らない。(理由のない場所)」

電車の中や街角で、青年誌の扇情的な写真や「太るな」「老けるな」「ムダ毛をはやすな」そんな風に、あらゆるNGを突き付けてくる広告を目にした。そしてそれらを見ているだけで、身体で騒音を感じていた。

自分の身体を取り戻す、ということを、よく考えるようになった。私葉今まで、あらゆる影響を受け、それを内面化し、結果自分が本当はどういう自分であるのか、なにを愛して、なにを嫌悪する可を、少しづつ手放して言ったように思う。やはり「老けたくなかった」し「毛を処理してないとみっともない」とどこかで思っていた。それらすべてを手放すことが正しいわけではないし、実際に私はすべてを手放せていない。でも、流行りの服を廃棄し、ムダ毛の処理を、そしてファンデーションを塗るのをやめた私葉その分、何かを取り戻しつつあるように思う。少なくとも今の私には、バンクーバーのこの静けさが必要だった。

年を取るのが怖かった。若さが全てだ、おばさんになったらおわりだ。そんな風に叩きこまれていた世代だった。つまり、脅されていた。
でも、詩文が年を重ねておばさんになったいま、なにを怖がっていたのだろう、と思う。なにが私達を脅していたんだろう。おばさんになったからと言って、自分の喜びにリミットをつける必要はない。
年を取ることは、自分の人生を祝福することであるべきだ。私は44年間、この身体で生きてきた。もちろん身体的な衰えは感じる。そして私葉、トリプルネガティブ乳がんを患っている。でも、私は喜びを失うべきではない。

人は一人では生きてゆけない。改めて強く感じる。それは当たり前のことのはずなのに、やはり私はどこかで、一人でも生きて行ける、そう驕っていたのではないだろうか。少なくとも、東京ではそうだった。
(結婚したが)独立した人間であることは絶対に手放さなかった。銀行のことも、病院のことも、ローンのことも、もちろん駐車場のことも、自分一人でできた。一見困難に見える事でも、努力すれば、必ずなんとかなった。
でも。バンクーバーでは歯が立たなかった。ああ、自分は一人では何もできないなあ。弱いなあ・日々、そう思った。そしてそれは、恥かしいことでも忌むべきことでもないのだった。私は弱い。日々そうやって自覚することで、自分の輪郭がシンプルになった。心細かったが、同時にすがすがしかった。

自分の身体を愛したい
「くもをさがす」
「黒人モデル生い立ち」


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