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YouTube大学、「安いニッポン」を見て思うこと

中田敦彦氏の、YouTube大学で、勉強している。

学生時代に、詰め込み式で勉強したことは、殆ど頭に残っていないし、当時、記憶したことは、形式的なことだけで、私の心を動かすものは、殆どない。

今更ながら、「そういえば、あの時に習ったあれって、本当は、一体どういう意味だったんだろう?」と、改めて、ググってみることも多い。

そんな折、友人が話していたYouTube大学なるものを知り、以来、勉強させて頂いている次第。

そんな中、遂に、待ち望んでいた授業が公開された。

その名も「安いニッポン」。

見てみて、”やっと、この時が来たな”という感があり、拙いながら、過去20年、自分なりに体験して来たことを、この場でシェアさせて頂けたら、と思う。

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2001年の春、それまで働いていた職場を去り、私は、新天地、シンガポールに旅立った。

「日本は半永久にお休みして、新しい国で、新しい生活を始めよう」という目的。

会社員時代の環境は、実は、そんなに悪いものではなかったと思う。

けれど、学生時代の海外生活体験や、外国人と仕事をする中で、彼らの生活ぶりや、休暇の長さ、それも含めた心の豊かさを比較した時に、正直、それ以上、日本で仕事を続けることに、限界を感じていた。

言われたこと、ノルマは頑張ってこなしていたけれど、欧米人のように、もっと人生を満喫したい、長い休みを取って旅行に行きたい、ハメを外して遊びたい、そんな密かな願望を持っていたし、コンピューターのスクリーンは、タイの美しい海で、いつかこんなところに住みたいと、夢のように願っていた。

職場には、帰国子女や、海外就労経験者が、少なからずいたので、彼女達を片っ端からランチに誘って、現地の話を聞き、自分に取って、一番良さそうなのがシンガポール、ということになった。

正直、自分に取っては馴染みの深い、北米や、ヨーロッパが良かったのだけど、ワーキングホリデーに当てはまる年齢でもなければ、大金を払って、どこかの大学に入り直すような経済力もなく、現実的に考えて、労働ビザが、比較的取得し易い国ー当時は香港、台湾、シンガポールが候補ーから、選ぶこととなった。

全く知り合いもおらず、どんなところか、想像さえ付かず、また、自分のやっていることー当時は、他国で働くということが、そこまでポピュラーではなかったーが、果たして正しい選択かどうか、定かではなかったけれど、何しろ、自分に2週間だけ休暇を与え、うまくいかなかったら、日本で再就職しようと決めて、かの地に飛んだ。

住宅事情により、一つのユニットをシェアするのが一般的なことを、渡星前に知った為、短期間で、部屋貸しをしてくれる人を、予めウェブで探し、そこにお世話になりつつ、彼女達の生活談を聞き、シンガポール、という国の概要を少しずつ掴んでいった。

日本では、海外と関わりのある仕事をしていたので、比較的自由な風潮だったとはいえ、真面目に働き、過労で入院したこともあれば、振り返ってみれば、不当な扱いも、当時は、「日本の社会の中では当然」という枠の中で、我慢していた。

特に、新世代と旧世代が混じった会社で働いた時は、その狭間の中で、今後も変わらないであろう、日本に根付いたの古い体質の強さを肌で感じ、シンガポールでは、別のシステム下で働いてみようと、米系企業に仕事を得た。

こうして、労働ビザを無事取得し(=発行条件は、今も昔も厳しいので、念の為)晴れて、シンガポールの住人となることが出来た。

常夏で、活気に溢れ、当時は物も安く、日本では、何かと足かせとなる世間体や重荷からも開放され、初めて味わった開放感。

「日本人」というだけで、概ね称賛され、好意的に思われ、非常にラッキーだったし、これからも、この評価が変わらねば良いなと思う。

また生活費も、家賃以外は、当時はまだまだコストも低く、他の多くの国と同様、どこに行っても家具付きで、スーツケース一つで入居出来て、楽だった。

中華系が多い国柄、風水を取り入れた建物が多く、また、コンドミニアムには、大抵プールが付いているのだが、多くの中華系の女性は、日焼けを気にして、子供以外は利用者があまりいない。

なので、週末は、誰もいないプール脇のベッドに寝転がって、日がな本を読んで過ごしていたことも、今となっては夢のように思い出される。

また、裕福なローカルも多く、週末になると、自前のボートでウェイクボードに興じる人、ヨットで涼みにいく人、国外に投資物件を持っている人など、生活にも心にも余裕のある人が、周りに多くいて、逆に彼らの、資産運用やお金を得ることに対する関心の高さには、舌を巻くことも少なからずあった。

例えば、誰かに会って、挨拶もそこそこに、”君、何の仕事で、いくら稼いでるの?”と聞かれることは、よくあったし、また、何で、どうやって儲けるか、という話をする人も、かなりの数いた。

日本にいた時、一介の会社員でいることに甘んじて、のほほんと暮らしていた自分には、かなり大きな衝撃だったが、逆に自分が何を人生に求めているかも、浮き彫りとなった。

ちなみに、特記すべき項目の一つが、シンガポールの先進ぶり。

金融を含めた様々なシステムが、日本より、遥かに先に行ってると、感じた。大学を出たての新卒の女の子に、”日本人なのに、あなたは、インターネットバンキングも知らないんですか?”と鼻で笑われ、中華系の仲間と大勢で食事に行って、支払いの段になって、慌てて携帯の計算機を取り出す間も無く、”あなたはいくら”と、長い勘定をみながら、秒で計算する彼らをみて、「この人達には敵わないな」と心から感じた。

ちなみに、私が仲良くしていた遊び仲間は、アウトローな感じの子が多く、会社で働いている子はあまりいなかった。そんな子達が、大学を卒業した日本人よりよっぽど頭がいいんだと、妙に感心したことを、思い出す。

もちろん中華系だけでなく、仲間内にはインド系や、マレー系の子もいたけれど(シンガポールは、複合民族国家)、インド系も、中華系と同様、頭の回転も、話すスピードも断トツで速く、比較的おっとりしたマレー系には、家族を大切にすること、そして規律正しい生活することを学び、何しろ充実した6年を送った後、一旦、シンガポールでの生活に区切りをつけ、次なる目標を達成することにして、帰国した。

その時は、日本で何が待っているか、知る由もなく。

(続く)


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