ファッションの制服化は可能か否か~日常というシチュエーションを紐解く~
前回に引き続き、ファッションの制服化シリーズです。今回は、制服化する上で切り離すべきか切り離さないべきかのシチュエーション問題について。これをどこまで紐解くかで、その人の制服化クローゼットのゴールが見えてくる?
生活と持つべき服は比例する。
私は、ファッションの制服化を目指してから、幾度もこの事について考えている。
そう。服は、比例する。生活スタイルと。
かなり極端な例えになるけれど、スーツを要する職業の人間のクローゼットには絶対にスーツがあるように、子育て真っ最中の人間はシルクブラウスを公園に行くとき中々選ばないだろうし(子育てした事ない)、在宅ワークの人間にスーツは然程必要ないはずなのだ(在宅ワークした事ない)。
この様に極端な例えなら、服は生活スタイルと比例すると言われても解決策がありそうな気がする。皆様もきっとそう。
しかし、人生はそんなに単純でも極端でもなくほぼグレー。
”日常”でほとんどが構成されている。
白か黒のシチュエーションに遭遇する事は限局的か稀であり、それは日常ではなく比日常。
しかし、冠婚葬祭と日常服だけ持っていればいいのかと問われたら、そうではないから困っている。
一般人の私の日常にもグラデーションがある。いや、一般人だからこその日常の幅が広域なのかもしれない。
まず、前シリーズでも話した、仕事服。これは可能だ。
日常においては、わりとしっかりと区切れるシチュエーションだと思う。
しかし、それ以外の日常は?
友人とお茶をするのも日常だし、彼と映画デートをするのも日常。
だが、しかし。
時には少しアクティブな予定を組む事もあるし、時にはドレスコードを要するレストランで食事を楽しむ事もあるだろう。
これなのだ。
日常を紐解いていくと、数限りないありとあらゆるシチュエーションが発生する。まさにグラデーション。冠婚葬祭ではない、比日常ではない、ちょっといつもより○○なシチュエーションのオンパレードである。
なぜなら、近くのほんわかカフェでお茶をする時とどこかのラグジュアリーなホテルでお茶をする時に同じワンピースを着るのは、やはり何とも言い難い違和感があると思うのだ。
大前提としてファッションは自由だし、自信が心地の良い好きなものを身に付ければ良いとは思う。
だが、そこに”私自身”は含まれない。残念ながら。私という人間は、どちらかと言えばTPPOを気にするタイプに分類されるからだ。
それなりにその場の雰囲気に合っている服でないと居心地が悪くなってしまう。さらに言えば、元は自他共に認める程のファッションオタクでもあったのでさらに厄介である。
やまとなでしこの神野桜子やSATCのキャリーブラッドショーには程遠いものの、ドラマに出てくる彼女達の夢のようなクローゼットにとても憧れた。
今では到底そうは見えないであろう風貌でも、しっかりとその名残だけはあり、コーディネートが完成されないとこれまた居心地が悪くなる性質も持っている。
そして、極めつけは、着回しが大変下手である。
着回し能力は、日常というシチュエーションでかなり重要な技術なのに。
少ない服で、クローゼットの制服化に成功している方をみると、もれなく皆様着回し上級者。小物の使い方も上手くて、何とも素敵。どこに行くにも軽やかで、それでいてTPPOは外していない。
もちろんその方のファッション自体の特徴はあるけれど。
こうして考えると、日常というシチュエーションに対応できるだけの制服化されたクローゼットとはお洒落上級者でないと完成しないのか?とすら思ってしまう。
お洒落上級者でないなら、いっそのことシチュエーションと服を切り離すべきなのか?と。
グラデーションではなく、せめて色分けだけに留めるべきなのか。
服の数はいらないけれど、TPPOは外したくない。しかし、そのTPPOは私の目の前で壮大なグラデーションを描いている。
楽をしたくて、クローゼットの制服化に取り組んでいるのに、必ずこの壁にぶち当たるのだ。
「今度○○なのに服がない」「さすがにこれは派手すぎるし」「これは普段着すぎる」といった感じ。結局ドタバタしている始末。
コロナも5類に移行され、以前のように(クローゼットの制服化前)予定にバリエーションが増えてきた今だからこそ、余計に困っている状況である。
やはり、シチュエーションを考慮してそれなりに服の数を増やすしかないのだろうか。
皆様はクローゼットの制服化に一体何枚の服は必要?
答えの出ないまま、今日へこの辺で。
次回は、個人的にクローゼット制服化の基盤にしている、パーソナルデザインについて書きます。
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