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【講座】環境の哲学 第1回 イントロダクション

 みなさんこんにちは。これから【講座】環境の哲学をはじめていきたいと思います。よろしくお願いします。

 今回は第1回ですので、イントロダクションということで、この講座の問題意識と、この講座で取りあげていくテーマについて紹介していきたいと思います。


1.この講座のテーマと目標について


 まずは、この講座では、環境思想の成立史、思想的な展開過程を紹介しながら、「環境」とは何か、「環境問題」とは何か、「エコ」とは何か、「持続可能性」とは何かについて本質的に考えていきます。

 そして環境の時代のはじまり以来、環境をめぐる思想や哲学が何をなそうとしてきたのか、またその試みが結局何をなせなかったについて理解し、現在の私たちが改めてどのように環境というテーマと向き合うのかということを考えてもらうことが目標となります。

 それでは引き続いて、この講座の問題意識についてもう少し詳しく見ていきたいと思います。


2.この講座の問題意識


 まず、この講座を覗いてくださる方は、環境問題に興味を持っている方だと思いますので、環境というテーマについて最低限のイメージは持っていると思われます。それでは、例えば皆さんが高校などで教わった環境をめぐるイメージとはどのようなものでしたでしょうか。

 以下、具体的にあげてみますが、例えば

  • 今日、地球環境問題は深刻な状態にある。

  • 気候変動や災害、このまま放置していたら、人間社会は困ったことになる。

  • 人間は自らの豊かさのために自然を破壊してきたが、それによって多くの動物たちが困っている。

  • 人間のためではなく、“いのち”や地球のために、私たちは立ち上がらなくてはならない。

  • そのためには、ひとりひとりの意識を変え、エアコンの温度やゴミの分別など小さな事から始める必要がある。

 と、言ったところなのではないかと思います。

 確かに環境問題は深刻であるということは間違いないのでしょう。しかしこの講座が注目したいのは、環境問題がいかに深刻なのか、あるいは、私たちが環境に優しい行動を取るべき倫理的根拠はどこにあるるのか、ということではありません。

 むしろこの講座が見ていきたいのは、こうしたイメージの背後にある、物語や世界観、そしてこうしたイメージをもたらした思想とは何だったのかということです。

○私たちの持つ環境をめぐるさまざまなイメージ

 では、私たちが環境というキーワードをめぐってどのようなイメージを持っているのかについて考えてみましょう。

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 例えばこの写真はどのようなイメージでしょうか。シロクマです。これは環境というキーワードがでてくる場面では、一度は必ず目にするものです。そしていわゆる環境のイメージらしいイメージと言えるものだと思います。

 しかもこのシロクマはただのシロクマではありません。痩せたシロクマで、とても可哀想なシロクマです。温暖化によって北極の氷が溶け、それによって餌が取れなくなり、それで飢えて苦しんでいます。そしてその原因は私たち人間にある。こうしたひとつの物語を象徴しているからです。

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 これも環境というキーワードからとても良く連想されるイメージだと思います。地球があって、緑があって、地球や緑をかけがえのないものとして人々が大切にしているというイメージです。

 先のシロクマのように、人間社会がもたらす負の遺産と、それに苦しむ野生動物といったイメージを「ネガティブな環境のイメージだ」とするなら、こうした「緑を守る、自然を守る」といったイメージは、さしあたり「ポジティブな環境のイメージ」と言うことができるでしょう。

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 次は、環境というよりも”自然”のイメージです。豊かな緑と木々、そして木漏れ日、ここに昆虫や野生動物がいればさらにそれっぽいと思います。そして人間の手が入っていない原生林だと言えば、文句はないでしょう。

 この自然という言葉は、環境という言葉と非常に深く結びついています。その証拠に、例えば私たちが「環境に優しい○○」というとき、その「環境」を「自然」に置き換えてみるとどうでしょう。不思議なことに、それを「自然に優しい○○」と言っても、ほとんど意味が変わりません、では、「環境」とは「自然」のことなのでしょうか、また、「自然」とは「環境」のことなのでしょうか?

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 環境や自然に深く結びつくキーワードとして、もうひとつ”エコ”という言葉があります。ここにあげた三つの写真は、それぞれエコから連想される代表的なイメージです。最初は風力発電の風車、次は牛乳パックがトイレットペーパーへとかわる、つまりリサイクルです。そして最後は、野菜、といっても化学肥料や殺虫剤をできる限り使わない有機野菜を表しています。

 「環境に優しい」が「自然に優しい」に置き換えられたようにエコの場合はどうでしょう。

 「エコに優しい」という言葉は編ですね。その意味では「エコ」という言葉は「自然」とは違って、必ずしもそのまま「環境」ということばを置き換えることはできません。しかし「エコ」はやはり「環境」と深く結びついているはずです。

 ヒントとなるのは、この三つの写真の共通点です。実はこれらはいずれも先に見た「緑を守る、自然を守る、あるいは地球を守る」といった、すなわち「ポジティブな環境」に具体的に貢献するものであるということです。

 そういう意味では、「エコ」とは何かと聞かれた場合、それは「ポジティブな環境を実践すること」である、とひとまず答えれば、われわれの実感と大きく食い違うことはない、と言えそうです。

 さて、以上のことからいくつかのことが見えてきたと思います。私たちは普段から何気なく「環境に配慮した」、「自然に優しい」、「エコな自動車」といった言葉を使っていますが、まず、「環境」、「自然」、「エコ」という言葉は、互いに似た意味を持ち、深く結びついているという事があげられます。

 そして第二に、これらがいずれも非常に強力な特定のイメージを伴って理解されている、ということが言えるでしょう。

  ところが、このイメージがやっかいだったりするのです。

○「核戦争は環境破壊である」のパラドックス

 そのことを考えてもらうために、ここでひとつ、皆さんになぞかけをしたいと思います。それは「核戦争が環境破壊であるかどうか」、という問いです。

  皆さんがご存じのように、もし核戦争が生じてしまったら、大量の生物が死に絶えるでしょうし、地上は高濃度放射線に汚染されてほとんどの生命は生きられなくなります。しかも放射線の自然消滅には数万年単位の時間がかると言われていますので、そのように考えれば、間違いなく核戦争はとんでもない環境破壊だということになるでしょう。

  しかしこの常識的な考えが、実は踏み込んでいくと、それほど単純なことではないことが分かるのです。

 例えば私たちを含め地上の多くの動物は酸素がなければ生きられません。しかし地球の大気にはかつて酸素はほとんどありませんでした。有害な紫外線を吸収してくれるオゾン層も存在しませんでした。

 それらができたのは20億ほど年前に、当時シアノバクテリアという新種のバクテリアが誕生し、大量の酸素を放出した結果だというように言われています。それが大気の組成を変えてしまい、オゾン層ができるほど大量に放出されたわけですから、まさに環境が激変したわけです。しかも当時のバクテリアは低酸素の環境に適応しており、酸素はむしろ猛毒だったことを考えれば、この事態はシアノバクテリアという生物が引き起こした壮絶な環境破壊だったともいえるでしょう。

 ところが、私たちの立場からすれば事態はまったく違って見えます。なぜならその環境破壊がなければ、今の生態系は成立していなかったことになります。酸素を必要とする私たちがこうして生きていられるのは、まさにそのシアノバクテリアのおかげだということになるからです。

 ここから先は思考実験ということになりますが、もしそうだとすれば、次のようにも言えるのではないでしょうか。仮に核戦争が起って現生生物が絶滅しても、生命そのものは生きながらえることができるかもしれません。そして何時の日か、放射線に適応した生命が進化して、放射線がなければ生きられない生物として進化したとしましょう。

 そしてそこからわれわれと同じ知的生命体が誕生して、文明を築き、過去の地質年代について研究します。そして過去にホモサピエンスという生物が行った所業の痕跡を発見したとき、それをどのように理解するでしょうか。それを同じように環境破壊と見なすでしょうか。

  さて、皆さんはこの問題をどう考えますか。われわれがあたり前に使う「環境」や「環境問題」のイメージだけでは、おそらくこの問題は解けないのではないかと思います。このなぞかけは、実は私たちが用いている「環境」概念の矛盾をついたものなのですが、詳しいことはこの講座を通じて見てきます。

○「自然を保護する」のパラドックス

  せっかくなので、同じような「なぞかけ」を、もうひとつ紹介したいと思います。

 先に見たように、「環境」という言葉が持っているひとつのイメージは「緑を守る、自然を守る」というものでした。「緑を守る、自然を守る」ということをここでは仮に自然保護と呼ぶことにしましょう。

 しかし、ここで問いたいのは、そもそも自然保護とは何かということです。

  例えば最初の事例として

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  • 世界遺産である屋久島のスギを、リゾート開発の波から保護する。

 と言った場合、これは自然保護と言えるでしょうか。おそらく異を唱える人はいないでしょう。では、下の例はどうでしょう。

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  • 合掌造りで有名な白川郷の里山や田園風景を、リゾート開発の波から保護する。

 確かに、かやぶき屋根の家屋も、里山の風景も、人間が作ったものです。しかしこれも、おそらく多くの人は自然保護だと言うと思います。

問題はここからです。それでは次の事例はどう思いますか。

  • 集落の家畜や畑を、野党の襲撃から保護する。

 これは少し意見が分かれるのではないでしょうか。というよりも、多くの方がこれは自然保護ではないと感じるかもしれません。しかし考えてみてください。田園風景を守るのが自然保護だと言うのであれば、「家畜や畑」を保護するのも自然保護とはならないでしょうか。

 また、「リゾート開発から保護」することは自然保護で、「野党の襲撃から保護」するのは自然保護ではないという方がいるかもしれませんが、「家畜や畑」が破壊されるという点では両者は、同じことではないでしょうか。

  次の事例はどうでしょう。

  • 新しく建設されたニュータウンにイチョウの並木道を設置する。

 これも意見が分かれるかもしれません。ある人は、「イチョウの並木道」は人工的につくられたものなので「自然」ではない、というかもしれませんが、それを言ったら先の白川郷の里山も「人工的に作られたもの」ではないでしょうか。

 実際、私たちは美しい公園などを人工的に整備して、「自然と調和した街」と普通に言っていますので、その感覚で言えば「イチョウの並木道」を守るのも自然保護とならなければおかしいでしょう。

 次ですが、

  • 予算を抑えた緑化のために、オフィスにプラスチックの木を植える

  これはさすがに大半の人が自然保護ではない、と言うでしょう。確かに「プラスチックの木」は人工物ですが、生命体ではないからです。

 では、このように考えると、自然保護かそうでないかは、「イチョウの並木道」と「プラスチックの木」のあいだにあるということになるのでしょうか。あるいは「人の手が入っているもの」はすべて自然保護とは言えないので、屋久島の杉だけが正しい意味での自然保護ということになるのでしょうか。

  別の角度から考えてみます。

  • 白川郷の里山や田園風景を、野生のイノシシから保護する

 これはどうでしょう。これまでの事例と違うのは、脅威の対象が人間ではないということです。そしてイノシシが野生動物であることを考えれば、むしろこちらが「自然」となるのではないでようか。

 イノシシは悪意があって里山を荒らすわけではないので、これでは人工物を「自然」の脅威から守るということになりませんか。しかし、守ろうとしている対象はまったく同じもののはずなのです。

 少し長くなりましたが、最後の事例です。

  • 世界遺産である屋久島のスギを、観光産業の目玉とするために保護する

 これもおそらく意見が分かれると思います。というよりも、一部の人はこれは純粋な「自然保護」ではないと感じます。なぜならここで保護の動機となっているのは「自然」のためではなくて、「人間」のためだからです。

 つまり、スギが保護されるという結果は同じであっても、動機や目的によっては、われわれはそれをどこか自然保護とは呼びたくない部分があるわけです。

  さて、若干頭が混乱してきたかもしれません。こうした問いに対するすっきりとした説明はいずれ行うとして、ここで皆さんに感じてもらいたかったのは、先の核戦争の事例と同じで、われわれの持っている「環境」や「自然」といった言葉には、非常に強力なイメージ、あるいは非常に理想化されたイメージを伴うゆえに、踏み込んで考えていくと、実はさまざまな「矛盾」を含んでいると言うことです。

 後半の事例で言えば、「自然保護」といっても、そこでははっきりしたイメージがある割に、「自然」が意味するもの、あるいは「保護」が意味するものについて、実はかなりいい加減に理解されているということです。

  したがって、われわれが環境というテーマにしっかりと向き合っていくためには、われわれが持っているこうしたイメージの「負の側面」を知っておく必要があります。そして、こうしたイメージは、歴史上、いかにして形作られてきたのか。その背景には何があったのかということを知らなければならないのです。

  そしてこの講座では、それを知るために、環境主義エコロジー思想(これを難しく表現するとエコロジズムとなるのですが)これら二つの思想について踏み込んで見ていきたいと思います。

○環境主義とは何か 

  まず、環境主義とは、一言で言えば、今日私たちが用いる「環境」の概念の生みの親となった思想のことです。

 1960年代に、汚染(公害)、自然破壊、動物の絶滅、人口爆発、資源枯渇といった問題が認知されるようになりましたが、当初それらは別々の問題として切り離されて理解されていました。

 しかしやがて、これらの問題は個別的に存在しているのではなく、切り離して考えることができないという認識が広がっていくことになります。そしてこれらを人間の生存の関わる環境劣化の問題という意味で、まとめて環境問題と名づけたこと、別の言い方をすると、ここに環境問題というひとつのカテゴリーを与えたこと、これががすべての始まりとなったのです。

 文明社会は、自分たち自身の生きる基盤さえ破壊しつつある。そうした環境問題を克服するためには、人々の意識を変え、社会を変え、新しい世界の在り方、もうひとつの世界の形を模索しなければならない。

 これが環境主義というひとつの思想の核心部分です。次回以降に詳しく見ますが、要するに、私たちの持つ素朴なイメージの背景には、こうした一つの物語や世界観、あるいは思想、難しく表現すればイデオロギーが存在するわけです。

○エコロジー思想とは何か 

 もうひとつ重要となるのは、エコロジー思想です。

 それは環境主義の問題意識の中から生まれ、それが70年代から80年代にかけて、一貫した思想体系として形づくられたものですが、最大の特徴は、環境主義の目指す“環境危機を克服した新しい社会の形”のイメージを、エコロジーをヒントに構想したところです。

 環境主義は環境問題の重要性と新しい社会の必要性を説きましたが、その新しい社会がどのような原理によって成立するのかについては説明しませんでした。エコロジー思想は次のように考えます。

 まず人類が環境問題に直面した根本的な原因は、図のように、私たちの世界観が「人間中心」であることに由来する。つまり、あくまで自分たち人間が中心にあって、大気や海、動植物たちなどは、すべて人間が幸せになるための道具に過ぎない。そして政治も経済も社会も価値観もそうした人間中心主義に基づいて形作られてきた。したがって、どんな技術力を高めたとしても、この根本的な世界観が変わらない限り、環境問題は永久に解決しないだろう、というようにです。

 そして新しい社会の姿について次に用に説明します。

 私たちはエコロジーを学ぶことによって、大気や海、そして生けとし生けるものすべてがつながりあい、巧みなバランスによってこの豊かな生態系を形作っているということ、そして人間もその一部に過ぎないということを理解することができるはずです。

 つまり、環境問題が解決したもうひとつの社会があるとするなら、その中心にあるべき原理は、人間中心ではなくて、すべての存在がつながり合い、人間もその一部として相応な形で生きて行くというエコロジー的な世界観であるということ、そしてもうひとつの社会のために、われわれはそうした世界観を基盤に、政治も経済も社会も価値観もすべて作り直さなければならない、と言うわけです。

  これがエコロジー思想の核心部分だと言うことができます。実は私たちが「環境」や「自然」について考えるときに持っているイメージは、このエコロジー思想の影響を相当受けていますし、そもそもわれわれが「エコ」と呼んでいる言葉の原型こそ、他でもないこのエコロジー思想なのです。

○ここまでのまとめ 

  以上を踏まえて、この講座を通じて見ていきたいことを以下、まとめておきたいと思います。

 まず、これまで見てきたように、われわれの用いる「環境」、「自然」、「エコ」という言葉には、この環境主義と、エコロジー思想のもたらした非常に大きな影響力が反映されているということです。

 そしてそのことを念頭に、環境主義やエコロジー思想といったものが、いかなる時代に、またどのような人々によって形作られたものだったのかということ、加えて、環境主義やエコロジー思想が目指したものとは何だったのか、そこに見られた思想的な広がりとはどのようなものだったのか、そうした思想が今日の時代に残したものとは何だったのか…

 さらには、先に核戦争や自然保護をめぐる矛盾について触れたように、そうした思想にはどのような矛盾点や問題点があったのか、それが今日どのような負のひずみをもたらしているのか…

 この講座では、こうしたことについて見ていきたいと思っています。


3.この講座で取りあげる予定の内容


 それでは、ここからはこの講義で扱うテーマについて、今後の予定を踏まえながら見ていきたいと思います。

 第2回と第3回を通じて見ていくのは、先に触れた環境主義の成立過程についてです。前述したように、環境主義は、われわれが用いている今日的な意味での「環境」の概念の生みの親だと言うことができます。

  • 【第2回】 環境主義の誕生とその問題意識(前半)

    1. 「環境」という言葉に伴うイメージ

    2. そもそも「環境」とは何か?

    3. 1960年代の時代の情景と環境主義が成立するまで

  前半となる第2回では、再びわれわれの「環境」という言葉の持つイメージの問題を振り返った後、まずは「環境」概念そのものについて深く考えてみたいと思います。そしてそのなかで、もともとの環境概念が、私たちの知っているものとはまったく異なるものだったということについて確認することにしましょう。

  続いて、環境主義が成立した1960年代について焦点をあて、それがどのような時代だったのか、そして環境主義が提唱した環境というテーマが、当時いかに斬新なものだったのかということについて確認していきたいと思います。

  • 【第3回】 環境主義の誕生とその問題意識(後半)

    1. 環境主義の旗手たち

    2. 環境主義の四つの精神

    3. 「環境」をめぐるまとめと考察

 第3回では、「環境主義の誕生とその問題意識」の後半として、最初に、レイチェルカーソンの『沈黙の春』や『成長の限界』といった、環境の時代を切り開くことになったいくつかの重要な本について、そこにどのような事が書かれていたのかについて見ていきます。

  そして環境主義のなかに内在していた四つの精神、具体的には、科学技術万能主義批判、産業主義・物質主義批判、破滅へのリアリティ、人間中心主義批判について確認します。

  そしてそれを踏まえたうえで、環境主義が成立して半世紀が過ぎた現在、改めてそのテーマをどのように考えることができるのかについて考察しましょう。 第4回と第5回では、自然保護思想について焦点をあててみたいと思います。実は自然保護思想は環境主義よりも起源が古く、19世紀末から20世紀初頭にかけて形作られたものです。

 とりわけここで「原生自然の保存」をめぐる思想が出てくるのですが、これが環境主義からエコロジー思想が形作られるにあたって、非常に重要な役割を果たすことになります。また、エコロジー思想につきまとう、人間が先か、自然が先かといった深刻な矛盾も、この自然保護思想が先取りしていると言えるのです。

  • 【第4回】 自然保護思想の誕生と原生自然の保存の思想(前半)

    1. そもそも「自然」とは何か?

    2. 自然保護の歴史とアメリカ

    3. 自然に対する二つの精神--開拓者としてのアメリカと原生自然に包まれたアメリカ

  第4回では、まず「自然」とは何かについて考えます。そしてわれわれの言う「自然」が、まさに北米、つまりアメリカを舞台に形作られた自然保護思想の絶大な影響を受けていることについて見ていきます。

  そしてとりわけ、人間の手が入っていない自然こそ最も素晴らしい自然であり、それを手つかずのまま保存することこそ最も重要であるという「原生自然の保存」の思想が北米でどのように形作られていくのかについて見ていくことにしたいと思います。。

  • 【第5回】 自然保護思想の誕生と原生自然の保存の思想(後半)

    1. 自然保護をめぐる対立--「保全」の思想と「保存」の思想

    2. エコロジーと「保存」の思想の完成

    3. 自然保護思想がもたらしたさまざまな陥穽

 第5回では、前回に引き続き、北米において「原生自然の保存」がどのように形作られていくのかについて見ていきます。そして、この自然保護思想が、今日に至るまでどのような矛盾をもたらしたのかについて考察していきたいともいます。

  • 【第6回】 環境と国際社会(70年代~80年代)

    1. ストックホルム会議からリオサミットまで

    2. 環境政策における政治的手法と経済的手法

    3. 70年代から80年代の環境主義の立ち位置

 第6回では、視点をかえて、環境主義が成立してからの国際社会の状況について見ていきます。例えばよく知られているストックホルム会議からリオサミットなどが、同時代にはたした役割について確認した後、特に政策サイドの視点に立って、環境政策における政治的手法と経済的手法について見ていきます。そして、80年代には環境思想のなかで、政策サイドと思想サイドで対立が生じ始めたことについて触れたいと思います。

  • 【第7回】「科学としてのエコロジー」と、「イデオロギーとしてのエコロジー」

    1. 「エコ」とは何か、「エコロジー」とは何か?

    2. 「科学としてのエコロジー」の歴史

    3. 「イデオロギーとしてのエコロジー」(エコロジー思想)の誕生

 第7回では、環境主義に、自然保護思想の遺産が融合する形で、先ほどふれた思想サイド、具体的にはエコロジー思想が形作られていくまでを見ていきます。

 もともとエコロジーとは、自然科学の一分野の名称、すなわち生態学を意味するものでした。皆さんも生態学を意味するエコロジーが、なぜ思想や運動の名称としても使われているのか、違和感を持った人がいるのかもしれません。科学の名称だったエコロジーは、70年代頃から80年代頃に、環境や自然と結びついた一つの世界観や思想、すなわちイデオロギーに転換するのです。

  この講座では、科学の名称としてのエコロジーと区別するためにも、イデオロギーとなったエコロジーのことをエコロジー思想と呼びます。ここでは、このことについて改めて考えましょう。

  • 【第8回】 ディープ・エコロジーの思想

    1. エコロジー思想の先にあるものとしてのディープ・エコロジー

    2. エコロジー思想の変質

    3. エコロジー思想のもたらした生の遺産、負の遺産

 続いて第8回では、このエコロジー思想をとことん突き詰めていくとどうなるのかということを、人間中心ではない世界のあり方を徹底して追求した「ディープ・エコロジー」の思想を手がかりに見ていきます。

 「ディープ・エコロジー」には、新しい思想や実践が数多く含まれていたのですが、他方で、極端な思想が数多くでてくることにもなりました。

 もっともそれは、「環境のために人間は絶滅した方が良い」といった種のものではなくて、ネイティブ・アメリカンをもてはやしたり、「地球との一体感を感じる感性さえ身につけることができれば、誰もが環境に優しい行動をすることになる、といった、ちょっと精神世界と結びつくような類のものです。

 これは結果的に「環境」や「エコ」の運動が、胡散臭いもの、どこか宗教めいたものであるという主張をもたらす原因にもなるのですが、そうした点について見てきたいと思います。

 第9回と第10回では、「動物(自然)の権利をめぐる諸問題」ということで、環境危機をきっかけとして、人間中心とは異なる世界をつくる、という文脈においてはエコロジー思想と深くかかわる、動物の権利や自然の権利といったテーマについて見ていきます。

  •  【第9回】 動物(自然)の権利をめぐる諸問題(前編)

    1. 環境と倫理をめぐるさまざまな問題

    2. 「環境倫理学」の問題意識

    3. 自然物の当事者適格

 まず第9回では、環境というテーマが常に倫理というテーマと結びついてきたことについて確認しつつ、「環境倫理学」という学問分野がどのように形作られたのかについて見てきます。

 特に重要なのは、ここに、これまで権利の主体、道徳的配慮の主体と見なされてこなかった人間以外の存在に、人間だけに与えられてきた特権を拡張するという問題意識があったことです。

 自然物の当事者適格というのは、人間が代理人となるかたちで、自然が原告となって自らを脅かす人間を訴えることができるという学説です。われわれからすると驚くような話ですが、訴訟大国のアメリカではこうした自然の権利訴訟というものが一時流行しました。この考えについてみていきます。

  • 【第10回】 動物(自然)の権利をめぐる諸問題(後編)

    1. 動物解放論

    2. 動物の権利論

    3. 全体論的環境倫理

    4. 「環境倫理学」の行き詰まり

 第10回では、このテーマをさらに掘り下げていきます。「動物解放論」は、苦痛を感じる以上、動物も人間と同じように苦しめられない権利を持つという学説、「動物の権利論」は、文字通り、動物一個体が、一人の人間と同じように権利を持つべきだという学説です。

 また「全体論的環境倫理」というのは、動物一個体がそれぞれ権利を持つというのではなくて、生態系全体の秩序こそが、ひとつの倫理的基盤をなすという学説です。一言で言うと、生態系の秩序を壊すものは悪、高めるものは善という思想です。

 環境倫理学では、こうした学説が非常に込み入った議論を展開しましたが、数10年の時間を経て、人間以外の存在に倫理を拡張するという試みは、基本的には挫折したといって良いと思います。その試みはなぜ挫折したのか、その原因と矛盾について見ていきましょう。

  • 【第11回】 エコロジー思想の帰結と衰退(90年代~)

    1. エコロジー思想の帰結

    2. 現場主義への転向とグリーン産業革命

    3. 岐路に立つ環境思想

 第11回では、ディープ・エコロジーや環境倫理学という形で華々しく花開いたエコロジー思想が、急速に衰退していく時代に焦点を当てたいと思います。

 科学技術や政策サイドが成果を上げていくのとは対照的に、エコロジー思想の方ではそこに内在している矛盾や問題点が明らかとなり、エコの思想はやがて極端な思想、偏った思想だと見なされ始めます。そうしたなかで、環境思想のある種の空白状態がうまれるまでについて焦点を当てたいと思います。

 第12回と第13回は、「持続可能性概念とその問題点」ということで、持続可能性、言い換えるとサステイナビリティという概念について焦点を合わせていきたいと思います。SDGsではありませんが、今日では「エコ」よりも、「サステイナビリティ」の方が、キャッチフレーズとして流行しているように思います。

 しかし、「エコ」概念にも問題があったように、持続可能性、あるいはサステイナビリティ概念の方にも相当に問題があると言えると思います。

  • 【第12回】 持続可能性概念とその問題点(前編)

    1. 「持続可能性」をめぐるイメージと矛盾

    2. 環境と国際社会、国際会議

    3. 『ブルントラント報告』に書かれていたこと

 第12回では、まず。われわれの持続可能性概念のイメージについて振り返り、この概念がいかに何でもありの概念になっているのかについて見ていきたいと思います。そしてこの概念がどのような歴史的経緯のなかで形作られてきたのかについて詳しく見ていきましょう。

 ここでは特に、「持続可能な開発」概念に焦点をあて、この概念が最初に定義された『ブルントラント報告』について見ていきます。

  • 【第13回】 持続可能性概念とその問題点(後編)

    1. 『成長の限界』に書かれていたこと

    2. 「持続可能な開発」から「持続可能性」へ

    3. 持続可能性概念を活かすためのいくつかの視点

 そして第13回では、『ブルントラント報告』で定義された「持続可能な開発」概念の意味を掘り下げるために、まず第三回で取りあげた『成長の限界』について再び焦点をあてます。

 そして、『成長の限界』で描かれた問題意識が、「持続可能な開発」概念となることで一段階曖昧となり、さらに「持続可能な開発」から「開発」が抜けて「持続可能性」となることによって、さらに一段階曖昧になり、結果として何でもありの概念になっていく様子を見ていきたいと思います。

 持続可能性概念には、こういうわけで大きな矛盾と問題点があるのですが、しかしそれを活かす道もないわけではありません。そこでここでは、そのための手がかりとなるいくつかの視点も導入したいと思います。 

  • 【第14回】 エコロジー思想から新たな環境哲学の試みへ

    1. 新しい時代の環境哲学の必要性

    2. 人間にとっての〈環境〉を考える

    3. 環境哲学から見る人間と社会

 第14回では、エコロジー思想なき時代の環境思想のあり方について改めて考えてみたいと思います。特に、「そもそも人間にとっての(環境)とは何か」という最も根本的な問いにまで立ち返ってみることで、どのような環境哲学を新しく構想できるのかについて、私なりの意見を示したいと思います。

  • 【第15回】 まとめ

    1. この講座で見てきたことの振り返り

    2. 「環境の時代」の終焉

    3. 結論

 そして最終回となる15回では、この講座全体のまとめを行います。今回述べた最初の問題意識に立ち返りつつ、15回を通じて何が明らかになってきたのかについて見ていきましょう。