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正月早々、同人活動と資本主義について考えた

【はじめに】

 私は、とある国民的アニメ(漫画原作)の二次創作をしている。
 登場人物の感情と、関係性をゆがめ、男二人が愛し合い、肉体関係を持ち、激しく求めあっているという、夢のあるお話を書いている。

 二次創作をする中で、気がついたことがある。
 一部の専業作家をのぞき、大抵の同人作家は、趣味で創作活動を行っている。しかし、ただの趣味のはずなのに、われわれは、資本主義に囚われているのではないか? と。

 あらかじめ、自身の資本主義に対するスタンスを明かしておく。
 資本主義の限界やデメリットを承知したうえで、私はこの不完全なシステムを、そこそこ愛しているし、今後も共に生きていきたいと思う。
 だが、そのためには、随時、修正を加える必要があるとも考えている。


【資本主義と趣味活動】

 どんな趣味であっても、資金・時間・能力・健康資源を多く有するほど、良質な経験ができる可能性が高まるのではないかと思う。
 例えば、釣り。お金がなければ、道具をそろえることが難しい。遠出をするとなれば、金銭に加え、時間と健康資源に余裕がなければ、計画を実現させることが難しい。さらに、餌のつけ方や、道具の使い方など、能力の差が釣果に影響することも想像に難くない。

 もちろん、お金や時間などを十分に確保できなかったとしても、楽しく釣りをすることはできるはずだ。しかし、資本の多寡によって、経験できることが限られてしまうのも事実である。


【同人活動における資本主義の呪縛】

 ここでは、原作ありきの二次創作について考える。
 二次創作するほどに好きな作品なら、当然、原作を集める。関連グッズを買う。公式のイベントにも参加するだろう。これらすべてに、お金がかかる。時間も必要だし、体力も必要だ。
 そこに加えて、二次創作をする。
 物語の設定とキャラクター、作品やキャラの認知度と人気。こういったものが、すべてお膳立てされたうえで、オタクは二次創作をする。
 与えられた前提は同じだ。しかし、個々の有する資本には差がある。
 作品を作るには、ツールが必要だ。より完成度が高い作品を作りたければ、参考資料を取り寄せることもあるだろう。ここでもやはり、金銭の問題が生じてくる。そして、作品を作るためには、時間が必要だ。
 同人活動を優先させるために、ライフスタイルを整備する人はどれだけいるだろうか? 時間を確保するために、拘束時間の短い仕事を選んだとして、収入は十分確保できるだろうか?
 ここで、もてるものと、もたざるものの格差が生まれてくる。

 そこに、能力の差が加わる。
 同人作品は愛だ。どの作品もすべて等しく尊い。それは一つの真理である。
 しかし、どうしたって、画力の高いイラスト、センスの光るコマ割り、場面がありありと想像できる文章。私たちは、そこに心惹かれる。
 それは「数」によって可視化される。質の良いもの。そして、人気のあるものに閲覧者は集まる。読み手だって、暇じゃない。時間や労力を割き、作品を鑑賞し反応を送っている。閲覧する(≒消費する)とは、わずかであったとしても、自身のもつ資源を対価として書き手に差し出すということだ。

 では、作品の質がいいから、閲覧者が集まるのかと問われれば、そうとも言い切れない。需要と供給の兼ね合い。こんなところでも、我々は、資本主義の影響を受ける。どんなに良い作品を作ったとしても市場に需要が無ければ、多くの閲覧者を集めることは難しい。
 確かに、めちゃくちゃ素晴らしい作品を供給することで「このキャラの二次創作をもっと見たい!」という閲覧者の欲望をかき立て、新たな需要を作り出す猛者もいる。だが、そのレベルの書き手はごく少数に限られる。

 二次創作を活発に行うためには、資金・時間・健康資源などの資本が必要である。そこに市場の原理が加わり、さらに能力主義の壁にぶち当たる。

【やがて、欲望の問題にぶち当たる】

 企業が商品を作る。消費者は対価を支払い、それを消費する。そこに利益が生じ、企業は事業を拡大していく。消費者はより安くよいものを求め、企業はより多くの利益を追求する。
 このモデルにまるっきり当てはまるわけではないが、二次創作においても似たような現象が起きているように思う。

 自分の作品を称賛されるよろこび。これは、なにものにも代えがたい。社会的報酬は、性的な報酬の上を行くという説もある。
 閲覧者から与えらえる社会的報酬を、作品作りの外的動機づけと結びつける同人作家は少なくない。
 2021年の暮れにリリースされた「ソナーズ」は、そういった同人作家向けのサービスであると言えるだろう。ソナーズは、評価が可視化されてしまう既存のSNSや投稿サービスに対するアンチテーゼをうたっている。サービスの仕組みを見るに、作品の発表の場を「自由競争の原理から切り離そうとしている」のではないか? と推察する。

 しかし、たとえ自由競争の原理から逃れられたとしても。創作する者・閲覧する者、その双方が自身の欲望と無縁でいられるとは限らない。
 書き手は、評価を受けたことによって、それと同じ程度。もしくは、より多くの評価を得たいと考えるかもしれない。
 閲覧者も、より質の高い作品を求め、閲覧に対する対価の支払い(たとえわずかな労力であったとしても)を渋るようになるかもしれない。
 閲覧者が閲覧に徹したままでは、このようなサービスは、発展しない。より、積極的に、同人文化を支える気持ちで、書き手に対する好意的な評価を返し続ける必要がある。

 たとえ、自由競争の原理から切り離したとしても、閲覧者からの評価という社会的報酬を頼りにした同人活動は、どうしたって他者の協力が必要になる。


【資本主義に適応するか、資本主義に修正を加えるか、あるいは資本主義から降りるか】

 他の人がどう考えるかはわからない。
 しかし、少なくとも、私は、同人活動が資本主義の影響下にあると考える。そして、だからこそ、同人活動には妙な苦しみが伴うのだと感じている。
 では、この苦しみから逃れるためにはどうしたらいいのか?

①資本主義に適応する
②資本主義に修正を加える
③資本主義から降りる

 この三択、ないしは、これらをハイブリットさせ、自分なりのスタンスを見つけていくしかないのだと思う。

――スキルを磨き、作品に資金と時間を投資し、市場の求める作品を作り上げるか?
――ソナーズなど、市場の原理が働きにくい場所をえらび、閲覧に徹するだけではよしとしない読み手の協力によって、作品発表を続けるか?
――閲覧や評価をすっかり諦めて、自分のための創作に徹するか?

 どれもみな、一長一短があり、実践することは簡単でない。
 どれが自分に一番合う方法なのか? これらを組み合わせるにしても、どう、かけあわせていけばいいのか? 見極めることは難しい。


【まとめ】

①同人活動は資本主義の影響を受けている(かもしれない)
②だから、なんだか苦しい(のかもしれない)
③自分なりに折り合いをつけていくしかない(のかもしれない)

 こんな文章を書いてしまったから、説得力はないが、私は、同人活動をめちゃくちゃ楽しんでいるし、今後も続けていきたい。
 だからこそ、持続的に発展可能な同人活動を続けていけるよう、今後もこれらの問題について考えていきたいと思う。


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