たとえば、いつか

実は12歳程が離れた兄がいて。兄は早くに婚をして子供がいて。
喧嘩しがちな両親を宥めるために毎週帰ってきてて。
妹の私になんだかんだと気を配ってくれる兄がいて。

両親の離婚が決まったあの日とか。

母親が倒れ死んでいった早朝、
父が病に伏せた梅雨の日、

祖父が死んだ日付もわからない過去、高校1年生には抱えきれなかった事務的なさまざまなことを目の前にして逃げた夜更け、
犬が死んだのに帰れなかった日、
逃げるようにして家を出た夏、
ぜんぶたった1人だった時にも。

兄や姉がいたらきっと人生はまるっきりちがっただろうし、
いまこんな感情になることもなかっただろう。

ひとりは気が楽で、ひとりはたのしくて、ひとりはよく眠れる。

一人っ子はとても愛されて、一人っ子は過保護に育ち、一人っ子はその愛の重さの答えが大人になって、さらにもう少し大人になるとやっとわかる。

「すごく助かっているんだよなあ」という近所の農家みたいな言葉を吐き散らす父親。痩せこけてしまい足と腹だけは象のように水を含んでいる。
浮腫から滲み出る体液が止まらず、タオルをもう何十枚も洗濯する。いのちが溢れ出ていくようだなあと、すごく他人事に見ている。

「もし動けなくなっても、お前お世話になはならないからな!」
と言っていたのはきっと彼なりの嘘だったのだろう。
わかっている。わかっているけど、私はわからないふりをする。

わからないふりをしながら、朝家に戻り、手を腰を肩を貸して歩かせ、背中をさすり、食べ物を与えて、掃除洗濯して逃げるように帰る。
「お前だから言えるけど」という止まらない愚痴と弱音を一生吐き続ける父親を振り切って「もう帰る」という。

もう帰っちゃうの?という父になんでもない嘘をついて、また明日来るからとか言ってひとりの家に帰る。誰も待っていない家に帰る。安心する。誰もいないことに安心して、よく眠って目が覚めた時「は」と不安になり父に連絡をする。
「おはよう」というその一文に既読がつけば、父はまだ生きている。

私の朝は毎日安堵で始まり、夜になれば苛立ちとなって終わる。

わかっている。全部わかっている。
もうすぐ本当に1人になってしまうことも
寄り添ってくれる友人たちにも家庭があることも
だからわたしだけでも最後はしっかりみおくってあげなければならないこともわかっている。
わかっているけど見ていたく無いそこにいたくない。
でも1人になりたく無い。死んだら1人になるくせに、さいごのひとりになるくせに。

例えば嘘だけど兄に連絡をして「お父さんこんな状況だ」と言って
じゃあ私が何もしなくて良いのかとなればそんなことはないけれど

親の、身近な人の、最愛の犬の死を
死というか、いなくなることを。こんなに思考が冴えている時にぜんぶ経験しなくても良いじゃ無いのよっておもう。

でも全部他人だから
私以外は全部他人なので

だから。



父が死んだら実家リフォームした後に売って、
車も売って、役所のあの階に行って、誰と誰と誰と誰かに連絡して。シュミレーションバッチリ、大丈夫だよ。どうか安心して。どうか泣かないで安心して欲しい
「フェードアウトしてえ」と娘の前で涙を溜める父親を、これ以上は見ていたくない。

ああでも死なないで欲しい。
酔っ払ったからと言ったら迎えにきて欲しいし、
私の好きな野菜が売ってたら買って欲しい、
それをわざわざ冷凍してとっておいててほしい、突然帰ってもご飯炊いてあるよって言って欲しい河原に遊びに行こうって成人した娘に何言ってんのって言い続けたい。

いきていてほしい。
でももう見ていたく無い。

あんなに嫌がっていた介護がとても上手になったし、あんなに嫌がっていた車椅子に乗りたがり、絶対に嫌だと言っていたホスピスに入って。

「あー入院してよかったー!」

と嘘をつく。

私も父も、嘘をつき続けながら死んでいって見送るんだろうな。
抱き合って、お父さんありがとうとか、涙を流しあって「だいすきだよ」とか、そういうのはないんだ。

わたし一人と、父一人、二人しかいないのにね。

だからもし、私に兄がいたり姉がいたりしたら
きっとこんな感情にはならないのにね、って

今日も明日も思う。


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