見出し画像

「勉強するとどんないいことがあるのですか?」

内田樹『最終講義 生き延びるための七講』を読んでいます。

前にある大学で「先生、現代思想を勉強するとどんないいことがあるのですか?」って訊かれたことがあります。見ず知らずの学生のくせに、僕の方に100%説明責任があると思っているんですよ。自分は腕組みして「商品説明聴いてやるよ」という態度なんです。
「お前の説明に納得がいったら現代思想勉強してやるけど、説明がつまんなかったり、オレにわかんない言葉とか使ったら、勉強しないぜ」というわけです。ほんとに。そういうふうに教師に訊くのが学生にとっての権利だと思っている。思わずぶん殴ってやろうかと思いましたけど(笑) (P.232)


画像1
「これを学ぶと、何の役に立つのか?」
「こんなこと勉強して、どんな意味があるのか?」

こういったことを考えたり、あるいは子どもから質問されたりしたことはないでしょうか。

この根底にあるのは、商取引の考え方に支配された消費者マインドであると、著者は語ります。学校に通う子どもたちも、大人の私たちも、どうしようもなく消費者マインドを身体化してしまっているのです。

「教育」と「買い物」は質的に異なるものであるということに、多くの人は同意するかと思います。「学校で知識を学ぶこと」と、「スーパーで野菜を買うこと」、「服屋で服を買うこと」を同列に並べることはできません。

しかし私たちは、教育や学びに消費者マインド、買い物感覚を持ち込んでしまうことがあるようです。


画像2

何かを買う時に、それが持つ価値や意味を知ろうとするのは、消費者として当然のことです。

自分が価値や意味を感じられればお金を払うし、感じられなければ払わない。手持ちのお金と商品を見比べ、よりコストパフォーマンスの高い選択をするのが、賢い消費者です。


しかし、この論理を教育に持ち込むとおかしなことになります。
消費者マインドに支配された子どもは、勉強に対しても「これが何の役に立つのか?」、「これにはどんな意味があるのか?」といったことを考えずにはいられません。

そして「勉強する意味」を教師に尋ね、もし納得できれば勉強するし、納得できなければ勉強しない、という態度をとります。

「数十分間話を聞く」、「ノートをとる」、「自由な時間を我慢する」といった”苦痛”を対価として設定し、その対価を支払う価値があるかどうかを、消費者として見極めようとするのです。


画像3

しかしここで問題となるのは、消費者である子どもの「納得」の基準、モノサシについてです。

十数年しか生きていない子どもが、「〇〇について学ぶことは、自分にとってどれほど有益か?」ということについて、正しく判断することができるでしょうか?大人だって、そのような判断は難しいはずです。

問題は、子ども自身が、「今の自分の価値基準(モノサシ)で、あらゆる価値を測ることができる」と勘違いしていることなのです。

これから勉強することの意味や有用性なんて、学ぶ前の子どもにわかるはずがないのです。なので、そういった子どもに対する対応は「いいから黙って勉強しろ」でいいと、著者は語っています。


私たちは油断すると、すぐに意味や価値、コスパのよさを求めてしまいがちです。

しかし教育に関しては、「いいから黙って勉強しろ」という態度がいいのかもしれません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?