ガンバ大阪を応援するのが日常になった
先日、自分が応援しているJリーグのサッカーチーム「ガンバ大阪」がコロナウイルスによるクラスターが起きて活動停止となってから、約一ヶ月ぶりに試合を行った。
2月にJリーグが開幕し「さぁこれから!」と言う時期にチームを襲った集団感染。チームは活動停止を余儀なくされ、試合のない日々が続いた。
それでも、チームに関わる全ての人が我慢の時間を過ごし、ようやく一歩を踏み進めることができた。
試合はスコアレスドローという結果に終わったけども、選手がピッチでプレーしている姿を見れることが、どれだけ幸せなことなのかということに改めて気づいた出来事になった。
今となっては「ガンバ大阪」を応援して試合を見ることは日常の一部となっている。
そんな日常が戻ってきたことを嬉しく思うし、やっぱり自分の生活に深く根付いているものなんだなと実感した。
実はそんな「ガンバ大阪」をちゃんと応援する
きっかけになった試合が自分にはある。
そもそも、物心ついた時からガンバ大阪のことを認識していたのは、一番身近にガンバ大阪のサポーターとして父親がいたからだ。
Jリーグが設立された1992年に「ガンバ大阪」というクラブが発足したその日から、地元にできたプロサッカーチームと言うこともあり、自然と応援し始めたらしい。
その頃のガンバ大阪はお世辞にも強いとは言えず、多数の代表選手をそろえたヴェルディ川崎や鹿島アントラーズにボコボコにされ、シーズンを通して負け越すことがほとんどだった。
しかし、そんな中でも下部組織から上がってきた有望選手を育て上げ、チームのカラーともなる攻撃的なサッカーを目指しながら、上位争いに食い込むまでになった。
そんなガンバ大阪がコツコツと積み上げてきたものが、実を結んだのが2005年だった。
この年ガンバ大阪は初のJリーグ優勝を果たし、後に代表を指揮することになった西野明監督が作り上げた「三点取られたら四点取り返す」サッカーは多くのサポーターを魅了した。
自分の中にある最も古い記憶であるガンバ大阪の試合が、その2005年にJリーグ優勝が決定する最終節の川崎フロンターレ戦だった。
2005年 Jリーグディヴィジョン1 第34節
他会場の結果が伝わり、勝てば優勝という文字がちらついた中、その年の得点王争いをダントツのトップで走りぬいたアラウージョ選手が試合を決定づけるダメ押し点を決めた瞬間、父親が飛び上がって喜んでいたのは今でも覚えている。
ただ、そんな出来事がありながらも「ガンバ大阪」が日常に組み込まれていたわけではなかった。
むしろ、試合を見ていてもサッカーを見ると言う行為そのものが退屈に感じることが多く、自分でサッカーしている時の方が楽しいと思っていたぐらいだったのだ。
まぁ小学校低学年なんて、そんなものなのかもしれないけど。
だから、その後もたまに試合は見るけど、そこまで真剣に見ていたかと言うとそうでもなくて、ゲームの片手間なんかに見ていることが多かった気がする。
そんな、ある意味「親が見ているから自分も見ている」ぐらいの意識だったガンバ大阪の試合が、本当の意味で自分の日常に組み込まれるようになった試合があった。
それが2008年にあったAFCアジアチャンピオンズリーグの準決勝・浦和レッズとのアウェーで行われた試合。
この時期のガンバ大阪は歴代最強と謳われた時代で、毎年なにかしらの大会で優勝し、「黄金の中盤」と言われた日本屈指の中盤の選手たちが前線の外国人ストライカーを操り、チームは抜群の攻撃力を誇っていた。
その中でも特筆すべきだったのは
やはり「黄金の中盤」を構成する4人の選手。
最早、名実ともに日本を代表する選手となった
稀代のレジスタ・遠藤保仁。
その天才的なパスと繊細なボールタッチで観客を魅了した、無口なファンタジスタ・二川孝弘。
無尽蔵の体力といぶし銀な働きで
ピッチを縦横無尽に駆け回った鉄人・明神智和。
そして、クレバーな頭脳を持ち、時にはサイドバックも卒なくこなすほどのユーティリティ性を発揮した橋本英雄。
その時代の日本代表の中盤と比べても見劣りしないくらいのメンバーを擁していた「ガンバ大阪」の中盤が織りなす攻撃は本当に見ていて楽しかったし、必ず点は取れるだろうという謎の安心感もあった。
そんな2008年の主なハイライトとなったのが先ほど紹介した、AFCアジアチャンピオンズリーグと呼ばれる、アジアNO.1のクラブを決める大会での快進撃だった。
グループリーグを無類の強さで勝ち上がり、決勝トーナメントでもアウェー負けなしを継続した上で突破していく。
そんな中で準決勝相まみえることになったのが、日本のライバルクラブであった浦和レッズだった。
これまで散々、苦杯をなめさせられ
目の前で優勝をかっさらわれたこともある相手。
第1戦目、ホームで行われた試合は1-1のドローに終わり
勝敗の行方はアウェー第2戦の結果に委ねられた。
そんなアウェーでの戦い。
最初に試合を動かしたのは浦和レッズだった。
相手のストライカーであった高原選手に先制ゴールを奪われる苦しい展開。
しかし、そんな劣勢の中でも遠藤選手のコーナーキックから、山口選手、明神選手が立て続けにゴールを決めて、一気に逆転に成功する。
このままいけばガンバ大阪の勝ち抜けが決まる中、
試合を決定づける点はまたもや青と黒のチームに生まれた。
そして、この三点目が決まった時
自分は「ガンバ大阪」のサポーターになったのだ。
三点目を決めたのは先ほど紹介した
「黄金の中盤」を構成する遠藤選手だった。
しかし、自分が魅了されたのはゴールを決めた遠藤選手ではなく、その遠藤選手にアシストした橋本選手のパスだった。
橋本選手と言えばさっきも言った通り、クレバーな動きで味方を助ける、言わば「縁の下の力持ち」で黒子的な役割を担うことが多かった。
華麗なタッチや意表を突くスルーパスで観客をどよめかせる遠藤選手や二川選手とは違って、試合の中でそこまで目立つ存在ではなかったのだ。(もちろん橋本選手のポジショニングや、橋渡し的な役割はチームに不可欠だった。いや、自分が言うのもおこがましい)
そんな橋本選手が放った三点目に繋がるスルーパスは
自分が今まで見てきたプレーの中でも、ひと際に美しかった。
正直見ている方も、そのスルーパスの美しさから絶対に二川選手がアシストしたと思い込んでいたら、実際は橋本選手のパスだったので心底驚いた記憶がある。確か、実況の人も間違えていたぐらいだった。
右サイドから来たボールを、ダイレクトで左サイドの空いたスペースに流す。ピッチで守備する相手選手も、見ているサポーターも、誰もが意表をつかれたパス。
頭の後ろに目がついてるのかと思うくらい、正確に味方の動きを理解して放たれたボールは、そこにフリーで走り込んでいた遠藤選手によって、ゴールにパスするかのように難なく流し込まれた。
2008年ACL準決勝 VS浦和レッズ 2leg(5:00~)
この三点目が決定打となり浦和レッズとの同国対決に勝利し、勢いそのまま決勝も圧巻の出来で敵を撃破し、アジアチャンピオンズリーグを制した。
そして、自分はこの三点目を見た瞬間から
「ガンバ大阪」の試合をほぼほぼ欠かさず見るようになった。
スタジアムにも父親と一緒に頻繁に行くようになったし、予定があって試合を見れないときはあれど、ガンバ大阪の成績は逐一チェックするようになった。
「ガンバ大阪」という存在を応援することが
自分の日常になった。
それからと言うものの「ガンバ大阪」というチームは降格や主要大会三冠を経験し、激動の時期を乗り越えながら、今年もJ1リーグで他クラブとしのぎを削る。
今年もサッカーが見れること。
自分が応援しているチームが試合をすること。
それが「日常」として、今年もあること。
どれも当たり前と思ってはいけないんだろうけど、今はそんな日常が戻ってきたことを嬉しく思いながら、これからも自分は「ガンバ大阪」を応援し続けるんだろう。
自分の日常として。
ちなみに最初に買った選手のユニフォームは27番だった。誰なのかは、調べたら分かるかもしれない。
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