梶井基次郎は『檸檬』だけじゃない!
どうも、ウサギノヴィッチです。
ときどき今の小説でもあることだけど、特に戦前から戦後少ししたくらいまでの小説に出てくる、書生みたいな人にはひどく憧れますね。この人たちなにをして暮らしているのだろうか? と思う。まぁ、辞書を調べれば、「学生」って出てくるんですけどね。でも、現代の若者よりも、勉強していない感はあるし、大人との付き合いも密なようにかんじられる。
そして、現代の小説でもドラマでもあることだが、海に行ってなにか他愛もないことをしゃべる。
今回は、梶井基次郎の『Kの昇天』というのを読みましたが、まぁお話の筋はそんな感じです。
ただ、Kが死んだところから始まるし、Kと私が初めて会って話した夜の海での話から二人が関係を深くなる話だ。
ここで特筆すべきなのは、Kというキャラクターである。
Kがものすごく知的で美的に書かれている。
「シラノが月へ行く方法を並べたてるところがありますね。これはその今一つの方法ですよ。でも、ジュール・ラフォルグの詩にあるように
哀れなる哉、イカロスが幾人も来ては落っこちる。
私も何遍やってもおっこちてるんですよ」
この話のチョイスがすごいし、主人公の私も惹かれてしまう。
Kのこの発言は後々にKが海で溺死した時に、月に登ろうとして失敗をしたという伏線になっている。
話が逸れるが、この作品の中で「ドッペルゲンゲン」という言葉が出てくる。芥川龍之介にも、言葉は忘れたがドッペルゲンガーを表す言葉が出でくる。
二人はちょうど同じ時代だから、この時代はちょうどオカルト地味たものが流行っていたのかもしれない。
小説を読んでいて「ドッペルゲンゲン」と出てきたときに芥川を想起したから、そう思っただけなのだが。
話を戻すと、Kは溺死したことについて、作中では語られない。それは良いことだと思うが、ミステリー畑の自分は、そっちも気になると言うのがある。
結局、あの発言有りきで、彼は死んでしまったのか、たまたま溺死してしまったのか、本当に理由が、ヒントがなにも書かれていないことがもどかしい。
小説の結びには、彼の発言である「哀れなる哉〜」を使って、主人公がいかにも彼らしい死に方だというふうオチをつけている。
でも、ぼくから見ればオチはついてないぞ! と言いたくなる作品であった。
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