Pさんの目がテン! Vol.44 久しぶりに読書録、川上未映子とヴィーコ(Pさん)
前回の更新が三月なので、四か月ぶりになりますが、「Pさんの目がテン!」の更新を再開していきます。が、流れは一旦途絶えてしまった。
本を読んでいなかったわけではないが、自分で作った、独特のリズムみたいなものが、維持できるかわからなかったので、中断したともいえる、余裕をもって読書が出来ていなかったのかもしれない。
とあることがきっかけで、ひと昔前の小説になるが、川上未映子の『ヘヴン』を読んだ。
他の人の評判を知らないけれども、しまいまで読んだ感触としては、一つ前の「崩れかけのラジオ」で取り上げた、金子薫の『双子は驢馬に跨って』と、ほとんど同じだった。
学校のイジメを取り上げた話で、重い空気がずっと取り巻いている。大人は離婚して再婚する。軽率にものを考えている人が出てくる。作者の考え、少なくとも登場人物が考えうる範囲から超えて、登場人物が語ることもある。異質な考えではない。ドストエフスキー的な、「世界とはこうなっているんだろう」という意味の発言がある。川上未映子は、想像していたより多作な方ではなかったらしい。もっとたくさん書いているイメージだった。これが純文学なんだろうか。これこそが純文学なんだろうか。だとしたら、……
あんまりリアリティはなかった。なるほど、いわゆる小説的に映える文章と、シチュエーションを、こういう風にバランスを取るものなのかと思った。その為、ディティールは奥の方にやられる。先の半哲学的述懐の類も、刈り取られたものに見える。
作中で目の当たりにするわけではないけど象徴的な意味の濃い美術館の作品の、コジマが名付けた「ヘヴン」という作品、小説の題名の取り方としても、何とも収まりが良い。
いろいろ思うところがある。川上未映子という作家の小説をはじめて読んだから、それなりに勉強になった。
それから、ジャンバッティスタ・ヴィーコという人の、『学問の方法』というのを読んでいる。この人は、十七世紀から十八世紀くらいに活躍した人で、その1706年の講演の記録みたいなものらしい。同時代のデカルトを意識し、はじめは追随するのだが、のちに手の平を返したように批判を始める。この講演がまさにその転機になっていたらしい。デカルト、あの「我思う、ゆえに我あり」のデカルトだが、他の本で、その「我思う……」自体を批判していたりするらしい。まだそこまで読めていないけれども。
デカルトは、数理的、公理的、論理的、証明的な哲学というのをはじめた。ヴィーコからの発言だと、そうらしい。しかし、それは、というのは哲学というのはあらゆる学の背景になるものであるはずだから、と僕は読んだが、その背景に当たるものが、すべからく論理的、公理的、うんぬんと、であるはずもなかろう、偶然も支配するだろうし、人間の感情も考慮しなければいけない……
等々、デカルトとか、デカルト主義的なものを対岸にすえて、もう少し現実的なものに目を向けようという意志みたいのが感じられた。
まあ、まだ著書の一部分、ほとんど読んでないといってもいいくらいしか読めていないのだが。
ヴィーコを読むきっかけになったのは、サミュエル・ベケットの初期の論文、宣伝文のようなもので、「ダンテ・・・ブルーノ・ヴィーコ・・ジョイス」というものがあり、そこで知った。何の宣伝文かといえば、当時の師匠格だった、ジェイムズ・ジョイス先生の、『フィネガンズ・ウェイク』という小説である。そのとき、まだ書かれている最中で、その宣伝文の本文中では「制作中の小説」、などと仮に呼ばれていたらしい。制作中の小説の宣伝というのも、よくわからないが、経緯は、調べたら、わかるのだろう……
ジョイスの作品を、ダンテから、ブルーノ、ヴィーコという哲学者にまで通じている系譜から読み解く、という試みになっているんだけれども、これが、なんというか、後期から想像できないほど、絢爛な文体、言い方を変えればカオティックで、後期がイメージを削っていく作業だとしたら、初期はイメージがありすぎて渋滞しているという感じ。
それでも、そこをなんとか理解したいからと、本書を手に取ったのだが、なんだかまた、果てしのない読書スパイラルに踏み込もうとしているのを感じる……
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