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ネットの断捨離的なこと(ウサギノヴィッチ)

 どうも、ウサギノヴィッチさんです。
 
 note始めて1か月が過ぎました。思っていたよりリアクションが多くて、やって楽しいです。
 みなさん、ありがとうございます。
 
 もうすぐ桜が咲くとか咲かないとかいうニュースを耳にします。季節の変わり目はどうもメンタルにきますね。それとともに時間の流れの早さを感じます。この間、初詣に行ったと思ったら、もう桜なの? と思ったり。自分はアクティブな人間ではないので、花見みたいなものはしないので、会社の帰りにいつも行く公園で花見をしている人を見て、今年も変わらないななんて思いながら桜並木を歩いています。
 もし、こんな自分でよければ花見に誘ってやってください。
 
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 さて、今回はネットの話。noteを始めて変わったことなのだが、ツイッターいらないなぁと思うようになった。ツイッターで短い文で感情をぶつけるより、noteに今抱えてる感情をぶつけるという方がいいかなと思う。暗いことや重いことは書かないが、ツイッターの140字で無理やりまとめたことを、呟いて他人に承認されようとするのは馬鹿げていると思う。
 ただ、noteに書いて、スキを集めるということはそれと同義な部分はあるが。
 
 でも、ツイッターってネタのツイートが多いように思う。大喜利ようなネタだったり、なろう系の宣伝も回ってきたりする。なろう系はまだいいい。まだ。頑張っている人にリツイートしたりするんで、でもネタツイートの対象についてはただ送っていくことしかできない。
 自分のセンスがいいとかじゃなくて、なんとなく無駄に感じてしまう。
 
 話を元に戻すとツイッターにそんなに未来を感じないと言うことです。そりゃ、自分もこのnoteの宣伝はツイッターでしています。でも、ここまで飽和しないでやっていられるSNSも珍しいなと思ってしまう。みんなが知っているツイッター。日常的なツールになっている。最近のスマホにはプリインストールされているほどである。「やらない」という選択肢が不可避なものなのかもしれない。
 
 知り合いにスマホももたない人がいるが、それでも、ツイッターはチェックしている人がいる。おそらくパソコンを使っててやっているのだろうけど。
 
 ふと思ったのだが、ツイッターをカバーしている年代はどれくらいなのだろうか。五十代以上もやっているのだろうか。そんなになにをつぶやくことがあるのだろうか。まだインスタやフェイスブックならわからなくない。でも、ツイッターになるとなんかわからなくなる。ツイッターはだいたいが自己完結した文章が多く見られる。それは自分もそうだ。オッサンの自己完結したツイートを見たいとは思わない。
「今日は定時で上がれたので一人飲みなう」
 ビールと枝豆の写真が添付されている。
 知りたくもない。
 
 結局、ツイッターはネットリテラシーがなっていない若年層なんだろう。それとどうなんだろうね。危ない気がするけど。
 YouTuberにコレコレっていうのがいるけど、その人のところに未成年がときどき相談凸をしてくるがどれもネットトラブルだ。ネットで知り合った人と関係を持ったとか、そんな感じの話だ。そういうことは昔からあったし、僕も巻き込まれたことがあった。コレコレの方は最終的にネットリンチみたいな形でことを収めるがそれもそれで問題だと思う。それをリスナーが求めていることも怖いことだと思う。
 
 結論として、ツイッターの更新頻度は下げることにする(もともと少ないが)なにかあったら、noteにまとめて書いていく。
 短歌の話じゃないけど、noteにも自由を感じた。自分だけのスペースを与えられて好きなように書いていいと言われたようで。
 それを十分活用していきたいと思った。
 
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 予告
 
 次回の文学ラボから連続小説が始まりますお楽しみに!
 
 文学フリーマーケットの原稿が忙しいの書き始めちゃったよ!
 
 それでは!

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