歌詞解釈総論② 歌詞解釈における必要な情報の全量とは何か
はじめに
前回の記事
※トイレはなおった(ように見える)
前回のまとめ
世間で一般に行われている歌詞解釈においては、1文~1ブロックを一単位として、その意味を明らかにしようとしているケースが多い。
Aメロの歌詞(原文)に対して、解釈されたAメロの意味を書いていく、というようなよく見る構成がそれである。
このような解釈の単位を「歌詞解釈のスコープ」と言うことにする。
前回では、この一般に取り扱われている「1文~1ブロック」というスコープが果たして適切なのか?という問題提起を行った。
そして、適切なスコープとは何か?という議論にあたっては、以下をベースに考えることとした。
そして、必要な情報を過不足なく含むスコープとは何か?を明らかにするために以下の2ステップを設定した。
今回はこの2ステップを基に、どのような単位で解釈を行うのが適切かを考察していく。
お断り(ディスクレイマー)
と、前回の記事を読むと、どう考えても今回の記事はこういう導入にならざるを得なかったのだが、どうもしっくりこない。
しっくりこない理由を、(本文でも書いているが)先に言ってしまうと、『そんなのどういう方法で解釈するかによるんじゃね?』と思ってしまうからだ。
どちらかというと自分が書きたかったのは「どういうアプローチをすると歌詞の魅力を阻害するのか」というネガティブなお話だったみたいで、逆にそれさえ避けてればまあ何でもありじゃんというのが、歌詞解釈の実際のところのような気がする。
とはいえ、一度ひろげた風呂敷は無理やりにでも畳まないといけないし、本文の内容はそれはそれで視野を広げてくれるようなものの気もするので書き進めようと思う。
どのような『読み』をするのか
歌詞の曖昧さ
言わずもがなだが、歌詞はたいていの場合曖昧なものだ。時には「理解されることを拒んでいる」とさえ言えるような歌詞もある。
そして、意図して曖昧に作られたものには絶対唯一の正しい解釈(つまり正しい意味)なんてものは存在しない、と僕は思う。(明白に間違った解釈、というのは存在しうると思うけれど)
だからこそ、歌詞を解釈するにあたって最も重要なことは、①解釈の対象がそういうものだと理解することであり、そういうものに対して②どのようなアプローチで解釈を行うのかを意識することだ。
①を忘れてしまうと、過度に逐語的なアプローチを行うことになる。結果として、そういうアプローチは曖昧さを許容できず、本来であれば意味のない文でさえ『メタファー』として無理やり意味づけを行う傾向にある。これについては次回以降どこかで書こうと思う。
②はつまるところ、歌詞やそれを取り巻く周辺情報のうち、何を重視(または選択)して解釈を行うのか、ということだ。歌詞が曖昧なものである以上、何を重視して解釈を行うかによって導き出される結論は大きく異なる。だからこそ、自分が『どういう読み』をしているのかは常に意識の片隅にでも置いておく必要がある。
歌詞解釈の自由
ここで注意したいのは、歌詞解釈という作業は裁判官的なものである必要はない、ということだ。
すなわち、数ある証拠(つまり歌詞にまつわる情報)から妥当性の高いと思われるものを抽出しそれらを統合して最も妥当性の高い結論に至る、というのは歌詞解釈のアプローチの一つかもしれないが、そうでなくてはいけない、というわけではない。
何か特定の(気に入った)要素を取り上げて、それをアプローチとしたって良いのである。
法の世界では『自白は証拠の女王』と言われることもあるみたいだけれど、歌詞解釈においては、別に作者自身が「この歌詞はこういう意味でね…」と言っていたとしても、別にそれを全く無視して解釈したってかまわない。
作品を世に出した時点で、それをどう受け止めるかは全面的にリスナーにゆだねたと言って過言ではないからだ。もちろん、作者の意図を尊重したってかまわない。
歌詞解釈における必要な情報の全量とは何か
だから、『歌詞解釈における必要な情報の全量とは何か』という問いの答えは、『どういうアプローチをするかによる』というのが正直なところだ。
そしておのずと、『それを過不足なく含む単位とは何か』という問いの答えも『どういうアプローチをするかによる』ということになる。
これだけではお話にならないので、歌詞をとりまく周辺情報の中で、少し見落とされがちだなと思う観点を書いて終わりにする。
歌詞をとりまく周辺情報
作者についての情報
作者についての情報は、歌詞というテクストそのものに現れるわけではないけれども、それでも確かに歌詞解釈における『情報』になるときがある。
例えば、西野カナ"トリセツ"という歌がある。これは、自分自身を家電製品に例えて、その取扱説明書のような形で、彼氏に対する少しワガママな要求を綴った内容だ。この歌自体に解釈どうのこうのの余地はないが、それは西野カナが歌っているからだ。
ところがこれを、社会派フォークシンガーみたいな人物が歌っていたらどうだろう。とたんに解釈の余地が出てくる気がする。実はこの歌全体が社会に対する問題提起で…とか。
あとは、さっきも書いた通り「この歌詞はこういう意味でね…」と説明しているケースも考えうる。そこまでじゃないにしろ、「祖父が死んだときに作った歌です」みたいなのもその類型と言っていいだろう。
そしてそれを尊重しても、無視しても構わないというのもさっき書いた通りだ。
ホントかどうか知らないが、昔、草野マサムネが『スピッツの曲はすべて死とセックスについての歌だ』みたいな意味のことを言ったらしい。そのせいで、世の『スピッツ解釈』は必要以上に『死とセックス』とやらで溢れかえっている。
あのねえ、そんなわけないでしょうと。僕が思うに、もし草野マサムネが本当にそういう意味のことを言っていたとしても、それは彼なりの冗談だったり世間に向けたアピールみたいなものであって、実際にそんなわけないじゃない、と。
よくわかんないけど、机に向かって、「よし、今日も死とセックスについての歌詞を書くか」とかやってたらそれはそれで意味不明じゃないですか?
もちろん、氏の発言を尊重してすべての曲を『死とセックス』の文脈で解釈したってかまわない。だけど、それにとらわれすぎても、あんまりいいことないと思う。『作者の言い分』なんてものは話半分にとどめておいた方がよいケースはとても多い。(彼/彼女らは作者であると同時に、パフォーマーだからね)
自分(解釈者)についての情報
これは結構見落とされがちだと思う。
同じ歌でも、失恋した直後に聞くのか、恋が実った直後に聞くのか、それとも結婚して10年が経って子供が小学校に入ったタイミングで聞くのかでは全く印象が異なるはずだ。
で、歌詞解釈というのを裁判官ライクに考えている人はこういった要素を排除しようとする。(実際の裁判でも、裁判官が今日家で妻と喧嘩してきちゃって機嫌が悪い、とかが判決の要素にならないのと同じ)
しかし、さっきも書いた通り、歌詞解釈という作業は必ずしも裁判官のように行う必要はない。だから、自分の内心を解釈の要素として加えたっていいと、僕は思う。
これは、歌詞が曖昧であればあるほど必要な要素になってくると思う。
例えば、スピッツ"テレビ"という非常に曖昧な(難解な)歌詞で知られる歌がある。
終末映画を見た直後の人物であれば、『これは地球に向かって落下するテレビの中継を見ている人の歌詞』とするかもしれないし、恋人に捨てられた直後の人物であれば『恋人を殺害して、逮捕が目前に迫っている人の歌詞』とするかもしれない。
重要なのは、自分が『どういった内心』で読みを行っているかに自覚的であることだ。それを意識することによって、きっと解釈の幅というのは広がっていくものだと思う。
ところで、僕はこの歌詞が何をさしているか、よりも『このテレビはブラウン管なのか? 液晶なのか?』であったり『君のベロは暖かいのか? 冷たいのか? 湿っているのか? 乾いているのか?』といった問いの方に興味がある。本当はそういうことを書いていきたいんだけれど、言語化が難しいのでいつか書く、というにとどめておく(見切り発車は苦しみの元なので)。
最後に
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普段はクジラサウンズという名義で楽曲を配信しています。
歌詞が大好きで、歌詞にこだわりをもって曲を作っています。
本稿で興味を持っていただいた方はぜひ聴いてみてください!
新曲「猫のはかまいり」 mv
「レメディ」 mv
各種ストリーミングサイトへのリンク
以上
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