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映画「名付けようのない踊り」

今回はかなり脱線する予感。感じた事を綴るだけなので脈絡はないのでご容赦ください。

私は最近ダンス・踊りといった身体表現がとても気になっている。今は芸術的要素が強いが歴史を辿ればそこには祈りや伝承がある。伝えようとする意志を感じる。
完成があるようで無いような、永遠に続けようとすればどこまでいける気がするそんな表現。
必要な物は身体一つ。とてもシンプルでそれが根源的で美しい。

映画の中で田中泯さんは踊りとは考えることだと言っていた。たぶんだが私はそこに惹かれているのだろう。純度の高い思考は身体性を伴わなければ入れない領域があると思うのだ。ある種のトランス状態やゾーンとでも言うのだろうか。研ぎ澄ませれた感覚の中で生まれる自身との対話それは格別に心地が良いのではないだろうか。言葉にできない充足感に包まれるそんな予感がする。

身体表現とは日常でもところどころに現れる物だとも思う。行動の中でどう身体をコントロールしスムーズに事を進めるかそこに考えが生まれればこれも一種の表現だと思う。変な話し私たちは生きてるだけで自身という物の表現者なのだ。人それぞれの歩き方一つでも個性がある。そう考えるととても日常が面白い。

以前読んだ本に書いてありとてもその通りだと思ったことがあった。「サッカーは今最も成功した舞台表現」とても素晴らしい言語化だなと感じた。スタジアムとピッチ、用意された舞台。ある程度ルールは決まっているが使えるのは己の身体のみ。90分感イレギュラーの連続。1点が重い競技だからこそのゴール前の究極の集中状態。それは踊りに通づる物がある。だからこそ観客は熱狂するのだろう。

映画の中で海外と日本の表現に対する見方が違うことに気づいた。池袋で踊るシーンがある。田中泯さんは場所を移動しながら踊りを紡いで行く。その周りを観客は取り囲み片手にはスマホを握りしめている。そして多くの人が動画や写真を撮っている。
海外で踊った時の観客は身体を揺らしたりその場に座り込んだり泯さんの目線を追っていた。目の前の表現に対する真摯さや体験を取り込もうとする姿勢が表れていると感じた。
日本人は観たと言うだけな気がする。動画や写真を撮っているので後で綺麗に言語化はできるかもしれないが海外の人のように身体的精神的に何かを多くを得たと思えない。踊り手と観客の間に踊りが生まれるのが良いと泯さんは劇中で仰ったのがとても表れている気がした。

海外の観賞姿勢をもっと見習うべきだと思う。

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