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映画「沈黙」を語る

 かつては東洋対西洋あるいは日本特殊論的な観点で捉えられていた遠藤周作による小説「沈黙」。書かれたのは1966年のこと。
 それから半世紀後に生まれたのがマーティン・スコセッシ監督による「沈黙」の映画化作品「沈黙ーサイレンスー」だった。
 ここでは対立あるいは日本論というものよりはむしろ信仰って何?、あるいは宗教とは?という疑問に焦点が移っているという。
 宗教学者の中村圭志さんが2024年2月5日(月)、朝日カルチャーセンター新宿教室で行われた「映画やアニメに昇華された神話のロジック」と題された講義で2つの「沈黙」を解説した。
 遠藤周作ならびにスコセッシ監督の「信仰」の解釈ならびに「日本文化論」は宗教学的にみてどんな意味や限界があるのか。
 簡単に映画のストーリーをおさらいしながら進めていく。


 17世紀日本。幕府はキリシタン禁制を敷き、キリスト教徒と神父を迫害していた。日本に布教しに来ていた、マニラのイエズス会のフェレイラ神父が迫害を受け棄教したとの噂が流れ、弟子のロドリゲスとガルぺの二人の若い神父たちが確認のための日本行きを決意する。
 ガルぺが気が強くやや傲慢。一方、ロドリゲスは大変優しく、そういう人が転びやすいということを結果として示す。

世界中にある異教徒への残虐行為
 転んだキリシタンのキチジローが案内をして彼らは日本に潜入。潜伏したキリシタンたちと逢い、ミサをあげる。
 「ここではキリシタンたちへの幕府の残虐行為が描かれますが、注意しておきたいのは、確かにキリシタンにとっては大変なことだけど、幕府の残虐さがテーマではないということです」と中村さんはいう。
 「単に異教徒に対する残虐さということでいえば、キリスト教のユダヤ人に対するものすごい残虐行為など、世界中にあるわけです」。
 「映画でも小説でもそこはポイントではありません」。
 また、時代背景を考えなければいけないと中村さんは指摘した。
 「今の人から言うと信教の自由はどうなっているのかという疑問もあるかもしれません。しかし、それは極めて現代的な考え方です。それにキリスト教社会ではそもそも信教の自由という考え方はなかった。この時代の論理を押さえておかないといけません」。


 映画はキチジローの裏切りへと進む。そして長崎奉行から尋問を受けるが、ここでは「政治対宗教という図式のようにみえる」。ここでもこれを「政教分離の観点からみるかもしれませんが、それも現代的考え方」。
 「当時、信仰ってのは領主が決めたら人々はそれに従うというものでした。集団の運命が大きな意味を持っていた時代なのです。現代の仕組み自体がまだなかった時代なのです」。
 尋問をする長崎奉行の井上は優しい人物だという。
 「日本では偉い人は優しくみえます。その下の人たちが厳しい。上の人は「よかれ、よかれ」となる。井上は元キリシタンで、内心で実はキリスト教は邪教ではないと理解している。内心としての宗教を問題視しているわけではない。この優しいおじいさんが仕掛けているのはゲームなんだと」。
 「政府側、幕府側がキリスト教側に仕掛けているゲームのようなものなのです。これは神学問題でもあります」。

弱い人間に対する神父の驕り
 キチジローは棄教、懺悔、棄教を繰り返す。家族が迫害で殺され、自分だけ踏み絵を踏んで逃げた男で「弱い男」のようにみえる。
 しかし、「弱い人間にも言い分はある。神様は不公平ではないかと。しかし、少しでも信じているからこそ、懺悔をする。何度でも繰り返す。神父はこれにあきれて、むしろむかついている」。
 「ここに神父の驕りがある。醜いものを突き付けられてむかついているのです。これは驕りです」と中村さんは話す。
 長崎奉行の井上は「踏み絵を踏んじゃったからって信仰がどうなるもんじゃないと言うと、ロドリゲスは最後には分かりますが、幕府が先んじてそれを言っちゃうというのは注目すべき点です」。
 中村さんは「キチジローを見ていると映画「ロード・オブ・リング」のゴダムを思い出します。猫背の姿が似ているし、ある種の弱い者・卑怯者。彼らの救いって何かが新世紀的なテーマになっている」という。
 「これはキリストを裏切ったユダの問題にもつながっています。ユダは犬畜生の扱いだったが、のちにユダの立場というのが浮上してくる。それは「沈黙」ともつながっている」。


 ロドリゲスは日本でかつての師匠フェレイラと再会する。フェレイラは棄教を勧め、「キリスト教は日本人に合っていなかった。多少信徒がいるように思えても、決してキリスト教は日本に根付いていない」という。
 ロドリゲスはフェレイラが「言い訳」をしていると反発する。映画では小説に付け足されているが、中村さんによると、それは「人の性は変わらないということ。それが神を知るということでもある」と。
 踏み絵の前で迷い悩む姿。しかし、それを「天国の美名でごまかすな。お前は単に汚名を怖れているだけなのではないか。棄教しなければ仲間を殺していくと言われたら、キリストならば棄教していただろう」。
 「棄教するのは弱さからではない。幕府は棄教しないと他者を救えなくした。キリスト教の慈愛に矛盾してしまう。宗教の構造がはらむ問題を幕府は突いてきたのです」。
 ロドリゲスが棄教すると、そこにキチジローがやって来る。キチジローはロドリゲスをいまだに「パードレ(神父さま)」と呼び、懺悔を求めます。「キチジローは神父以上に一貫している。踏み絵を踏んでごめんなさいというが、それでも私はキリスト教徒なんだと言い続ける」。

キリスト教における神という観念
 中村さんはいう。「映画の最後のオチとして、ロドリゲスが死んだとき、奥さんは、長崎の村で隠れて彫られていた十字架を棺桶の中に入れるのです。信仰は続いているということを表しています」。
 ロドリゲスは日本での布教について語っていた。「みんな信仰のしるしが欲しいという。彼らは形あるものを信仰のしるしとしてひどく欲しがる。彼らは信仰そのものより貧弱な宗教物を大事にしているようです」と。
 中村さんは「ここが日本人論の始まりになっている」という。「観念物としての神を信じているのではなく、呪物を信じているのだというのです」。
 長崎奉行の井上は「布教の政治性」をロドリゲスに説いた。
 ヨーロッパでキリスト教が根付くまでに1000年かかった。「神学者が考えているような信仰なんて持たないのです」と中村さん。
 そして、かつて絶対的だった教会は次第に不人気となる。そしてニューエイジなどが人気となる。そういう変化も背景にある。


 さらに映画のテーマは「すべてを超越する神対自然」でもあるという。
 「日本人は自然界を超える存在について考えることが出来ない。遠藤周作もこれを強く言っている。彼らにとっては人間を超越するものは存在しない。彼らはキリスト教の神の観念を持つことが出来ない」。
 「人間の本性というのが不動である一方、すべてを優越する神もまた不動である。この地、すなわち日本の山川は変えられても人の本性は変わらない。これを重い言葉としてスコセッシは使っている」。
 「変えられないのは神ではなく人間だと。人間対神のニュアンスである。キリスト教では神が絶対的。しかし、仏教というのは悟りの宗教です。ヒンズー教なんかもそうですが、人間は変わらないと」。
 ロドリゲスが言っているのは「我々自身の本性を知るということは、それが神を見出すということ」なのだという。
 「教会が知らなかった神を見出したという理屈です。他人を助けるのは仏陀の道ですが、このことにおいてキリスト教との相違はない。これだけ、例えばこの二つの宗教には共通することがあるのに、どちらか一方が正しいと論駁してみせる必要はないのではないか」。
 

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