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頼まれていない、頼まれごと

日本国内でランダムに1,000人を集めたら、たぶん僕はそのなかで一番「インタビューについて考えている人」になれると思う。その他の種目で一番になる自信はまったくないが、日々インタビューについて思いや思考を巡らせる量(質は度外視で。あくまで量)でいえば一番になれる気がする。だって、そんな人、まわりにあんまりいないでしょう(笑)。

そのくらいインタビューが好きな自分だが、最近はその想いをさらに強めている。それは、自身のインタビューの殻をもう一枚やぶる何かを掴めそうな感覚があるのも大きい。その感覚をさらに引き寄せるために、この1~2ヶ月は、意識的に実践の機会を増やそうと思っている。

量を重ねる時期と、振り返りながら学びを自分のなかで体系化・言語化していく時期。それらをゆるやかに交互に繰り返しながら進んできた。いまは何度目かの「量を重ねる時期」。あくまで、勘だけどそう思う。

あえて言うならば、これまで頭でわかっていたけどできなかったことが、ちょっとずつできるようになってきた、そんな時期。だから、こういうときは難しいことを考えず、現場で汗をかく(ときに失敗したり凹んだりもする)。とにかく経験を重ねる。それが、殻を一枚やぶることに繋がると思う。

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(話は変わるが)今日ふと思ったこと。それは、インタビューって「頼まれていない、頼まれごと」に近いなぁということだった。

基本、ほとんどの人は、自分から頼んでインタビューを受けるわけでない。会社なら広報や人事の人が社長や社員のみなさんに「ちょっとインタビュー受けてください」とお願いする。家族間でも、子どもが親御さんにお願いしてインタビューを実施することが多い。「ちょっと面倒だなぁ」と思いながら参加する人もいらっしゃるだろう。

インタビューを受ける人(インタビュイー)からすると基本的には「頼んでいない」のだ。これはこれで真実として、でも僕は一方でちょっと違う感覚も同時に抱く。聴いているうちに、こういう語りをインタビュイーは誰かに聴いてもらいたかったんじゃないか、と感じる瞬間があるのだ。

先日書いた「Life Talking」はまさにそれだ。

心の奥深くでは誰もが、自分の人生の大切なことを、誰かに語ってみたいのではないか。だから僕はときどき、インタビュイーから「頼まれごと」をうけおっているように思う瞬間がある。「聴いてほしい」という、言葉にはなっていない頼まれごと。

もちろん、身内の人にそれが語れるのなら、それにこしたことはない。だけど、近い関係ほど聴き合うのが難しい場合も多い。それなら社会のなかに「Life Talking」を語る機会を生み出すroleがあってもよいと思う。僕はインタビューをその機会を生み出す仕事として捉えている。

「頼まれていない、頼まれごと」というちょっとややこしい宿題を受け取ったうえで、お相手の方と一緒に”場”をつくってゆく。つくづく変でおもしろい営みである。

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つらつらと、ただ書き連ねてみた。明日はゆっくりと休んで、また来週がんばろうと思う。みなさんも、よい週末を!

24/06/29

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