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六:『ねがいごと』

 カウンター席に腰掛ける男に抱いた印象は、少しばかり挙動がおかしい、というものだった。
 俯きぎみのその表情は曇っている。それはいい。誰にだって気分が沈むときはある。しかしこの男は額に汗をかき度々ハンカチ拭っては、周囲をちらちらと伺っている。俺が注文のコーヒーを出し終わり、カウンター越しで他のカップの水気を拭き取っている間もずっと。
 ──何かを警戒している。そのような挙動だ。しかし、この店には他に客もいない。いったい何を警戒しているのか。
「コーヒー、冷めてしまいますよ」
 カウンター越しから声をかけると、男は話しかけられたことに一瞬びくりとし、「あ、ああ……そうですね」と言って一口飲んだ。それきりで、再び男は先ほどのように周囲を警戒している。いや、怯えているのか。
「何もおりませんよ」
「え?」
 俺は落ち着いた口調で話しかける。「他にお客様は誰もおりません。本当にお客様以外には“誰も”。しかし随分と何かを気にされていたようなので……」
 よろしければ、話を聞きますが。そう優しく、心配するように、笑顔で。人の良い喫茶店の店主として振る舞う。この男が、何をそんなに警戒し、何に怯えているのか知りたいという好奇心を悟られないよう……。
 右手の親指と人差し指の擦り合わせを感じ取る。悪い癖だ。違う、違う。〈好奇心〉は捨てなくては。一人で悩むあわれなこの人に、自分が少しでも役に立てるのならば。そうこれは人助け。そしていつしかそれは、“人のためならず”。
 男は、俺の表情を確認するように顔をあげた。
「あ、あのですね……」
 俺の貼り付けた笑顔を確認すると弱々しい声ではあったが話し出した。

「怖いんです」
「怖い。何が怖いのでしょうか」
「分かりません」
「えっと……何か恐ろしい目にあったとか?」
「いえ……」
「それでは、これから何かあるのでしょうか?」
「分かりません」
「ええっと……では『怖い』とは」
「何もないことが怖いのです」
「は?」
 意味が分からなかった。つい“優しい店主の顔”が崩れそうになる。男も、「えっ?」という驚いた顔を見せたので、慌てて笑顔をつくり直す。
「いえ、その……『何もないことが怖い』とは?」
「すみません。意味が分からないですよね。そうですね、最初からお話しします。
 先月、七夕だったでしょう。私の地元では毎年七夕まつりがあるんです。商店街とかで。それで、うちの地元には、少し変わった神社があるんです。そこで、昔から噂になっていることがありまして。
 噂というのは、そこの神社では七夕の日に笹の葉が境内に飾ってあるんです。その笹に願い事を書いた短冊をぶら下げると、どんな願いでも本当に叶う。というものです」
「神社ですか……」
「ええ。その神社には、何度か行けたことがありますが、それは試したことがないと、久々に集まった友人3人と自分を入れて4人で行ってみようかという話になったんです。
 まぁ、その、端折りますけれど、願い事を書いて、境内の笹の葉にぶら下げてきたんです」
 “何度か行けたことがある”、か。地元の神社に。
「……それで願い事は叶ったんですか?」
「私はまだ、叶っていないんです」
「まぁ、そんなものですよ」
「いえ、叶ったんです」
「え? その……叶ったんですか? 叶わなかったんですか?」
「友人3人は叶ったんですよ」
 男の顔が再び俯きはじめた。
「ある一人は短冊に『彼女が欲しい』と書きました。三日後、その友人には彼女が出来ました。ある一人は『偉くなりたい』と書いていました。そうしたらこの間、仕事で昇進したらしいです。最後の友人は『金持ちになりたい』と書いたんです。そうしたら昨日、報告がありました。『宝くじが当たった』と……3人の願いは叶ったんです。噂は、本当だったんですよ……」
 男は声は怯えを含んでいた。
「神社って……もしかして『みみずく神社』、ですか?」
 男は目を見開いた。
「知っているのですか?」
「えっと、知り合いに関係者がいまして……」
「なるほど。では……“行き方”もご存知で?」
「ええ、まぁ……」
 あの神社か。そうなると、願いが叶うという噂も本当かもしれない。
 そして嫌な予感がしていた。
 この男、なにかとんでもないことを書いたのではないか。だからこんなにも警戒し、怯えているのではないか?
「それで、あなたは短冊になんと書いたんですか?」
 俺が率直に尋ねると、男は俯いたまま話しはじめた。
「笑わないで下さいね。自分は子供のころから、『いつか漫画や小説みたいな、摩訶不思議なことが、実際にあればいいのなぁ』とずっと思っていましてね。いつか、起きて欲しいと、子供のころは空想にふけっていました」
「はぁ……」
「でも実際にそんなことはあるはずもないですよねぇ。大人になってみたら、仕事へ行って、家に帰って寝て、次の日にまた仕事に行くだけの変わり映えのない毎日。ですから……」
 非日常を望んでいたこの男は、いったいどんな願い事を短冊に書いたんだ。
 俺は息を呑んで男の答えを待った。
「…………『何か特別なことが起きますように』。そう書いたんです」

 店内が静まりかえる。
 え、それだけ? と口に出しそうになるのを堪え、男に聞いた。
「……それで何かあったのですか? 特別なことが」
「まだ、何もないんです」
 そう言ったあと、男はカップを口につけ、ぐっと中身を一気に飲み干した。勢い良くソーサーに置かれたカップがガシャンと音を立てる。
「私に何も特別なことは起きていない! でもねぇ、ほかの三人の願い事は叶ったんですよ。だから私の願い事も叶うということです。最初は私もワクワクしていましたよ。いったいどんな特別なことが起きるのかって!」
 男は次第に早口に、段々と声が大きくなっていく。
「でも、ふと思ったんです。特別なことって、良い事とは限らないのではないかって……もしかしたら、何かとてつもなく恐ろしい事が起きるんじゃあないかって! ほら、よく言うでしょ、『嵐の前の静けさ』って。何か、私にとって、とんでもなく、良くないことが、降りかかるんじゃあないかって!!」
 男はバンッと机を叩きながら椅子から立ち上がると、両手で頭を掻きむしりはじめた。放つ言葉はもう叫び声だ。
「ああ!! あんなこと書くんじゃなかった! 何が起こるか分からない願い事なんて書くんじゃあなかった! いったい何が私にはおきる? いつそれがやってくるんだ!」
「ちょっと、落ち着いて!」
 俺は男に声をかけるがすでに半狂乱になっており、聞く耳を持たない。
 そんなに不安になることか? いったい何が彼をこれほど怯えさせるのか。
「怖い。怖いよぉ……! もう嫌なんだ。嫌だ。嫌だ。考えれば考えるほど不安になるんだよぉ……!」
 男はそう叫ぶと、止める間もなく店の外へと走って行った。そして「ああ、もう、だめだ。耐えられない」と叫びながらどこかへ去って行き、そして見えなくなった。
 店内には呆然と立ち尽くした俺と、静寂だけが残った。
「あ……支払い……」
 無銭飲食された。そんなこと、もうどうでも良いが。

 あの出来事から数週間が経ったが、あの男が支払いに来ることはなかった。
 そしてもう二度と来れないことを知る。

 その日、来店した幼馴染みの月光が──いつも黒系の和服を着ている男だが──着ていたのは喪服であった。実家の近所の葬式に出席した帰りらしい。
「兄貴が出るべきだろうに、なぜ俺が……あと仏式はいまいち分からん」と愚痴をこぼしながらカウンター席でコーヒーを飲んでいる。あの男が座っていたカウンター席で。
 話を聞いて分かった。死んだというのは、あの男だった。何が起こるか分からない恐怖と不安に捕われ続けた彼は、その尽きない思考に耐えきれず、次第に精神を崩し、ついに自ら“ぶら下がって”しまっていたらしい。彼があれ程怯えていた正体不明の何かに、彼はとうとう食い殺されたのだ。
 月光の飲んでいたコーヒーは半分残っており、ゆらゆらと波をうっていた。コーヒーが「まだ半分ある」と考えるか、「もう半分しかない」と考えるか。良くも悪くも捉えるのは、いつだって自分次第で変えることができる。あの時、俺が飛び出した彼を追いかけて、そういう言葉をかけてやれば彼の心は変わっていただろうか。いや、あの時はどうにもできなかった。そうなのだが……。男は死んでしまった。
「その男、七夕に『みみずく神社』で願い事を書いたらしい」
 俺がそう呟くように告げると、月光は「はぁ?」と言って愚痴をやめた。そして今回のことを一通り話すと苦笑いをしていた。
「馬鹿な男だ」
「本当に願いが叶うのか? それなら俺の……」
「北欧では」
 カウンターに前のめりになった俺を押し返しつつ、月光は言葉を続ける。
「夏至の時期にひみつの呪文を唱えると、どんな願いでもかなうらしい。だから一番“危険”な時期なんだと」
「危険? 願いが叶うのに?」
「ああ。叶うべきではない願いまでも叶ってしまうから、だそうだ」月光がへらっと笑う。「そいつさ。自分の葬式があったんだぜ。そんなこと……『滅多にないこと』だよなァ」
「……あの男の願いは叶ったと?」
「……良くも悪くも捉えるのは、いつだって自分次第で変えることができるだろ」
 月光は俺に目線を送りながら、カップをゆらゆらと揺らした。コーヒーがそれに合わせて揺れる。ああ、そうか。
 願いの叶った男は──。

「きっと、幸せだろう」

第六話『ねがいごと』おわり。


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