マイノリティの側になるのは簡単
マジョリティとマイノリティの線引きは、
正常と異常の境界線みたいに結構曖昧。
わたしがいつもマイノリティの側に味方をしたくなるのは、
自分の中の一部分にそれを携えているのを理解しているということもひとつある。
そしてそのラインを決めるのはいつも他人だ。
人は本当は自分でその線引きを無視して自由に堂々と自分をそのまま体現しながら生きて行けばいいのに、どうしても他人を比較したり、周囲の中での自分の立ち位置を考えてしまう。
特に日本では個人よりも周囲との和とか、列を乱さないようにということがずっと言われてきていて、そこに日本人の性格や気質も加わり、余計に自分のままでいることが難しい原因を作っている。
そんな社会でことさら誰かをマイノリティの側に押しやり、自分の優越を確認したいという他人からの承認欲求が芽生えるのかもしれない。
いじめが発生する。
自分と少し違う考えや言動に違和感を覚えたとき、人は周囲の少数におそるおそる、遠回しに「あの人、変わってない?」「ちょっと変じゃない?」「わたしだけが感じること?」ということを、あたかも「違うなら別にいいんだけど」「わたしの勘違いかもしれないけれど」といった感じで質問してみる。
そこで賛成されると次第に自信を持ち出し、今度は声を大きくしてさらに周囲に拡散していく。
でもね。それってその人の価値観に過ぎなくて、最初に大きな声で個人レベルに過ぎない排他主義的意見をうっかり表に出してしまっただけのこと。やっていることは結構子供じみている。
逆に今はいじめられている人がもしも最初にそれを言い出していて、仮に賛成されればあっという間に立場は逆転していたはず。初めからいじめの対象にされるのはその人の方なのだ。
自分が大多数の意見の側にいると、人は安心する傾向がある。
怖くて寂しくて、みんな一人になりたくないのだ。「あの人、変わっている」というレッテルを貼って、自分はその人をその他大勢の観客の一人として眺めているのだという優越感を得たいのだ。
自分と他人の主義や主張、立場を個別に分けて考えられなくて、我慢できずに仲間を囲って安心していたい人に多いのかもしれない。
結局、自分に自信がないということ。
例えがいじめじゃなくても別にいい。
少数者
弱い立場の人
それらはみな、多数の側から見ているにすぎない。
でも多数派というのは、その集団に突出した個性がなく、一律平等ということ。わたしには、いったいどこにそれほど魅力があるのか分からない。
危害が加えられなければ、正直あまりそちらの仲間には入りたくない。安全志向で、大勢という安心のマントみたいなものを身にまとっている彼ら、彼女らの仲間には。
正直言うと、ちょっと恥ずかしい。
みんな一緒とかみんな同じ、といったことを欲して「わたしはこっちの側にいる。みんなからズレていなくてああ良かった。普通で良かった」と何の疑いも持たずに安心してしまっている人というのが。
むやみにマイノリティの側になろう、と言っているのではない。
仮にマジョリティとマイノリティを分ける(そんなものが本当になるのならば!)境界線があったとする。
もしもあなた自身が、いわゆるマイノリティの側に属しているのが自然であるにもかかわらず、マジョリティの側に帰属するのがいいことなのだ、それで周囲も安心するし受け入れてくれるのだと信じて軌道修正。自分の本当の気持ちを無視して形だけ大勢の方にいるとしたら。。。
……それがわたしには恥ずかしいだけ。
自分自身を大切に、と言っておきながら、結局は周囲の目を気にして、社会がとか家族がとかの言い訳をして、本当に大切にしなければならないはずの自分自身の気持ちには耳を傾けず、傾けてもその結果本当にありたい自分の気持ちに気づいているのに大勢の方に属してしまう。
そういうのが、気持ち悪いし、自分自身に対してやっぱり再三言うけど恥ずかしいと思うのだ。
みんなちがって、みんないい。
様々な場面で目にしたり耳にしたりする言葉だけど、これはおのずと知れた金子みすゞさんの詩の中の言葉です。(『私と小鳥と鈴と』)
小鳥も鈴も、そして私も、みんな持っているものが違うんだからそれぞれ出来ることや様子が違っても、そのままでみんないいんだよというような意味です。
この詩は子供たちにも人気みたい。
大人が変な入れ知恵しなければ、子供の方がよほどすんなり世界を二分化する境界線なんて飛び越えていけるのかもしれない。
それにそもそも分ける必要がないから、二極化する意味がさっぱり分からないかもしれない。
不要なものなら最初から示さなければいいのにね。
子供という野生児を野放しにしておくととんでもないことになるので、規律が必要という意見には賛成です。不自由の中に自由があるということも知ってほしい。厳しく縛るところは縛りも必要かと思っている。
でも柔らかい頭に、わざわざ本来ないはずの、なくてもいいはずの境界線を引くような教育をする必要はないはずなんだ。
「みなさんは自分の好きな物事を、好きなように選んでいいんですよ」と言っておきながら、ランドセルの色は男が黒で、女が赤(少し前まではこれが基本)。
男はズボンで、女はスカート。
男の子の色として青、女の子にはピンク。
男の子には車、女の子には人形。
男の子は外で泥んこ遊び、女の子ははしたないから足を閉じて!
などなど。。。
こういうことを、幼い頃から何の気なしに大人は刷り込んできたわけです。
これがジェンダーなどの問題で取り上げられるわけですが、性の社会的役割の境界線を引いてきたのも、一見なにも問題がないように思われる大人の刷り込み教育だと思います。
セクシュアルマイノリティの話だけではないし、クラスでのいじめ問題だけでもないけれど、世間には本当にたくさんの境界線がある。
どちらの側になってもいいし、その線の上に立っていてもいいけれど、それで他人を色分けしないでほしいなと思います。
勝手に、一方的に自分とは意見を異なる人、感じ方の異なる人、違う性別の人を好きになる人のこと、人を好きになる感覚が分からない人たちのことを「特殊」扱いしないでほしいなと思います。
視点が変われば、十分あなたもその「特殊」な側に属しているわけですから。
そういう心構えというか心がけをしていれば、不用意に人を傷つけることもないし、余計な悲しみを負う人も少なくなるのではないかと思うのです。
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