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この世でもっとも大切なのは「自分」

今日は、何よりも一番に自分を大切にしようということについて書いてみたいと思います。

 わたしは、この世でもっとも大切なのは「自分」と思っています。
誰でもない、「わたし自身」です。

家族や恋人や子供でもなく、「自分自身」です。

 よく「わが事のように他人にも優しくしよう」と言いますよね。
でも、人には親切にできるのに、なぜ自分には必要以上に厳しく接してしまうのでしょう。他人にするように、自分にもっと親切にしたっていいのに。

たとえ自分の心が傷ついたとしても、何のメンテナンスもせず放っておくという人も大勢います。
自分のことは気に掛けないのに、周囲の人に対しては懇切丁寧にフォローする。たとえ自分が傷ついたり納得していなくてもです。

これって、相当おかしな話です。

 

自分の気持ち、意見を言う

わたしが知っている人たちの中にも、ひどく周りに気を使い本当のことを言えず、鬱屈した気持ちのまま日々を過ごしている人がたくさんいます。

自分を大切にする際に、一番簡単、だけど躊躇してしまうことに、相手に対して自己主張すること自分の意見を通そうとすることがあると思います。

=相手がいることなので、気を遣うんですよねー=
=自分の意見ばかりじゃなくて相手の気持ちも大事じゃないですかぁ=

そうですか?

本当に、そうですか?


これって、ひどく基本的なことですよ。

赤ん坊だってお腹がすいた、オムツの中が気持ち悪いと主張する。

大人になるにつれ、わたしたちは口にすべきことと、しない方がいいことを自ら選別して身を引くことを覚えてしまいます。
これは、自分の本心には嘘をつきながらも、「大人」と呼ばれるようになった年代のわたしたちが勝手に「オトナ」の反応として定義したことにすぎませんよね。

 会社であれ、家族の中であれ、まずはその人が何を考えているのかをきちんと口にしなければ相手には何一つとして伝わりません。

 

誰もあなたのことなど気にしていない

人はみな、自分のことに忙しく、相手のことになど構ってはいられません。そんなに一人一人を見ている時間などないのが現実だからです。
自分のことを考えてみてください。あなたは周囲の一人一人の様子を逐一観察していますか? 

相手に朝挨拶をして、今日も元気そうだな、なんか機嫌が悪そうだな。その程度ではありませんか?

あなたがそうであるように、相手もあなたを丁寧に見てくれているわけではありません。


そんな相手に自分の不平不満を知ってもらうためには、それなりのアクションを起こさなければ気づいてもらえないでしょう。

中には自分が怒っていることや、不満を持っていることを態度で示し、それで感じ取ってもらおうとする人もいます。が、正直言って、これは何の解決にもなりません。

周囲の人はそんなあなたを見て、今日は機嫌が悪いな、プライベートで何かあったかな、当たらず触らず今日はなるべく接しないようにしておこう、などと思ってそれでおしまいです。

 

相手が気づかない態度は、やるだけ無意味です。
ゼロ、あるいはマイナスのイメージを持たれて終わりでしょう。

 

「沈黙は金なり」という言葉もありますが、それは時と場合によるわけで、わたしは自分の意見や言いたいこと、主義主張が本当はあるのに何らアクションを起こさず、だんまりを決め込んだままでいるのは、決して「金」ではないと思います。

それは、ただの弱虫です。

実行力という能力の欠如にすぎないと思っています。

 「言いたいことがあったら、きちんと先生やお友達に伝えなさい」

と子供には教育します。


なぜ大人はそれをしないのですか?

 大人には、子供の分からない様々な事情があるから?

子供だって、子供の世界で精一杯戦っていますよ。
かえって、心が剥き出しすぎて傷ついて、それを表現したり処理したりする術を知らない分、深手を負っている子だって多いのです。

 

 人は各個人が単独で立っている。

人は生まれる時も死ぬ時も、一人です。

その一人一人が確固たる自我をもって、独立独歩していくものだと、わたしは考えます。

それが理想と思います。

自分自身とはこの世で一番長い付き合いになるのです。
そんな自分をもっと大事に扱ってやらないで、一体誰を大事にするというのだろう?

 

「人は一人で生きているのではない。
たくさんの周囲の人たちと支えあって生きているのだ」

そんな声が聞こえてきそうですが、それは当たり前のことです。

わたしたちは社会的人間です。無人島で暮らしているわけではあるまいし、手を携えて協力しあっていくのは当然です。

別に、社会との関係を断ち切って、たった一人で生活しようと言っているのではありません。

「人間が一人一人自分の足で立つ」ことが、みんなと協力しあわないで各自に好きなことをすることにはなりません。

 

志の問題です。

心構えを言っているのです。

 

きちんと自分に与えられたこと(天命といわれるやつです)を成し遂げる努力をしている人間が、頑張っているけれどそれでもうまくいかなくて、同じように自分を高めるために鍛錬を積んでいる人に協力を求め、その中で自分もたくさんの仲間を支え、反対に支えられながら生活していく。


自分から何も成そうとしない者同士が、互いに傷口を舐めあってそれで安心している社会、共同体にはいたくないなと思います。

 

再度書きますが、わたしたちは社会的人間なので、周りの人たちと協力して生活しなければなりません。
ただそれらを構成するわたしたち一人一人が確固たる自分を表現し尽くそうと努め、独立独歩を目指さなければ、その共同体がただのなあなあな集合体にもなってしまうよ、という話なのです。

 

 各人が、自分自身の心の声に耳を傾け(=神とか天とか宇宙の声。※わたしは宗教家ではありません)、きちんと本来の自分自身を表現し尽くした状態の者同士で対峙、向かい合うことが大切なのだと思います。

 自分というのは唯一無二の存在です。

自分を一番に大切に想い、心も体もメンテナンスを加えていき健康に保つためには、自分の心の声をそのまま外に向けて発言することで、今あるストレスは大幅に少なくなります。

自分の身を守るのは、自分です。それは自分の心にもいえます。

 

 自分の本心を語らないということは、もっとも傷つけてはいけないはずの自分自身の気持ちに蓋をして、一人でストレスを抱えることになります。

それでは幸せにはなれません。


誰かの喜ぶ顔が見たい。自分が心底喜ぶのであれば◎ 

中には、周囲の人たちの喜びや笑顔を見ることが自分の幸せという人もいます。別にこれは矛盾してはいません。

ただそこで、自分の中の何かを犠牲にしていなければということです。

そういう人の中には、自分の本心を押し殺したとしても他者に好きなことを言わせたり行動させたりして、結果相手が喜ぶ、相手が笑顔になる。それを見ている本人が嬉しく、幸福な気持ちになれる。
という間接的な幸福感の獲得の仕方もあると思います。

 

※注意していただきたいのは、決して全員がそうだと言っているわけではありません。根っからそういうタイプの方も大勢いらっしゃると思います。

 

それはそれとして、あえて書きます。

結果的に、相手が喜ぶのはいいのです。好きな人や友人が笑顔になってくれるのはいいことだと思います。
ただその過程において、自分の気持ちや本音の部分を横において、それをなかったことにしてまで相手に喜んでもらうというのは本末転倒のような気がすします。

 

自分自身を喜ばすためには何をしたらいいのか。

ストレスフリーを目指して今何が出来るか。

自分を大事にできない人に、他人を大切にできますか? 
幸福になんてできるのですか?

 どうすれば、自分自身のままで生きられるのか。

 ストレスをなるべくためずに心を健康に保つために、もっと自分の心の中をストレートに、わがままに開放してやった方がいいと思います。


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