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『僕が君の耳になる』をどう見る?➁

Hola! くつばこのりこです。パナマに友達がいまして、大学ではスペイン語の授業を取っています。頑張って会話できるようになりたいです。本日は、昨日の続き。でも今日のところから読んでも大丈夫です。HANDSIGNさんの『僕が君の耳になる』の意見交換で出た意見をご紹介します。

☆コメント欄のコメントを考察しよう

YouTubeのコメント欄には、手話や聴覚障碍者に詳しくない人の感想がたくさんあります。それは社会で実際に手話がどう思われているか、聴覚障碍者がどう思われているかということを考えるにあたってのヒントとなりもので、私たちにとってはとても価値があることです。討論をした際は実際のコメントを引用しましたが、ここでは文の趣旨のみを掲載します。

☆「偏見で見ていたこともあったが、障害者は自分たちよりつらい思いをしているのに頑張っているのだから助けたい」

・差別してない風で明らかに「障害があるのに」っていう区切った内容の中から出てる。明らかな決めつけ。
・思わないより思う方が良いけど、この人の中で健常者とろうの人は対等じゃなさそう
・手を貸せる人になりたいと思うことはいいことだと思うけど、理由がちょっと違う気がすると思った。
・優越感に浸りたいだけでは?
・耳が聞こえない人たちは自分たちより可哀想?っていう感じ 当人がどう思っているのかはわからない

多くのメンバーがこのコメントには違和感を感じていて、具体的には「自分たちより不幸」という決めつけ、そして「頑張っているから助けてあげる」という上の立場からの発言の2か所に疑問が残ります。まず1つ目については、「障害者=不幸」というのは幸せは数値化できるものではないので根拠がありません。また、実際例えばいじめられてしまったり、障害を理由に拒絶されたりしているなら、それは当人ではなく「障害者=不幸」と決めつけている人で構成されている社会が悪いのに、責任を放棄していませんか。
また、2つ目の論点については、24時間テレビなどでも話題になることですね。「大変なのに頑張っている」という部分を強調することには、「作品だから仕方ない」という意見と、否定意見が両方存在します。(24時間テレビについての意見はまたnoteにあがります)
この活動をする中で聞いた、「パラリンピックを見た感想で最悪なのは『障害を持っているのにすごい』というものです」という言葉を思い出しました。ああ、声も思い出せるんですが…どなたの発言か思い出せません…私としたことが…。しかしこれは多くの人が言っていることだと思います。人はどこかで誰かを見下している生き物ではあるかもしれませんが、「障害者」をひとくくりにして見下すのは、変です。

☆「手話って考えてみると本当にすごい。 身振り手振りで会話ができるのは素敵」

・文字や声を使わずに気持ちを表せるって人類偉大
・私も手話が好き。手話の単語覚えながら同じこと感じてます。
・(少しずれるけど)ろうの人の手話による会話は、一種の文化になっているそうだ。外国語だと捉えた方がいいと以前ろうの人に言われた。
・口の動きだったりも大切だよねマスクだとわからない
・身振り手振りと手話違うんだけど…

一番下の意見は、「手話=ジェスチャー」ではなく「手話=言語」という趣旨の指摘だと思いますが、実際手話をしている手の動きは身と手を振っているので、あまり細かくならなくていいんじゃないかなと。そこから言葉が生み出されることがすごい、ということだと思います。
私たちのzoomが深夜に及ぶとき、声を出すと家族に迷惑になるので簡単な手話単語や指文字で会話をすることがあります。その時やはり指の形で意思が伝わるってすごいなと思うし、また声色で言葉が伝わる音声の日本語もすごいなと思います。人間ってすごいなと思います。手話がしゃべれるゴリラ(?)も確かいましたが。
手話は手の動きだけでなく口の動きも大切だ。というのはその通りですね。口の形を頼りに、手の動きと合わせて言いたいことを読みとっています。これもいつか詳しくnoteに書きます。
外国語だととらえた方がいい、という意見は、確かに日本手話は文法が日本語と違いますし、当たり前ですが第一言語が日本手話の人もたくさんいます。言語は文化の基盤となるといっても過言ではないので、日本手話には独自の文化やコミュニティが存在します。

意見交換が充実しすぎて長くなっちゃうので今日はここまで。またあした!


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