11.日与の休日 炎の血を流す人(1/5)
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日与がブロイラーマンになる一年前。
その日、日与は他校の生徒にボコボコにされて団地に帰ってきた。もっとも、彼はそれ以上に相手をボコボコにしていたが。
棟に入って防霧マスクを外すと、青痣でいっぱいの顔が露わになる。ケンカのあとは勝っても負けても腹の底を炎に焼かれるような気分だ。日与は世界のすべてに怒っていた。
ふと、階段のほうからサイレントギターの音が聞こえた。そちらを見上げると、踊り場に同い年の少女が座り込み、ギターを爪弾いていた。
ソフトパンク風のファッションだ。髪を薄い金色に染めているが生え際が黒に戻ってプリンになっている。
少女は譜面を見つめながら一心にギターの練習をしている。真剣で真っ直ぐな目をしていた。受験勉強中の明来のように。
その姿はなぜか、日与の目には美しいもののように見えた。
少女がふと顔を上げ、日与に気付いた。彼に目を凝らす。
「あんた、いつもケンカしてない? 飽きないの?」
そう言って微笑んだ。驚いたことに少女は日与を恐れていなかった。他の団地の女は夜道に飛び出してきた野生動物か何かのような目で日与を見るというのに。
「ケンカのほうから来るんだ」
「団地の子がイジメられてるの、助けてやったんだって? やるじゃん」
日与はそれには何も答えず、エレベーターに乗った。
それからは顔を合わせるたび、二人は何となく会話を交わすようになった。
* * *
現在。天外市重工業地帯。
送迎バスの座席に体を押し込んだ労働者たちは、眠る、合法麻薬《エル》を飲む、スマートフォンをいじるなどして現実の外へ逃げ込む。車内には疲労感とそこはかとない絶望感が車内に立ち込めていた。
『天外市警は先月十二日にあったツバサ重工第四〇一八号化学工場の爆発事故を、テロ攻撃の可能性が高いと発表しました。一連の工場連続爆破テロ事件との関与が疑われます。CMを挟み、市警の記者会見の様子をお伝えします――』
『犯罪を許さない社会を作ろう。逃亡犯はあなたの隣人に成りすましているかも知れない! 天外市警広報』
『賞金稼ぎ大・大・大募集! 犯罪者を許さない正義の心があれば経歴不問、年齢不問! キミもヒーローになれる! 天外賞金稼ぎ組合』
カーラジオを聞きながら、パーカーにベースボールキャップ姿の日与は、窓の外を見つめている。
真っ黒な空に突き立ついくつもの煙突、排煙で翳るライト、ツバサ重工が目指す輝かしい未来を示す看板、息を潜めてうつむく労働者たち。街頭には首にロープをかけられて吊るされている死体。
日与が生まれてからずっと見続けている、霧雨に滲んだ暗灰色の世界がそこにあった。
駅前でバスが停まると、作業員は自分たちと同じように疲れ果てている帰宅者の流れに溶けて行った。
日与はそれに加わり、雨除けにすっぽり覆われたアーケード街に入った。居酒屋、風俗店、合法麻薬《エル》薬局などが眼も眩む電飾看板を出している。この先が間借りしている寮だ。
先日、永久は日与と昴に言った。
(((手に入れた情報を探ってみる。あなたたちは少し休んで)))
昴は嬉々として週刊少年ボンドのイベントに向かったが、日与は特にやりたいことが思いつかなかった。
そこで永久に用意してもらった偽の身分証で短期の仕事に就くことにした。カネは永久が回してくれるが、それに頼りきりというのも情けない気がした。
(他にやりたいこともねえしな)
ふと、道端に腰を下ろしている女子高生と目が合った。〝ここは雨ざらしの地獄〟と落書きされたコンクリート壁の前にいた彼女は、日与を見た瞬間に目をいっぱいに開いた。
「あれ……」
その女子高生はぱっと笑顔になった。
「日与じゃん! 何で?!」
いつも団地の階段でギターを弾いていたあの少女だ。
日与は同じくらい驚いて呆気に取られた。
「何でって……仕事の帰り」
「どうしてたの? ある日いきなり兄弟で消えちゃってさ。みんな色んな噂してるよ!」
「あー……事情があったんだ」
日与は適当にはぐらかしながら、少女が抱えている塗装の剥げた楽器に目を落とした。
「まだギターやってたのか」
「これはベース。中古。ガッコでメンバー集めて軽音部作ったんだけどさ、ジャンケンで負けてこっちの担当になっちゃった」
日与にはベースとギターがどう違うのかもよくわからなかったので、曖昧に頷いた。
「そうか」
「とにかく、軽音部のみんなと一緒にバンドやろうってことになってさ」
相変わらず少女の髪はプリンで、ハートマークやらドクロやらの記章めいたワッペンがたくさん付けたミリタリージャケットを着ている。その姿や顔立ちは前見たときよりずっとキラキラして見え、日与はちょっと驚いた。
(こんな娘《コ》だったっけ?)
彼女は嬉しそうに鼻をこすった。
「あのさ、夜ゴハンまだ? 一緒に食べない?」
ふたりは中国人がやっている屋台で軽食を買い、道端に座って食べた。日与は彼女に質問攻めにされたが、とにかく自分と兄貴は元気だと伝えた。
話題は映画や、漫画や、自分たちが今食べている異態ウシガエルの腿肉フライなどといったとりとめのないものに移った。
話題が少女のバンドに移ると、彼女は目を輝かせて熱っぽく語り始めた。人気バンド『モロトフカクテル』みたいになりたい、どこどこのライブハウスで演奏したい、こんな服を着て、あんな生活をして……
彼女の中にいっぱいに詰まっている夢に日与は驚かされた。
老ホームレスが通りかかり、二人に防霧フィルタを乞うてきた。日与が自分の防霧マスクからフィルタを外してくれてやると、老ホームレスは合法麻薬《エル》焼けした声で「恋人たちの未来に幸あれ」と言って去った。
少女は鼻をこすりながら言った。
「恋人だって。いたことある?」
「ない。ケンカばっかしてて女子に嫌われてたし」
「え~。あんた結構かわいくない?」
「あ、でも好きな子ならいた。ずっと前」
少女は目を輝かせた。
「いつ? どんなコ?」
「中学のころ。まあ俺はそのころから女子全員に嫌われてて、なのに妙に構ってくる女がいてさ。別の学校の女子だった。それで、まあ……好きになった。バレンタインにチョコくれたし」
「うまく行かなかった?」
口調から何となく稲日は察したらしい。
日与は苦笑いした。
「俺の兄貴と話したことあるか?」
「ないけど、めちゃくちゃモテるって話は聞いたよ。団地の女の子たち、いっつも明来くんの話してたもん。いなくなって泣いちゃってたコもいたんだよ」
「だろ。つまり、そのコさ……俺のこと、俺の兄貴だと思ってたんだよ。双子で顔がそっくりだから」
「ブフーッ」
少女はジュースを噴き出して大笑いした。日与はうんざりしたような顔をした。
「あぁ、好きなだけ笑ってくれ」
そこに少女と同じ学校の制服を着た女子高生がふたりやってきた。いぶかしげな目を日与にやる。
「お待たせ。えっと……稲日《いなび》ちゃん、そっちは?」
「うん、前に団地が同じだったの」
稲日(日与はこのとき初めて彼女の名を知った)は双方を紹介した。パンクファッションの女子高生がキーボード担当の真魚《マナ》、両腕に刺青を入れたほうがギター担当のリク。
稲日を入れたこの三人が、高校で立ち上げたばかりの軽音部のメンバーだそうだ。
リクはむき出しの腕に花が絡み合った美しいタトゥーを入れている。彼女はそれを自慢げに見せた。
「若気の至りです~」
真魚が笑った。
「バカでしょ。後先とか全然考えないヤツなの」
稲日がジュースを買いに席を外したとき、真魚とリクは顔を見合わせて笑い、日与を見た。
「カレが〝炎の血を流す人〟じゃない?」
「だよねぇ」
日与が不思議そうな顔をすると、ふたりはニヤニヤしながら続けた。
「稲日ちゃんって歌詞を書くんだけど、ある曲をずっと暖めててね。それが炎の血を流す人ってタイトルなの。あんたのことだってひと目でわかった」
「ウチら初のオリ曲なんすよ~。いつかライブで演る予定なんすけど」
戻ってきた稲日が真っ赤になってふたりにネックウォーマーを投げつけた。
「やめろ! 言うなバカ! はずい! 何でもないし!」
三人はこれからリクの実家にあるガレージへ向かうと言った。学校の部室は空きがないので毎日そこで練習しているそうだ。
日与は彼女たちと手を振って別れ、寮へ戻った。
夢を語っているときの稲日の姿が、フラッシュを焚いたように胸の内に焼きついていた。
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