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人間と猿の境界線 《目安時間4分》

 飼えなくなった犬や猫が動物保健所で殺処分されている現状を知ると胸が痛くなりますが、私たちは心の奥でそれを「しょうがない」ことだとして捉えています。

 もしそれが人間ならどうでしょうか。児童養護施設に預けられている子供が殺処分されているということを知ったら、それを「しょうがない」とは思えないのではないでしょうか。

 多くの人々にとって、人間が特別扱いされるべき資格があるということは、どんな議論もなしに、自明のこととして認識されています。

 チンパンジーと人間の子供、どちらか一方だけ命を助けることができるとすれば、多くの人々は何の疑問も抱くことなく人間の子供を助けることでしょう。その時多くの人は「人間のどこがそんなに特別なのか?」という疑問を抱くことすらありません。犬やサルは動物で、人間は人間。この両者の間には疑う余地のない深い断絶があります。私たちが動物から人間になったのはいつからなのでしょうか。

わたしたちはいつから人間なのか

 人間の遠い祖先はサルでした。そこから何回も世代交代を繰り返し、徐々に人間になっていきました。

考えてみてください

 あなたは人間です、そしてあなたの母も人間です。あなたの母の母も人間です。あなたの母の母の母も人間です。

 では、あなたの祖先の猿から、あなたに至るまでの母がみんなが次元を超えて手を繋いだとしましょう。どのくらいの長さになるのでしょうか。そして、祖先の猿からあなたの母に至るまでを見ていくと、徐々に人間っぽくなっていくのがわかると思います。

ではこの中の誰からが人間なのでしょうか?

 祖先の猿からあなたに至るまでの母の中から一人を指さして「あなたからが人間だ」と言うことができるのでしょうか。きっとできないのではないでしょうか。自然界において、境界というのはいつでも不明瞭なのです。

いつまでが子供で、いつからが大人なのか?

 この問題も似ています。中には「二十歳からが大人だ!」と主張する人もいるかと思います。たしかに社会的には二十歳からが大人かもしれません。しかし、それは連続している自然の流れに対して人間が勝手に区切りをつけているだけなのです。

 自然は「連続」ですが、人間は「不連続」を見出すものです。この「不連続」は、わたしたちが考えても分からないことを生み出し、わたしたちの頭を悩ませることとなります。

倫理の境界線

中絶は悪なのか?

 この倫理問題も、わたしたちが生み出す「不連続な区別」による「胎児はいつから人間なのか?」という疑問のせいで複雑な問題になってしまいます。

 自然は胎児も人間も区別していません。自然的な観点から見ると、人間も胎児も自然の「連続」の中で存在する一瞬の出来事に過ぎないのです。

 感覚を持たない胎児から、感覚を持つ成体までを切れ目なく結び付けている発生学的な連続体は、人類を他の種に結び付けている進化的な連続体(サルとヒトの連続体)に類似のものです。「中絶は悪なのか?」という倫理問題は、個人や社会が、胎児と成体をどこで区切るかの問題であり、世界的な共通認識はありません。

 世界的な共通認識がないので、中には「中絶は殺人だ」と非難する人もいるでしょう。それはそれでいいと思います。正解はないので、自由に発言すればよいのです。しかし「中絶は殺人だ」と訴える人にとって、チンパンジーを殺すことは「殺人」ではないのでしょうか。

道徳の境界線

 自然は境界線がない「連続体」です。しかし、わたしたちの道徳的態度はほとんど全面的に「不連続」な種差別的な規範に依拠しているというのが事実であります。

「正しい行ない」と「悪い行ない」、「人間らしい行ない」と「人間らしくない行ない」など、わたしたちの社会における道徳的態度は、結局、これらが「不自然」で「不連続的」で「明確」に分けられることによって保たれています。

 わたしたちの社会から急に「不連続」による「区別(差別)」がなくなり、道徳がなくなったら、社会はめちゃくちゃになってしまうでしょう。しかし、これは簡単に起こりうることなのです。

 もし誰かがチンパンジーとヒトの雑種を育てることに成功すれば、そのニュースは世界を震撼させることになるでしょう。そして政治、神学、社会学、心理学、哲学などは混乱し、二度と元には戻れなくなるでしょう。

 いままで「動物」と「人間」を明確に区切っていたものの上に成り立っていた道徳は、雑種形成などという取るに足らない出来事によって、それほどまでに揺さぶられてしまうのです。この社会は、実のところ、不連続的な境界線によって支配された種差別的な社会なのです。

 いつまでも自分は人間様だと思って威張っていると、いつか痛い目をみることになるでしょう。謙虚に生きていきたいものです。


参考文献
悪魔に仕える牧師 単行本 – 2004/4/23リチャード・ドーキンス (著), 垂水 雄二 (翻訳)

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